第1話 婚約者マリアンヌ
雨粒が眼球に当たる。
目を閉じたくても、瞼を動かすことすらできなかった。
崖の上から、婚約したばかりの彼女が、私を見下ろしていた。
最愛の人に看取られて死ぬ――。
それが、こんなにも惨めで、恐ろしいことだとは思いもよらなかった。
彼女の白い手には、まだ私を突き落とした感触が残っているのだろうか。
そんなことを考える前に――私の意識は雨に溶けた。
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――はっ!?
目覚めると見慣れた睡蓮模様の天井が視界に飛び込む。
私の胸の上には、あの白い手が乗っていた。
「おはよう……レイブン……もう起きたの?」
――夢だったのか?
それにしては、やけに生々しいような。
だが、こうして私は生きている。
幸せの絶頂だからこそ、不安になっているだけか……?
「マリアンヌ……おはよう……」
「どうしたの?
すごい汗よ……怖い夢でも見たのね」
――彼女は優しく、タオルで汗を拭ってくれた。
「マリアンヌ……今日は、4月11日か?」
「え、ええ……お義父様の誕生パーティーに向かう日ですわよ。夕方には馬車が来ますわ」
父上の誕生パーティー……それに、馬車……昨日の夢では、その道中でマリアンヌに崖下へ突き落とされた。
……本当にただの夢なのか?
言い知れぬ不安が背筋を這う。
同じ時刻――同じ雨空――私は馬車に乗っていた。
夢と同じならここで……。
「すみません。馬車を停めてくださる?」
マリアンヌが冷たい声で使用人に声を掛ける。
彼女の蒼い瞳には覚悟の色が浮かんでいた。
「レイブン……少しいいかしら?」
「あっ……ああ……」
怖かった。夢が再演されることが……でも、私は確かめなければならない。
震える手で車室の手すりを掴む。
「ふふっ……」
マリアンヌは笑顔で手を差し出す。
その目は笑っていなかった。
「マリアンヌ……最後に教えてくれないか?」
「なんでしょう?」
「私を愛していたのか……?」
「ええ……愛しています……」
それが私の耳に残る――最後の彼女の言葉だった。
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睡蓮模様の天井……彼女の白い手……雨の匂い。
何もかもが今朝と同じだった。
「おはよう……レイブン……もう起きたの?」
その言葉を聞くのは――もう三度目だ。
「マリアンヌ……少し待っていてくれ……」
私は倉庫から縄を取り出した。
自分がなぜ、死ぬ前の時間を繰り返すのか……その疑問よりも、“愛している”と残した彼女が、どうして私を殺すのか……それが知りたかった。
「レイブン……どうしたの?
こんなの……や、やめてください!」
ベッドをマリアンヌの悲鳴が揺らす。
「マリアンヌ……どうして私を殺す?」
「な、何を言っているのか……わかりません……」
彼女は泣いていた。演技かも知れないが、私に見分ける術はなかった。
「マリアンヌ……もう一度聞く……どうして私を殺す?」
私は、壁に掛けてあった剣を抜く。
「レイブン……貴方を愛しています!
最愛の人を……どうして私が殺すというのです!」
彼女の濡れた蒼い瞳は一寸の曇りもなかった。
私がそう信じたいだけだったのかもしれない。
「マリアンヌ……すまなかった……怖い夢を見たんだ」
これ以上、最愛の人を恐怖に陥れたくなくて、
彼女の腕の縄を切った。
そして、マリアンヌの白い手に剣を手渡した。
「私を殺したいなら……殺してくれ……」
これで、彼女の真意がわかるだろう。
マリアンヌは激しく首を左右に振った。
彼女の綺麗に巻かれたブロンドの髪は……激しく乱れていた。
「そんなこと、するはずないじゃありませんか。
私は、貴方を愛しています!」
彼女の細い腕が――私の背中を包み込む。
昼過ぎ……私は起きる気になれず、寝室で寝ていた。
床には今朝方の剣が剥き出しのまま置かれていた。
「悪夢の中で、さらに悪夢を見ていたのか?」
死んだら時間が巻き戻る――そんな非現実的な話より、悪夢の続きだと考えるほうが、まだ現実的だった。
「レイブン……まだ寝てらしたの?
お義父様の誕生パーティーは行かないの?」
「少し、気分が優れない……父には、欠席の旨を記した書簡を出した」
「そうなの……」
マリアンヌの声が低くなる。
カチャ――何かの金属音が響く。
……マリアンヌの唇が私の唇に重なった。
「ぐっ……」
腹部に刺すような痛みが走る。
――彼女の手には、床に落ちていた剣が握られていた。
その刀身は赤黒い血で染まっていた。
遠くなる意識で……彼女の涙が……私の頬を濡らした。
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「はっ!?」
慌てて飛び起きた!
「ど、どうしたの……レイブン……すごい汗よ?」
「マリアンヌ……今日は4月11日だな?」
「え、ええ……本当にどうしちゃったの……」
「すまない……少し出てくる!」
「えっ、どういうことです?」
やはり、時間が巻き戻っている。
今朝、剣を手渡した時点で、マリアンヌは私を殺せたはず……そうしなかったということは、昼までのどこかで、私を殺す理由ができた?
……逃げればよかったのかもしれないが、殺されるだけの理由をどうしても知りたかった。
剣を突き立てられた感触が――まだ腹部に残っている。
それでも、私は真相が知りたかった。




