消えた記憶と愛する人の嘘 8
どれくらい、こうしていたのか。
病室の扉が静かにノックされる音がして、ナースが顔を覗かせた。
「高木さん、おはようございます。検温しますね。」
「……おはようございます。」
体温計を受け取り、ナースの指示に従う。
彼女は淡々とした手つきで記録をつけ、特に変わりないことを確認すると、優しく微笑んだ。
「朝ごはんはもうすぐですよ。しっかり食べてくださいね。」
「あ……はい。」
生返事をすると、ナースは静かに病室を出ていった。
再び、静寂。
機械的な検温の時間が終わると、また一人きりになる。
耳を澄ませば、廊下の向こうから聞こえてくるかすかな話し声や、ナースシューズの足音。
けれど、この病室の中だけは、まるで時間が止まっているかのように静かだった。
俺はもう一度、ゆっくりと息を吐く。
「……午後には、舞子が来る。」
彼女はきっと、今日も明るく笑って俺のことを気遣ってくれるだろう。
俺は彼女のことを何も覚えていないけれど、それでも彼女がここに来てくれることが、ほんの少しだけ心を軽くする。
それに――
食事制限はない。
「何か、美味しいもの持ってきてくれるかな。」
そんな期待を抱いた瞬間、わずかに気持ちが和らいだ気がした。
けれど、すぐにまた、不安が胸の奥に沈んでいく。
どんなに彼女が優しくしてくれても、どんなに楽しく話してくれても、
俺は彼女を「知っている」ことにはならない。
何も思い出せないまま、俺は彼女の隣に座る。
それが、こんなにも心細いものだとは思わなかった。
窓の外を見る。
朝の光はすっかり強くなり、静かな病室の中に長い影を落としていた。