第9話
十一月が終わる最後の日。僕はいつものように、図書館の片隅にあるソファで本を読んでいた。
背もたれのない平らなソファは快適な読書環境とはいえないが、机のある作業スペースは夕方になると大人や勉強の人が来るからやりづらい。このスペースは専門書コーナーのさらに奥だから、人が来なくて快適なのだ。僕のお気に入りだった。
ぱらぱらと本をめくる。今日は実話をもとにしたサスペンス小説だ。テロ集団に人質に取られた女性が、テロリストの一人と恋に落ちる話。実際にあった話だというのが驚きだが、こういうことはままあるのだという。
自分を傷付けてくる存在の、圧倒的な脅威から、絶対に逃げられないと悟ったとき。人は無力感から心を守るため、己の内に恋慕や好意を捏造するらしい。いくら酷いことをされても私がこの人から離れられないのは、彼ないし彼女を愛しているからだ、と。
ひどい現実から逃げるために作られた愛。すごく合理的だけど、同時に、悲しい話だと思う。美千花さんのことが思い浮かんだ。寂しさと愛着ゆえに、暴力のもとから逃げられない人。
どちらが先なんだろう、と思った。愛が先なのか、傷が先なのか。傷付けてくるから愛したのか、愛したから傷付けることを許したのか。いくら考えても、その二つの因果はひどく複雑に絡み合っていて、僕にはうまくほどけそうもなかった。
小さく息をつく。気が付けば物語から心が離れて、考え事ばかりしている。僕は本から顔を上げ、ううん、とひとつ大きく伸びをした。
あの日、別々の階で一緒に暮らす約束をしたときから。僕たちはそれなりに穏やかに過ごしていた。旦那さんのことがあるから、完璧に平穏に、とはもちろんいかないけれど。それでも、美千花さんは以前よりやわらかい表情を見せてくれるようになった。
美千花さんはときどき食事の前に床をとんとん、と打ち鳴らして僕に合図を送ってくれたし、僕は眠る前におやすみ、と天井にささやきかける習慣ができた。
LDKのダイニングテーブルで美千花さんと向かい合って、「昨日ってなに食べたの?」とか「そろそろ夜は冷えてきたわね」とか言い合って、日々の出来事を分かち合うのは楽しかった。同じ時間をよく似た別の場所で過ごして、欠けたなにかを埋め合うのが嬉しかった。
僕はときどき旦那さんのことを尋ねたけれど、美千花さんは決して詳しいことを話さなかった。僕が口汚くなるのが嫌なのだという。あのとき、旦那さんを罵ったのは良くなかった。美千花さんは頑なに旦那さんを庇う。
もっとうまく立ち回れたら、と思わないでもない。けれど今は今で、それなりにうまくいっている。
いくら提案しても、美千花さんは家から逃げようとはしてくれない。それでも、彼女は僕に怪我を隠さなくなった。手当てだってさせてくれた。笑うことも、少しずつ増えてきている気がする。だからきっと、そこまで悲観することでもないのだろう。
あの仄暗い瞳から、寂しさというものが日に日に薄くなっていく。そのことがなにより嬉しかった。
僕は強くて、正しいことをしていて、美千花さんの助けになっている。意義あることをやっている。その実感と、どこかやわらかくなった美千花さんの表情が、僕をひどく幸福にさせた。
状況は順調で、僕はうまくやれている。今はまだ力及ばないけれど、このままならいずれ、美千花さんを家から救い出すことだってできるだろう。
タイミングが悪くて、僕はまだ旦那さんの顔を見たことはない。だけどきっと、いつかあの旦那さんに会ったら。
(……僕がきっと、懲らしめてやるんだから)
充足感と高揚に、ふふっ、と不敵に笑ってみせる。もう読んでいない本のページを見下ろして、かすかな決意を固めていたとき。
本を持つ僕の手元が、急にすうっと陰った。
「──あなた、いつもここにいますね」
「っ……⁉」
降ってきた声にはっ、とする。
勢いよく顔を上げると、そこには知らないおじさんが、腰をかがめて僕を覗き込んでいた。首からはカードが下がっていて、名前と顔写真の横に図書館司書、と書いてある。隣には返却用の本が並ぶカートがあって、どうやら本の整理に来たようだ。
「あ、え、えっと……」
「ああ、驚かせてすみません。私はここの司書なんです」
「それは、その、わかるけど……」
なんで、僕に、声なんか。続く言葉は声にならなかった。びっくりしすぎたせいで、心臓がばくばく鳴っている。僕は胸を押さえたまま、おずおずと司書のおじさんを見上げた。
おじさんはカートを少し奥に押しやって、やんわりと笑う。
「あなた、いつもここにいますね。学校は?」
「……えっと、その、……」
なんと答えたものか、迷う。こんなとき、どう答えればいいんだっけ。頭の中から適切な言葉を探そうと眉をひそめていると、なぜか司書のおじさんは「ああ、いえ」と両手を振った。
「違うんです。話題を間違えましたね。失礼しました」
「はあ」
なにがどう違うのかわからない。でも、追及が逸れたのは助かった。ほっとする。
僕がぼんやりと首を傾げていると、おじさんは困ったように眉を下げて笑った。大人らしい大きな手が、ソファの隣を指し示す。
「座っても?」
「……少しなら」
警戒もあらわな僕に、おじさんはますます苦笑した。肩の力を抜く仕草。人の良さそうな笑み。
「それでは、失礼して」
軽い軋みを立てて、おじさんが僕の隣──といっても、大人が一人、余裕で間に座れるくらい離れている──に座った。
「……」
「…………」
奇妙な沈黙。落ち着かない。僕はそわそわして、意味もなくページの端をいじった。おじさんが僕を見て、ふっ、と微笑む。なんだか、妙に穏やかな眼差しだった。
「図書館は好きですか」
「……好きだよ。本に夢中になってると、いろんなことを忘れる」
「それは、良いことですね」
「うん」
それきり、また沈黙。僕はページをいじるのに飽きて、ぱたん、とハードカバーの表紙を閉じた。
低い本棚の上にある窓から差し込む陽光が、だんだんとオレンジの色を増しているのが見える。もう夕刻だ。
ぶらぶらと、ソファから垂れた脚を揺らした。膝に乗せたハードカバーを、てのひらでそっと撫でる。つるりとしたブッカーの感触。
僕は下を向いたまま、ぽつり、とつぶやいた。
「忘れるって、いいこと?」
「……」
「みんないつかは、現実と戦わなきゃいけないんでしょ。いいことなの?」
隣から、かすかに息を呑む音がする。おじさんは僕を見たまま、少しだけ黙った。おじさんの視線が僕から離れて、ゆっくりと前を向く。そうして、横顔がふーっ、と長い息をついた。
「そうですね。いつまでも、現実を忘れてはいられない。でも、本は……図書館は、そういう人のためにあるのだと、私は思いますよ」
「え? みんなのためじゃなくて?」
「それは確かにそうなのですがね。その〝みんな〟の中には、特別、本の世界を必要としている人がいる。そうでしょう?」
「……それは」
おじさんの横顔は、静かな、それでいてどこか遠い目をしていた。おじさんがなにを見つめているのか、僕にはよくわからない。
ただ、どうしてだろう。この人はたぶん、たくさんの人を心配して、それがうまくいかなくて、だけど諦めきれなくて──長い間そうやって生きてきた人なのだと、根拠もなく僕は思った。
おじさんはひとつまばたきをして、とても静かに言う。
「この図書館が、そういう子たちの居場所になれればいいと──少なくとも私は、ずっとそう願っています」
ゆっくりと、遠くを見ていた横顔がこちらに巡った。穏やかな目が僕を見つめている。おじさんは、とてもやさしく微笑んだ。
静かな、やわらかい声がささやく。
「だから、またいつでも、ここに来てくださいね」
「……うん」
来れるうちは、できるだけ来る。そう小さく呟くと、おじさんはとても嬉しそうに笑った。
やわらかく穏やかな笑顔の奥に、慈愛、みたいなものを見てとって、僕はどうにも落ち着かなくなる。膝の上でもぞもぞと本をいじる僕に、おじさんはまた笑った。
十一月の最終日、すっかり早くなった日没のオレンジが、窓の外でゆっくりと街並みの向こうへと落ちていった。




