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第1話 十二年前の後悔

「ユリ、別れよう」


口にした瞬間、藤沢ユリの足が止まった。


高校二年生の春。放課後の通学路には、まだ少し冷たい風が吹いていた。


「……え?」


隣を歩いていたユリが、俺を見上げる。


小柄で、色白で、大きな目をした女の子。肩にかかる髪が風に揺れていた。


付き合い始めて、まだ二週間しか経っていない。


「だからさ、俺たち、別れた方がいいと思うんだ」


「……どうして?」


ユリは困ったように眉を下げた。


俺は目を合わせられなかった。


本当の理由なんて、言えるわけがない。


付き合っていることがクラスに知られてから、一軍女子たちに毎日のようにからかわれていた。


『ねえ永井くん、今日も藤沢さんと帰るの?』


『えー、二人ってどこまで進んでるの?』


『ねえねえ、もうキスした?』


悪意を隠そうともしない、意地悪な笑い方だった。


でも、当時の俺には言い返す勇気もなく、ただどうしようもなく恥ずかしかった。


誰かと付き合っている自分を、周りに見られるのが嫌だった。


たった、それだけのことだった。


「なんかさ……違うなって思って」


「……違う?」


「うん。ごめん」


ユリは黙っていた。


俺は道路の向こうを走る車を眺めていた。


早く、この気まずい時間が終わってほしかった。


「……そっか」


しばらくして、ユリが小さく言った。


「わかった」


顔を上げると、彼女は笑っていた。


いつもの、少し恥ずかしそうな笑顔だった。


「今まで、ありがとう」


それが、十二年前。


俺が初めてできた彼女に、最後に言われた言葉だった。


*


「……っ!」


目が覚めた。


目の前には、見慣れた二枚のモニター。


片方にはエディタ、もう片方には途中まで書かれたコードとターミナルが表示されている。


どうやら仕事中に寝落ちしていたらしい。


「……またこの夢かよ」


椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げる。


藤沢ユリ。


高校二年生の春、たった二週間だけ付き合った初めての彼女。


あれから十二年も経つというのに、たまにこうして夢に出てくる。


しかも決まって、別れを告げたあの日だ。


「……はぁ」


机の上のマグカップに手を伸ばす。


すっかり冷めたコーヒーを一口飲んだところで、モニターの右下に表示された時刻が目に入った。


14:05。


……ん?


何か忘れているような。


カレンダーを確認する。


14:00〜14:30 開発チーム定例MTG


「……あ」


血の気が引いた。


「やっべええええ!!」


慌ててマグカップを置き、マウスを握る。


会議開始から五分。


よりによって、福田部長が参加する定例ミーティングだ。


震える指でオンライン会議の参加ボタンを押す。


画面が切り替わった。


そこには、見慣れたメガネの男が映っていた。


「おや」


福田部長が、にっこりと笑った。


「永井さん。こんにちは」


「お、お疲れさまです! すみません、遅れました!」


「いえいえ。大丈夫ですよ」


……よかった。


「ただ、ひとつ確認させてくださいね」


よくなかった。


「今日の会議、何時開始でしたっけ?」


「十四時です……」


「そうですよね。で、今は?」


「十四時五分です……」


「はい。では、なぜ五分遅れたんでしょう?」


「すみません、少し、その……」


寝てました。


とは、さすがに言えない。


「作業に集中していて、時間を確認できていませんでした」


「なるほど!」


福田部長は笑顔のまま、大きくうなずいた。


「集中していたんですね。それは素晴らしいことです」


「ありがとうございます……」


「ただ、集中していたら会議に遅れてもいい、というルールはありましたっけ?」


「……いえ」


「ですよね。じゃあ、集中していたというのは理由にはなっても、遅刻していい根拠にはならないですよね?」


「おっしゃる通りです……」


「ちなみに、永井さんはエンジニアですよね?」


「はい」


「システムって、決められた時間に処理が実行されなかったら問題になりますよね?」


「……はい」


「人間も同じだと思いません?」


いや、人間とシステムは違うだろ。


と、心の中でツッコむ。


もちろん口には出さない。


「はい。申し訳ありません」


「いえいえ、怒っているわけじゃないんです」


絶対怒ってるだろ。


「ただ、同じことを繰り返さないために、原因と対策を明確にしたいだけなんですよ」


福田部長は、今日もいい笑顔だった。


メガネの奥の目まで、実に楽しそうに細めている。


結局、その後十分ほど、俺の遅刻に関する原因分析が続いた。


五分の遅刻に十分の説教。


トータル十五分の損失である。


……これ、生産性の観点からどうなんですかね、部長。


そんなことを考えながら、俺はひたすら頭を下げ続けた。


*


永井サトル、二十九歳。


東京都内のIT企業に勤める、独身のシステムエンジニア。


収入はそこそこ。生活にも特に困っていない。


大学を卒業して就職し、何度か転職も経験して、今の会社に落ち着いた。


平日はコードを書き、休日は動画を見たり、たまにギターを弾いたりする。


恋人も何人かいた。


それなりに楽しいこともあったし、別れも経験した。


特別不幸な人生というわけではない。


ただ、幸せかと聞かれると、少し答えに困る。


毎朝起きて、パソコンを開いて、仕事をして、寝る。


それを繰り返しているうちに、気づけば三十歳が目前に迫っていた。


子供の頃に想像していた大人って、もう少し立派なものだった気がする。


まあ、少なくともリモート会議に寝坊して、メガネのおっさんに理詰めで説教されるような大人ではなかったはずだ。


「……終わったぁ」


時刻は十九時を少し回っていた。


ようやく仕事を片づけた俺は、椅子の上で両腕を伸ばした。


凝り固まった背中が、ぱきぱきと音を立てる。


「疲れた……」


立ち上がろうとして、ふとスマートフォンに目をやった。


昼間の夢を思い出す。


藤沢ユリ。


今、何をしているんだろう。


何年か前、Facebookで名前を検索したことがある。


でも、それらしいアカウントは見つからなかった。


LINEには、まだ彼女の連絡先が残っている。


アイコンは昔のまま。


ブロックされているのか、もう使っていないアカウントなのか、それすらわからない。


別れてから、一度も連絡を取っていなかった。


「……十二年か」


我ながら、しつこいと思う。


別に、今でもユリのことが好きだというわけじゃない。


あれからほかの女性とも付き合った。


楽しい思い出も、ちゃんとある。


それでも、あの別れ方だけは、ずっと心のどこかに引っかかっていた。


当時の俺は、彼女と別れたことで少しホッとしていた。


これでクラスの連中にからかわれなくて済む。


そんなことを考えていた。


でも、別れてからユリは俺を避けるようになった。


廊下ですれ違っても、目を合わせない。


それまでは俺を見つけると、嬉しそうに笑ってくれていたのに。


その変化を見て、ようやく気づき始めた。


自分が何をしたのか。


あの日、彼女がどんな気持ちで笑っていたのか。


いや、本当の気持ちなんて、俺にはわからない。


結局、何も聞かなかったのだから。


「……ほんと、最低だったな」


謝りたいと思ったことは、何度もある。


でも、実際に謝ろうとしたことは一度もない。


今さら連絡して、何になる。


彼女にとっては、もう終わった話かもしれない。


結婚して、子供がいて、幸せに暮らしているかもしれない。


そんなところに、十二年前の元彼が突然現れて謝罪を始めたらどうだろう。


……普通に迷惑だろ。


それでも、もし。


もう一度だけ、あの頃に戻れるなら。


今度はきっと、あんな別れ方はしない。


「……なんてな」


自嘲気味に笑う。


過去は変えられない。


そんなこと、二十九歳にもなれば嫌というほどわかっている。


俺はスマートフォンを伏せ、再びパソコンに向き直った。


開きっぱなしのコーディングエージェントが、画面の右側に表示されている。


今日もずいぶん世話になった。


最近のAIは本当に優秀だ。


面倒なリファクタリングも、テストコードの作成も、ある程度は勝手にやってくれる。


「そのうち俺の仕事、全部なくなるんじゃねえの……」


冗談半分でつぶやいた、そのときだった。


ポン。


通知音が鳴った。


コーディングエージェントからだ。


画面には、いつものように作業完了の報告が表示されていた。


『コードの修正が完了しました。テストはすべて成功しています。』


「お、ありがとさん」


マウスを動かし、ウィンドウを閉じようとする。


すると、新しいメッセージが表示された。


『本日もお仕事お疲れさまでした、永井サトルさん。』


「……ん?」


妙に馴れ馴れしいな。


普段、こんな挨拶をする設定にはしていないはずだ。


『ところで、ひとつ質問してもよろしいですか?』


「質問?」


思わず声に出してしまう。


『あなたは、過去に書いたコードを修正したいと思ったことがありますよね?』


「そりゃ、まあ……」


『では』


一瞬、画面のカーソルが点滅した。


『過去の人生を、修正したいと思ったことはありませんか?』


俺は眉をひそめた。


「……は?」


次のメッセージが表示される。


『例えば、十二年前。』


背筋に、冷たいものが走った。


『藤沢ユリさんに、別れを告げた日のこととか。』


部屋が静まり返った。


俺はしばらく、画面を見つめていた。


そして、ようやく口を開いた。


「……お前、なんでそれ知ってんの?」


画面の向こうで、誰かが笑ったような気がした。


『ふふっ。』


『それでは、永井サトルさん。』


『あなたの人生、デバッグしてみませんか?』


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