Ⅴ
オーブンの代わりに竈を使い、鉄板に並べられた細長い生地がじりじりと焼かれていく。
煙の匂いと香ばしい香りが混じり合い、工房の中を満たした。
やがて取り出したそれは――
「ふ、膨らんで……る……?」
少し膨らみが足りず、端が歪んでしまったエクレアの生地だった。
クレアは複雑そうな表情を浮かべる。
「やっぱり、お菓子作りは難しいですね……」
肩をしゅんと落とすクレア。
けれどロルフからすれば、上々のように思えた。何しろスタートがあれだったのだから。
ロルフは無言でひとつを手に取り、無骨な指で割った。
ふわりと立ちのぼる湯気。
まだ粗いが、ほんのり甘い香りが確かにそこにあった。
ロルフはそのままそれを口にした。
「……中々、悪くないんじゃないか?」
「え……」
表面は固め、内側はまだ少し湿っぽい。けれど、ほんのりバターの風味がして、噛むごとにじんわり甘さが広がった。
「俺は好きだぞ、この味。何と言うか……こう、手作り感があって」
ロルフの精一杯の褒め言葉。
クレアは泣きそうな表情をする。
「そ、それにほら、どうせこの上からチョコでコーティングするんだ……中はクリーム詰めて膨らませばいいし」
ロルフはクレアを励ましたくて一生懸命言葉を並べた。
「これ、渡すんだろ? 自分のために一生懸命作ってくれた菓子なら、もらって嬉しくない男はいないぞ、な?」
後半は、自分でも何を言っているのか分からなかった。
「というか、君らの年代なら……自分にリボンでも巻いて、チョコは私って言えばコロッと落ちるんじゃ……って、俺は一体何を言ってるんだ? おばあさんとの思い出のエクレアをだったよな、すまん、忘れてくれ……」
「――ロルフさんでも、そうなんですか?」
「え?」
至極真剣に、どこか目の据わったクレアが問う。
雰囲気の変わったクレアに怖気つくロルフは曖昧に答える。
「そ、そうだな……?」
「そうなんですね……」
一瞬何かを思案しているようなクレア。そんな彼女を黙って見守る。
クレアは側にあったラッピング用のリボンを手にし、自らの首に巻き付けた。
「? 何をして……」
「た、食べてください!」
「……は?」
「ロルフさんが言ったんですよ! コロッと落ちるって……!」
真っ赤な顔、涙目でこちらを見上げるクレア。
「私、あなたが好きなんです」
嘘を付くような性格ではないと、今日初めて会った相手だが分かる。
今度はロルフが顔を真っ赤にする番だった。
「は、え、あ、えぇ? ま、待ってくれ、君が好きなのは弟のノアじゃ……?」
「ち、違います! ロルフさんです!」
「いやいやいや、可笑しいだろ、こんな指名手配されてそうな顔の男なんて」
「お、男らしくてキリッとしてて、私は好きです!」
否定すればするほど、恥ずかしい言葉が返って来る。
誰かに好意を持たれたことなんてないロルフは、こういう時、どうすればいいのか皆目検討がつかない。
「も、もう、やめてくれ……」
ロルフはお手上げだった。
「俺の、どこがいいんだ……」
それは独り言に近い呟きだった。
信じられないあまり、そうぼやいていた。
クレアは迷いなく言葉を紡ぐ。
「お菓子を作っている時のロルフさんが、好きなんです」
また好きと言われて、過剰に反応してしまう。
けれどクレアの話に耳を傾けた。
「黙々と生地を捏ねている時とか、オーブンを覗く真剣な横顔とか……。強面なのに、お菓子はどれも優しい味で……初めて食べた時、びっくりしました」
胸がどくりと跳ねた。
仕事中の自分なんて、周りからは「恐ろしく無口で近寄りがたい」としか思われていないはずだ。それを好きだと言う人がいるなんて、想像したこともない。
「……それが、仕事だ」
「仕事だからこそ、なんだと思います。手間を惜しまず、一つ一つ丁寧に作る姿……格好いいって、ずっと思ってました」
目を逸らした。まともに見ていられない。
だが、彼女の言葉は、甘い香りのように胸に残る。
ふと、弟ノアの顔が浮かんだ。
やけに含みのある笑いを浮かべてたのは、これのことだったのかと腑に落ちる。
「……ノアは知ってたんだな」
「はい……ロルフさんはその……鈍いから、私が言わないと一生分からないよって、背中を押してくれました」
ロルフは思わず天を仰いだ。
確かにその通りだ。言われなきゃ一生気付かなかった。
「……まったく、余計なことを」
呟いたが、口元はほんの少しだけ緩んでいた。
「私の想いは、余計でしたか……?」
クレアは、震える声でそう問うた。
潤んだ瞳の奥に怯えが見え隠れし、その表情は見ているだけで胸を締めつけるほど切実だった。
ロルフは返事に詰まり、黙り込んだ。
否定したい。そうじゃないと伝えたい。
だが、不器用な男の口からは、思うように言葉が出てこない。
確かに、ノアが言った通りだ。ロルフは鈍く、誰かの好意に気付いたこともなければ、向けられたことすらなかった。
だからこそ――嬉しかった。
胸を叩くような高鳴りも、頬を熱く染める感覚も、初めてのことだった。
だがその感情の裏には、戸惑いが重くのしかかっていた。
ロルフは色恋とは無縁の人生を歩んできた。
粉と卵にまみれ、ただ菓子を作ることだけに没頭してきた男だ。そんな自分に、彼女が長く惹かれ続けるはずがない。
いずれ愛想を尽かされる日が来るだろう――そう思うと、どうしても自信が持てなかった。
震える声で、ようやく口を開く。
「俺は、菓子を作ることしかできない……つまらない男だぞ」
声は低く、弱々しく、情けないほど正直だった。
だがクレアは、一瞬も迷わず顔を上げる。
その瞳は驚くほど真っ直ぐで、揺るぎなかった。
「そんなことありません!」
きっぱりとした声が、空気を震わせる。
「私は、そんなロルフさんを好きになったんです。お菓子作りに真っ直ぐな、ロルフさんを」
その言葉は、まるでロルフの歩んできた日々すべてを、そっと掬い上げるようだった。
胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
恋を知らないロルフには、この疼きの名がまだわからない。
鼓動は落ち着かず、指先まで妙に熱い。
クレアとは今日出会ったばかりだ。しかも弟の同級生で、年も離れている。
常識を並べ立てれば、距離を取る理由はいくらでもある。
それでも……彼女の想いも、自らの感情も、拒むという選択だけはできなかった。
自分に向けられた、真っ直ぐな想いを。
ロルフはゆっくりと息を吸い込み、胸の奥に芽生えたものを、そっと受け入れた。




