地獄の幕開け ――筋肉痛と気品の狭間で――
集中講義を終えた翌朝。エレーナは、人生で初めての感覚に襲われていました。
「……う、動けない……。指先一本まで、全部の筋肉が『淑女の形』のまま固まってる……」
昨日の強行軍。慣れない姿勢、慣れない呼吸、慣れない笑顔。騎士としての筋肉が、全力で「こんなの聞いてない!」と抗議の声を上げています。
しかし、そんなエレーナの絶望を切り裂いたのは、涼やかな鐘の音でした。
「お嬢様、おはようございます。さあ、『ON』のお時間ですよ」
影から現れたクラウスが、一切の情けを捨てた無表情でカーテンを開け放ちます。
「クラウス……お願い、あと5分。……あ、いや、あと1時間……」
「いけませんわ、お嬢様」
背後から現れたマギーの手には、昨日よりもさらにボーンの数が増えた「特訓用ドレス」が握られていました。
午前9時。ロズレイド邸のサロンには、リサーナ皇太后が扇子を手に鎮座していました。
「エレーナ、座りなさい。……1時間、その姿勢を崩さず、お茶を一口ずつ、優雅に飲み続けなさい。少しでも背筋が丸まったら、最初からやり直しよ」
「1時間!? おばあ様、外でフェイたちが素振りを……!」
「あちらは『動』の訓練。貴女がしているのは『静』の戦いです。……マギー、始めて」
マギーがエレーナの背中と椅子の間に、薄い薄い「卵の殻」を挟みました。
「割ればドレスが汚れます。離れれば、その瞬間にクラウスの鈴が鳴りますよ」
一分、二分……。
筋肉痛の箇所に、じわじわと乳酸が溜まっていきます。騎士としての本能は「この体勢は効率が悪い! 重心を下げろ!」と叫んでいますが、淑女としての教育がそれを許しません。
エレーナの額に、宝石のような汗が滲みます。
午後は、クラウスによる言葉遣いの特訓です。
「お嬢様、私がどのような無作法な問いを投げかけても、微笑みを絶やさず、気高くお答えください」
「わかった! いくらでこいだわ!、クラウス!」
「……お嬢様。その『いくらでも来いだわ』をどう言い換えますか?」
「……『お手合わせ、願いますわ』?」
「不合格。淑女は戦いを望みません。……『お相手を、務めさせていただきますわ』です。さあ、100回」
一事が万事これでした。
エレーナが慣れ親しんだ騎士の用語を、一つずつ丁寧に、かつ徹底的に「令嬢の言葉」へと変換していく作業。
「おなかすいた」は「空腹を覚えましたわ」、「あの人」は「あの方」、「やってやる」は「あの方に少し、礼儀をお教えして差し上げなくては」……。
エレーナの脳内は、言葉の並列処理でショート寸前でした。
そして、ついにその時が来ました。
公爵邸の鐘が、午後4時を告げます。
「……本日の特訓は、ここまで。エレーナ、よく耐えたわね」
リサーナのその一言は、戦場での勝利宣言よりもエレーナを歓喜させました。
「ぷはーーーーーーーーっ!!!」
エレーナは椅子から滑り落ちるように床へ倒れ込みました。
「死ぬ……! マギー、肺が平らになった気がする! クラウス、頭の中が『おほほ』でいっぱいだよ!」
「お疲れ様でございました、お嬢様。……さあ、マギーさん」
「ええ、外しましょう」
マギーが手際よくコルセットを解くと、エレーナの肺に新鮮な空気が一気に流れ込みます。
その瞬間、彼女の瞳に「野生」の光が戻りました。
「バッシュ! どこ!? どこにいるの!?」
ドレスの裾を腰までまくり上げ、エレーナは中庭へ飛び出しました。
さっきまで「卵の殻」を気にしていた少女はどこへやら。生垣を一気に飛び越え、全力疾走で訓練場へ。
「お嬢! 待ちくたびれましたよ!」
バッシュが笑って石を投げます。エレーナはそれを空中回転で避け、そのまま巴投げの姿勢に!
「これだよ、これ! これがないと生きてる気がしない!」
こうして、エレーナの「二重生活」の二ヶ月が本格的に動き出したのでした




