22 絡み合う心
805号室へ帰ると、麗奈はベッドの上で雑誌を広げていた。
倫太郎とのキスが頭から消えず、麗奈から距離を取って、ソファで膝を抱えた。
しばらくそうしていると、桃子がやってきた。
「何かあったの?」
第一声でそう訊かれ、情けなくも即座に首を縦に振ってしまった。
江崎の不法侵入、麗奈と倫太郎のキス、いじめっこらしきデブの出現など、起きたことを一通り話した。
慰めを期待している自分が恥ずかしかった。でも、言葉が止まらない。
キスについては、「見間違いよ」と一言いわれれば、それで済ませられたかもしれない。そう思いたかった。
だが、返ってきたのは現実的な言葉だった。
「キスの理由、聞いてないんでしょう? 倫太郎君だけ責めるのはおかしいわ。憶測だけど、二人にも何かしら理由があったはずよ。……男女って、思いもよらない方にいくこともあるの」
「男女って……あいつ少し前まで小学生だったやつだぞ。性欲に目ざめた思春期のエロガキだ」
「そんな言い方ダメ。そのエロガキ時代を、あなたも過ごしてきたのよ」
何も言えずに口をすぼめた。
麗奈の色気を前にして、倫太郎の欲望スイッチが発動するのも無理はない。理解はできる。だからといって、仕方がないと許せるほど簡単なことではない。
あの時、なぜ倫太郎は805号室にいたのだろうか。わけがわからないまま考えこんでいると、桃子が続けた。
「そもそも、彼女を残して傷つけたのは高志君の方よ。誰かを責めるのは違うわ」
「わかってるよ、そんなこと!」
痛い所をつかれて、つい苛立ちを桃子にぶつけた。
若く美しい麗奈には、いつまでも死んだ恋人との思い出に縛られていてほしくない。けれど、誰かとの触れ合いを微笑ましく見ていられるほど、俺はできていない。
倫太郎の年など関係なく、同性に対しての嫉妬が腹の底で渦を巻いていた。
桃子は小さくため息をつき、静かに言った。
「きついこと言ってごめんね。あの子と同じことができないのだから、高志君もつらいよね。きっと今は、あなたが一番苦しいね」
求めていた言葉が、じんわりと心に染みていった。
桃子がいなければ、鋭い言葉を凶器にして倫太郎を切りつけていたかもしれない。
一応、中坊なりの言い分も聞くべきだと思い直し、会いに行くことにした。
外廊下にでると、自宅にいると思っていた倫太郎が、エレベーターから降りてきた。
その後ろに人がいて、見ると、また自殺男がぴたりとくっついている。
倫太郎は相当走ってきたのか、息が荒く、こめかみから汗を垂らしていた。
前方を見据える視線が鋭く殺気立っていて、とても声をかけられない。
二人が並んで部屋に入るのを黙って見送ったが、倫太郎が気になり、後を追った。
玄関に入ると、ちょうど姉が部屋から出てきた。
「また出かけていたの? いつもどこ行ってんのよ」
「関係ないだろ」
「姉として心配なわけよ。通り魔の情報知ってる? 背低めで細身だって。あんたじゃないよね。ほんっとやめてね。家族から犯罪者なんて、まじで嫌だわ」
「勝手に決めつけんな」
倫太郎は姉をねめつけて自室に入り、荒々しく扉をしめた。
高志は、抜き足差し足で倫太郎の部屋に入った。入ったものの、言葉が出てこない。
息を殺して立っていると、倫太郎は、着ていたウィンドブレーカーとTシャツを脱ぎ捨てた。細身だが、筋肉はしっかりついている。
一瞬、何か赤い色が見えた気がした。
上半身裸になり、拳を握りしめて立っている。
ふと拳に目を落とすと、指の付け根にある骨の出っ張り部分に、赤いかたまりを見つけた。
――血?
倫太郎……、おまえ何してた?
心で問いかけ、音を立てないようにゆっくりと唾を飲みこんだ。
ふいに男を思い出し、辺りに視線を走らせたが、自殺男は見当たらない。
他の部屋か。
倫太郎に気付かれないよう、静かに後退して部屋を出た。
すると、近くから唸り声が聞こえた。
殺気を感じ、反射的に横を見る。
犬のタカシが、真横で腰を引き、臨戦態勢に入っていた。数秒にらみ合ったあと、一気に背を向けた。
瞬間、背後から突進してくる足音が聞こえた。
尻を噛まれる!
噛まれないと頭でわかってはいても、身体が反応して逃げてしまう。走り出すと同時に、肛門が締まった。
ドバンッ。
またしても犬は扉に衝突した。
外廊下に倒れ込み、四つん這いになると、扉の奥から「タカシ!」と怒鳴る姉の声が聞こえた。
805号室に駆け戻り、暗い廊下で息をついた。
寝室に入ると、麗奈がマニキュアを塗っていた。
その横で桃子が、麗奈の爪を眺めている。
薄い桃色のマニキュアで、長めの爪と白い肌に良く馴染んでいた。
「女性って、いつも手入れしていて綺麗だとけど、爪が長くても生活に困らないの?」
そう言いながら、桃子に近づく。
「うーん、どうかしら」
首をひねる桃子の手にふと目をやり、しまった! と思った。
桃子の爪は短く、色も艶もない。
視線に気がついたのか、桃子は、ゆっくりと指を折り曲げて爪を隠した。
「私は職業柄、爪を伸ばせないの。花や水にばかり触れているから、手もガサガサで恥ずかしいんだ」
「そんなことない、きれいだよ」
本当にそう思った。
彩られた爪を褒めた後では、嘘臭くとられそうだが、手荒れがひどく爪に色や艶がなかろうと、花に触れてきた手は美しい。
本心のつもりだったが、桃子は、視線を避けるようにうつむいた。
かすかに気まずい空気が流れ、互いに黙っていると、桃子が手をグーにしたまま立ち上がった。
「そろそろ寝ようかな。おやすみなさい」
いつも通りの笑顔で、機嫌を損ねている様子はないが、桃子がリビングを去った後、考えなしの失言を悔やみ、ため息をついた。
麗奈を見ると、こちらに向かってハイタッチを求めているように片手を伸ばしていた。
もう片方の手にはスマホが握られている。爪の写真を撮っているらしい。
あらゆる角度から写真を撮り、一枚一枚確認しはじめた。
せわしなくスライドさせる指を止め、ディスプレイに顔を寄せた。
麗奈の後ろに回りこみ、背後から画面を覗き見ると、指を広げている画像の奥に、黒っぽい縦長の物体が見えた。
本来なら白い壁しかないはずの位置に、はっきりと写っている。
魔女の森に出てきそうな、ねじれた老木のようで、幹にあいた三つの歪んだ穴が、目、鼻、口に見える。
麗奈は、二本の指で画像を広げて、その箇所を拡大した。
俺だな……。
人間の顔には見えないが、撮影時の二人の位置関係からして、俺が写り込んでしまったとしか思えない。
写りは気味悪いが、自分の存在がようやく形になった気がして嬉しかった。
写真に目を凝らしていた麗奈が、ディスプレイに向けて一言放った。
「きも」
――だよね。
どうしてもっとはっきり映らなかったんだろう。
麗奈は、虫でも払うような仕草で、写真データを消去した。
その後、部屋を暗くしてベッドに入ったが、数秒もしないうちに立ち上がって照明を点けると、タオルケットを頭からかぶって横になった。
気味の悪いものを見て、暗闇が怖くなったか。
もはや恐怖の対象でしかない自分の存在がむなしく、好きな相手にフラれた時の深い悲しみに襲われた。
麗奈が眠りにつき、寝返りをうってようやく布団から顔が出た。
ふっくらとした唇に、そっと口を寄せてみる。
唇の記憶は鮮明に残っているのに、肌では何も感じない。
俺は、いつまでこうしていればいいのだろう。
歯痒い思いでイラつくのも、もがいて沈んでいくだけのこの状況も、なんだか疲れてしまった。




