人殺しの記憶
久しぶりの更新です、楽しんでいただけますように。
人を殺したことがあるだろうか。
きっと、ほとんどの人が、いや、みんな否と答えるのだろう。
その身に覚えがあってもなくても。
私もきっと、否と答える。
この心に反して。
私は人殺しだ。
誰に聞いても、違うと答えてくれるだろう。
もちろん、法律も私を人殺しだとは、言えない。
でも、私自身は、私を人殺しと言う。
もしもと、もしかしたら、
そんな言葉なしには始まらないことばかりだ。
あの時の私が、もっと早く気が付いていたら。
もっと、頻回に訪室していたら。
もし、あの時こうしていたら。
仕方がないことだ。
仕方がないことなの?
私の心が、私を慰め、私を責める。
それを終わらせるのはいつだって、惰眠とアルコール。
時々、買い物。
私の心は、いつもどこか冷たくて、楽しくても、うれしくても、
どこか後ろめたい。
柔らかくひんやりとしたベッドに身を沈め、私は意識を手放す。
その前に必ず、喉が焼けるようなアルコールを求めていることにはずいぶん前から気が付いている。
でも、どうすることもできない私。
そんな私が、私は苦手だ。
昔から、苦手なことはなるべく避けてきた。
苦手なことを悟られることのないよう、そっと、でも確実に避けてきた。
そのツケが20代も終わりに差し掛かり、全て回ってきたのだろうか。
ベッドサイドの窓のカーテンから差し込む光が、ぼんやりと室内を照らす。
チェストの上の時計は五時前。
真理は一気に広がる不安をこらえ、そっと瞳を閉じる。
よくあることだ。
今が朝の五時なのか、夕方の五時なのかわからなくなる。
大きく息を吐き、そして、記憶をたどる。
そう、今は夕方の五時、一七時だ。
深夜勤務を終えて、帰宅。シャワーを浴びて、ベッドにもぐりこんだのが一二時過ぎ。
――大丈夫、寝てても大丈夫、寝過ごしてない。
もう一度、息を吐き、掛け布団にもぐりこみ、瞳を閉じる。
しかし、もう眠りは訪れない。
体は鉛のように重く、マットレスに沈み込み、思うように動かすことができない。
意識ははっきりとしているようで、どこか曖昧だ。
何かの狭間にいるような不安定さがあり、ここにいてはいけないような、逃げ出さなくてはならないような、焦燥感がある。
しかし、真理は起き上がることも、眠ることもできないままだ。
真理の耳に声が聞こえた気がした。
悲しい慟哭が。
ターミナル期、それは終末期とも呼ばれる。
病気が治る可能性がなく、数週間から半年程度で死を迎えるだろうと予測される時期。
坂本真理の勤務する地方都市の市民病院。急性期病院である、この市民病院でも、ターミナル期の患者さんはいる。
専門とする病院や自宅で過ごすことを選ぶ猶予さえないままにターミナル期を迎えてしまうのだ。
それは、ぎりぎりまで、体の限界まで、化学療法などの積極的治療を希望される患者さんは少なくないからだ。
ーーこの抗癌剤を試してみましょう
治癒の、延命の可能性があるなら、医師も家族も、もちろん、患者さん自身も試すだろう。
抗癌剤の治療は、副作用がある。
そして、癌は確実に身体を蝕むのだ。
もう、抗癌剤の治療に身体が耐えられない。
もう、試してみる抗癌剤がない。
それは、余命宣告にも似ている。
空は青く晴れ渡っているが、嵐に似た強い風が吹いている。
いつもの通勤路の信号待ち。
フロントガラスから桜の花が風に舞い、くるくるとアスファルトの上を踊る様子を真理はぼんやりとみていた。
ガラスに張り付いたひとひらの花びら。
この花が愛されるのは、散ってからもなお、美しいからかもしれない。
ひとりの桜を愛した医者を思い出す。
その彼の言葉が浮かび上がる。
ーー人はいつ死ぬと思う?
信号が青に変わる。
真理は、アクセルを踏んだ。
白衣に身を包み、増改築を繰り返した院内を進む。
窓のない低い天井の長いトンネルのような廊下は病棟につながっている。
まるで、異世界への通路のようだ。
いつもと大きく変わらない日常。
情報収集、朝のミーティング、患者さんの体を拭き、寝衣を整え、点滴の管理、ドレーンの管理、食事の介助、内服の介助、こなしてもこなしても、ナースコールは鳴り止まず、仕事はあふれ、湧き出てくる。
そんな真理に、顎のあたりで切り揃えた髪を耳にかけながら師長さんが、にっこり微笑み呼び止めた。
「坂本さーん、緊急入院があるからね。よろしく。今は外来、もろもろの検査を終えてから、上がってくるから」
師長さんの笑顔を見て、定時退社の夢は、消える。
真理は「はーい」と返事をして、部屋の用意をするために、詰め所を出るのだった。
師長は、誰がどんな仕事をしていて、どんな様子か見ていないようで、よく見ている。
本当によく見ている。
本日は10人いる勤務者で、真理以外の勤務者に、緊急入院の対応可能な余裕があるスタッフはいない。
真理自身もそれが分かるくらいに、経験年数を積んでいる。
緊急入院の患者さんの主治医は、金田先生だ。
妙に歩きやすそうなシューズを履いて、細身の体にこれまた、細身の白衣を着ている。
すれ違がって、振り返るような印象のある顔立ちではない。むしろ、少し話をしても、次の瞬間には忘れてしまうタイプだ。しかし、少しづつ広くなっているおでこを『気のせい』といい張るところが、なかなかに面白い医師だ。
真理は自分の年齢と五つしか変わらないと聞いてひどく驚いたことは、記憶に新しい。
病棟にふらりと現れた金田先生に真理は声をかける。
「先生?立川さんが緊急入院してみえるの、聞いてますか?」
「ああ、指示を出したから、カルテ確認してくれる?坂本さんが入院担当?」
「はい、そうですけど?」
「なら、安心だと思って」
「……何ですかそれ」
「うん、かなり状態がよくないから。坂本さんくらいのベテランならね」
「先生、私の事、ベテランって思ってたんですか」
「え?ベテランでしょ?その威圧感とか?冷静なとことか?」
「……」
真理は正直なところ、ほかのスタッフに少々、ビビられていることに気が付いていたが、こうして面と向かって言われると、返答に困る。
何も言わない真理を気にすることなく、金田先生は大きく息を吐く。
「立川さん、ほんとに状態よくないんだ。肺にもかなり転移が見られていて、胸水も溜まってる。さっき、急変時の説明して、DNRで了承取ったから。あとのフォローを頼むね」
表情を曇らせる金田先生から、点滴や食事、内服などの指示をもらい、準備を進めた。
立川さんは六〇代の女性。
ご主人とは早くに死別。母子家庭で、女手一つで息子さんを育て上げた。立川さんは兄弟姉妹とも疎遠ではないものの、なにぶん遠方に住んでいるとのことで、行き来はないとのことだ。
長年勤めた会社を定年退職され、息子さんも結婚し、孫も生まれた。
穏やかに友人との旅行など、楽しんで過ごそうと思っていた矢先の体調不良……。
姑息的手術、化学療法、立川さんは穏やかに闘病生活を送っていた。身体的な辛さも、精神的な苦しさも、スタッフに見せることない。
そして、何度めかの化学療法を終え、にこやかに退院。
今日、緊急入院された立川さんの以前の面影は見当たらない。
いつから食事をとれなくなったのだろう。
歩くことはもちろん、その場に寝ていることもつらそうだ。
痛みがあるのだろう、表情は険しい。
――大丈夫ですか?
そんな言葉、かけられるわけもなく。
真理はただ、その傍らで、むくんだ手をそっと握る。
夕方になり、仕事の帰りに慌てて駆け付けたという、息子さんは表情を強張らせている。
「こんなに調子が悪いなんて……。何も言わないし、電話しても大丈夫だっていうばかりで。ちゃんと見に行けばよかった」
眠る立川さんのベッドサイドで、じっとうつむいていた。
真理はその背中にかける言葉を見つけられない。
「立川さん、息子さんが連絡された時には大丈夫って言ってみえたんですね」
「はい。でも、心配かけたくないって思う人だって、病気もよくないって、わかってたのに……」
小さく震える肩に何も言えなかった。
疼痛のコントロール、点滴投与によって、立川さんの状態は改善がみられた。
日常生活動作において、全般に介助が必要であるものの、その表情はやわらぎ、息子さんやそのお嫁さんと小さな孫ちゃんと穏やかに過ごされていた。
「急に動けなくなったから、家がぐしゃぐしゃで。何とかしたいから、一度帰りたいわ」
立川さんはそう言って、口角をあげる。
「そうですね、外出の許可、金田先生に聞いてみましょう」
そんな会話をした。
退院はできないだろう、外泊も難しいかもしれない。
でも、外出なら、息子さんの協力を得ればできる。
金田先生の許可はすんなりと取れ、息子さんの仕事の都合で日程を決めた。
その日を楽しみに微笑んだ。
その日を迎えることができると、真理は信じていた。
深夜勤務は、二時と四時に巡回に各部屋に行く。
いわゆる、巡視という業務だ。
もちろん、その時間以外でも、必要があれば部屋に行く。
そして、ナースコールがあれば、行く。
時刻は四時をわずかに回った。
真理は照明の落ちた廊下を懐中電灯を片手に歩く。
真理自身のスニーカーが鳴らす靴音だけが、深夜の病棟に響いた。
真っ暗な居室で眠る患者さんをそっと観察する。
そっとドアを開けて、足音を忍ばせ、懐中電灯の光が患者さんを起こしてしまわないように。
一部屋、一部屋、慌てずに、カーテンを開ける。
眠る患者さん自身だけでなく、ドレーンや点滴をチェックする。
立川さんの部屋にはいり、そのカーテンに手をかけたとき、真理の胸はドキリとひとつ、大きく打った。
――え。
「はぁはぁ」
息苦しそうな立川さん、表情は険しく、息は荒い。手足は冷たく、室内が暗いためわかりつらいが、チアノーゼも軽度見られている。
「……立川さん?苦しいですか?」
「は、はい」
「ほかは?痛くはないですか?」
真理は酸素の量を増やす、指先は血中酸素濃度は測定できない。
――あぁ、きっと急性呼吸不全だ。
ドクドクと自身の胸の音が、耳にまとわりつく。指先が冷たくなっていくのが分かり、真理は手をきつく握りしめ、詰め所へと駆け戻る。
一緒の勤務のスタッフに当直医への連絡、息子さんへの連絡を依頼する。
呼吸状態は悪化の一途をたどる。
「立川さん。立川さん」
真理はその名を呼び、その傍らにいることしかできない。
急変時は『DNR』
大きくカルテに記入されていた。
DNRは《do not resuscitate》蘇生を望まず。尊厳死を希望する患者の意思表示を示す言葉で、心肺停止後の蘇生処置を拒否すること。本人または家族の希望により、癌などで救命の可能性がない終末期患者などに心肺蘇生処置を施さないこと。
立川さんの全身状態は非常に悪い。今、たとえ気管内挿管をして人工呼吸器管理をしても、全身状態が良くなることはない。気管内挿管は患者さんの苦痛も大きい、会話もできない、意識もない、いたずらに治療を、苦痛を長引かせる結果にしかならない。
そして、立川さんは、その処置を希望していない。
わかっている。わかってはいても、何もしないで、その手を握っていることしかできないことが、真理は苦しかった。
当直医は偶然にも、主治医の金田先生だった。当直室のベッドで休んでいたのだろう。
いつもより、着心地のよさそうな服に白衣は着ずに、手に持ったままだ。
「……先生、立川さんが急変して……」
「うん、……このまま何もしないから、そばにいてあげてよ」
「……はい。立川さん、今、息子さんに連絡したから、もうすぐ来てくれますよ」
その言葉が聞こえたのか、聞こえなかったのか、真理にはわからないが、ほんのわずかに、立川さんの瞼が動いた気がした。
息子さんの到着を今か、今かと待つ。はやる気持ちをおさえ、時計を見つめ、立川さんの手をそっとにぎった。
その手が真理の手を握り返すことはなく、どんどん熱を失っていく。
そして、立川さんの呼吸は止まり、心臓は鼓動を止めた。
息を切らせ、病室に飛び込んできた息子さんは、ベッドサイドにたたずむ真理はまったく目に入らない様子で、立川さんに駆け寄った。
その肩を掴み、声を絞り出す。
「――母さん!母さんっ!」
悲しい叫びが嗚咽に変わっていく。
その声は、真理の耳から、心の奥へとしみこんでいく。
立川さんが退院するころには、とっくに夜は明けて、雲の合間から、青空が覗いていた。
日中は春めいてきたが、早朝の風は冷たく、頬をなでていく。
「お世話になりました」
立川さんの乗った、葬儀会社の車の前で、息子さんは表情なく、言葉を紡ぐ。
真理はかける言葉など、見つけられるわけなどなく、そっと頭を下げる。
「突然のことで、おつらいと思います。立川さんは本当に我慢強い方でしたね」
金田先生の声が聞こえた。息子さんはくしゃりと顔を歪め、下を向く。
金田先生の手がそっと、肩に乗り、手のひらで顔を覆う息子さんに、何かを呟いていたけれど、真理の耳には聞こえてこなかった。
走り去る車が見えなくなるまで、立川さんを思って、深く礼をする。
真理の横では、金田先生が深く頭を下げてた。
――立川さん……
足元には、ひとひらの桜の花びらが落ちていた。
もう、どこかで桜が咲き始めたのだろうか。
その花びらが風に吹かれて、視界から消えても、頭をあげることができなかった。
「坂本ちゃーん、今日、飲みに行こう!」
そんな明るい声で真理に声をかけたのは、勤続年数30年を超える伊藤さんだ。
「最近新しくできた居酒屋に行こうって話になっててね、坂本ちゃんも一緒に行こうよ」
三度の飯も好きだが、アルコールも好き。息子はすでに成人し、古ぼけた夫と二人暮らしのため、急に飲みに出かけることは推奨されているらしい。
いいとか、いやだとか、返答をする前に、真理が参加することは決定事項となっていた。
最近できたという居酒屋は、大きさや雰囲気の異なる個室に分かれていて、少々照明が暗い。
個室は完全な壁で遮られているわけではなく、タペストリーや背の高いグリーン、衝立、格子戸がバランスよく配置され、それぞれの雰囲気に合わせたカウチやチェア、テーブルなどが配されている。
隣のテーブルのざわめきは、完全に遮られることはなく、しかし、その話の内容は聞き取れない。また、立ち働く店員の姿もチラチラと見え、閉塞感を感じない。
誰かとのデートの下見としか思えない店選びに、真理は苦く笑う。
直前になって声をかけて集まったわりに、外科病棟の職員は意外なほど多かった。勤務を終えた職員が合流したり、早々に帰ったり、誰かが誰かを呼んだり、常に十名近い人数が飲み食いをしていた。
伊藤さんがカラカラと笑う声が心地よく、テーブルの端のほうで、ぼんやりと真理は杯を重ねる。
ふと顔をあげると、いつの間にか、目の前には金田先生がいた。
もぐもぐと、誰かが頼んだまま、手を付けられていなかった生春巻きを頬張っている。
真理は酔いも手伝って、無遠慮に目の前の金田先生を眺めた。短めの髪に広めのおでこ(いわゆるМ字はげというヤツ)と、細面で、少し下がった眉、思いの外に長いまつげ、何より瞳に温厚さがにじんでいる。
――優しい顔してるなぁ
「先生、またおでこがひろくなったんじゃない?」
思いとは異なる言葉が出てしまうのは、いつものことだ。
「前頭葉が進化している影響だ」
「……さらなる強靭な理性を求めなきゃならんほどに、煩悩にまみれてるの?」
真理はくすくすと笑う。
愛妻家で有名な金田先生からは、煩悩という言葉があまりに遠い。
「いろいろ大変なんだよ」
「先生、奥さん大事にしてるってもっぱら評判ですよ」
「はぁ、大事ねぇ」
金田先生は苦く笑い、誰かが頼んで、食べ残した春巻きを口に運ぶ。
誰かと誰かが、付き合っているとか、不倫しているとか、そんな噂が病院内では絶えない。
実際に、看護師と不倫の末、離婚に至った医師もいる。その後、その看護師と結婚したかどうかまでは知らないが、とにかく、男と女の職場だと幾度となく、思った。
しかし、真理は男女の駆け引きは得意ではないし、思ったことを素直に言葉にできるほど若くもなく、可愛げもない。既婚者でも構わないというほど、恋愛に夢中になることもない。
とどのつまり、恋愛からはずいぶんと遠ざかっている。
正直、面倒だとも思っているが、モテない言い訳と言われればその通りだろう。
既婚者からのアプローチはときおり受ける。
真理のどこをどう見て、そう思うのかは真理自身はわからないが、割り切ったお付き合いができる相手として、認識されることがある。それをやんわりとでも、きっちりとお断りするのは、少々厄介だ。
既婚者であり、愛妻家の金田先生は、そういう面でも安心できる存在であり、真理はいつもより、気を抜いていた。
ここのところの、睡眠不足、眠前のアルコールが体を蝕んでいるのも、原因の一つだろう。
いつの間にか、アルコールの許容量を越えていた。
職場の人たちとの飲み会で許容量を超えたことなど、今まで一度もなかった。
しかし、それに気づくことはなく、真理は金田先生にちらりと言葉をこぼす。
「先生、立川さん、私、つらかったわ。……正直、まだ、全然ダメ」
「坂本さん?……坂本さんでもそういう風に思ったりするんだ」
「思うよ、私じゃなかったら、死ななかったのかな。息子さんが来るまで……、せめて」
真理は目の奥が、じんと熱くなる。
――飲み過ぎだ
そう思った時には、鼻の奥がつんと痛んだ。泣いていることを見られたくなくて、うつむく。
目の端に、金田先生がグラスを真理の前に置いたのが見える。おしぼりで、目元を押さえてから、顔をあげると、真理の前にはウーロン茶のグラスが置かれていて、真理はそっと手に取る。
そんな様子を金田先生は、テーブルに肘をつき、手のひらで頬を支え、じっと見ていた。
「……人の生き死には、もっと人智を超えたところにあるもんじゃないかな。俺たちの到底、届かないところ」
「……え?」
「俺は、そう思うよ。画像とか、血液データとかを見ると、とんでもなく悪いのに、長く生きる人もいれば、データは悪くないのに、あっという間に悪くなる人もいる。完璧な手術ができても、再発する人もいる。完全に腫瘍が取り切れなかったのに、完治する人もいる。なぁ、ほんとにわからないものだよ」
「そうんな風に先生は思うの?俺が治してやったって、思ったりするんじゃないの?」
「思わないよ、少なくとも俺は一度もそう思ったことないな」
何でもないことのように、頬杖をついたまま、手にしていたグラスを傾ける。筋張った大きな手は爪が短く切りそろえられていた。
「……なんでも治せる医者になってよ。男だろぅ」
真理はアルコールで少し、ぼんやりとした意識のまま言葉を発する。
「?」
「青い鼻のトナカイじゃないとだめなのかな。……世界中の病気がなくなればいいのに。誰も、死ななきゃいいのに」
万能薬になる医者がいればいいのに。そして、世界中の病気がなくなってしまえばいい。もう、誰かが死んで、誰かが悲しむ姿を見たくない。
「……何言ってんだ。だいぶ、酔ってんな」
金田先生は少し困ったように笑って、その表情がたまらなく優しさをにじませていた。
一瞬、グラスを持ったままの手に縋りついてしまいそうになる。真理は自身のその衝動に驚き、思いをやり過ごすように、口を噤む。
「……」
「その人が死ぬのは、毒キノコスープを飲んときじゃなくて、忘れられた時なんだろう?誰かが覚えていたら、誰も死なない」
金田先生を真理は見ることができなかった。
一度、おさまっていた目の奥が急激に熱くなり、涙があふれだした。心の中に納まりきれない思いが、ぽろぽろと涙となって、眦からこぼれ落ちる。その思いを堪えようとすれば、するほど、声になって漏れてしまう。唇をかみしめ、硬く瞳を閉じ、真理はうつむいて、おしぼりを目におしつけ、声を殺す。
真理の前に座る、金田先生が何でもないこともように冷めたたらこスパゲティをすすっていることが、ありがたかった。
真理は他の誰にも、泣いていることを見られたくはなかった。
金田先生が仰々しく声をかけられていたら、ほかの人は真理の様子がおかしいことに気が付いただろうし、優しい言葉をかけられたら、涙は止まらない。
そっとしておいてもらえることが、彼の優しさだということに、気が付くくらいには、酔いはさめていた。
――先生、ありがとう
「先生も、漫画、みたりするんだね」
思ったことはやっぱり、素直に言葉にはならない。
「まぁな、有名だろう?」
そういいながら、隅にあった未使用のおしぼりをそっと真理に渡して、微笑む。その笑顔をみていられなくて、真理は金田先生の食べていた冷めて食べごろを逃したスパゲッティに手を伸ばす。
それはすっかりのびていて、アルデンテだったとはにわかに信じがたい。箸で持ち上げると、一塊になり、ブチブチと短く切れ、たらこの小さなピンクの粒が、ぽろぽろと皿にこぼれ落ちる。
丸い大きな白い皿に、桜色の粒が転々と模様を描く。
真理は大きく息を吐き、いつか見た、風に舞い散る桜を思い出す。
――私は、忘れない
人の死は避けられない。そして、真理には忘れることができない。
わすれなくていいことで、覚えていていいことで、それを抱えていればいい。
それを抱きしめて、しっかりとゆっくりと進んでいくことしかできない。
そのことに気が付いた時、
真理は何かに少し、許された気がした。