第10話
それから、おじさんとしばらく話をした。
おじさんはとても優しい声で僕と話をしてくれて、向けられるまっすぐな慈愛は、僕をひどく落ち着かない気持ちにさせた。
別れ際、僕が図書カードを持っていないことを知ると、おじさんは僕の読んでいた本と同じものを出してきて、こちらは私物なので差し上げます、とまで言ってくれた。
僕はうまくお礼を言えないまま、ただ何度も頷くと、胸に本を抱いて図書館を後にした。本をもらったことはたくさんあるけれど、こんな気持ちになるのは初めてだった。心臓が不思議にどきどきした。
そうして、おじさんとのお喋りに夢中になっていたせいで、気が付けば僕は、美千花さんとの約束の時間に遅れてしまっていた。
慌てて帰路を走り抜け、マンションの前に着いた頃には、すっかり日が暮れていた。さっきまであんなに明るかったはずの夕焼けは消え失せて、暗い空に薄い雲が出はじめている。
きっと、美千花さんはいつもの時間に合わせて、お茶の支度をしてくれているだろう。僕がなかなか来ないから、心配しているかもしれない。
焦りのあまり、マンションの階段を勢いよく駆け上がった。僕の来訪時間に合わせて鍵が外されたドアを、いつものようにがちゃりと開ける。
僕は息を切らせて整然とした玄関に飛び込んで、けれど。肩を上下させる僕の視界に飛び込んできたのは、見慣れないあるものだった。
──大きな、男物の靴。
どきっ、とした。
おそらくはスーツに似合うだろうぴかぴかの革靴が、ひどく乱雑に脱ぎ捨てられている。恐る恐る顔を上げ、僕は長く伸びた廊下の向こう、LDKに続くドアをそおっと見た。
そのとき。
「……!」
「……、……⁉ ……‼」
(……なにか、聞こえる──)
男の人が怒鳴り散らす、低くドスの効いた声。それから、重いものが床にぶつかるような音。引きつった悲鳴。硬いものが砕け散る音。裏返った怒声。破壊音。苦しげな呻き声。
「み──美千花さん……っ!」
ばさり、と本が胸元から落ちる。僕は靴も脱がずに玄関を飛び越えて、伸びた廊下をまっすぐに走った。LDKのドアノブに、今すぐ飛びつこうとした。けれど。
「──俺を裏切りやがって! この淫売、ふしだらな、浮気性の、どうしようもないクズ女が……ッ‼」
「ちが、……っ!」
ものすごい怒声と──ゴッ、と鈍い音。
こめかみを殴られた美千花さんが、頭から床に倒れた音だった。フローリングに頭蓋が激しく叩きつけられ、美千花さんが掠れた咳を吐く。
「なにが違う! 茶だの菓子だのずらずら並べて、どこのどいつと会う予定だった⁉ 答えろ!」
「ひッ……!」
反射的に頭を抱え込む美千花さん。苛立ったように舌打ちをして、スーツの男性──おそらくは旦那さん──の足のつま先が、うずくまる美千花さんのお腹にめり込んだ。
「かは──っぐ、けほ、……ッ」
「黙って泣いてんじゃねえよ売女! なんとか言え、おいッ!」
何度も、何度も同じ動作が繰り返される。美千花さんが水っぽい咳をえづいて、床の上でのたうち回る。旦那さんはなんのためらいもなく足を振りかぶると、美千花さんの頭を勢いよく踏みつけた。
「クソ女! 俺がいないと! なんにもできない癖に! この役立たず、どうしようもない、無知で無力で無様な、底辺の──」
「っ……めん、なさい、ごめん、ごめんなさい……っ!」
廊下から、LDKに続くドアの細いガラス窓ごしに見える、あまりにも恐ろしく、むごたらしい光景。残虐で、一方的で、蹂躙としか言えない行為。
そこには、僕が見たことのない、剥き出しの害意と暴力があった。
(……ぁ、あ……っ)
立ち尽くす足が、勝手に、ずり、と後ろに下がっていく。ふら、と一歩退く動作は、ほとんど本能的なものだった。
僕はただ呆然と目を見開いて、細いガラスの向こう側を、食い入るように見つめるしかできなかった。信じられなかった。
人間が本気で殴られるところを、僕は生まれて初めて見た。人の頭蓋がこんな音を立てることも、腹を蹴られた人間の咳の水っぽさも、踏みつけにされた身体が反動でびくんと跳ねるときの挙動も、僕はひとつも知らなかった。暴力というものを、初めて、肌で理解した瞬間だった。
(っ……や、いやだ……)
無意識に、逃げるように顔を振る。感じたことのない恐怖と嫌悪が全身を侵食して、はく、とくちびるが痙攣した。
細いドアガラスの向こうでは、圧倒的な、災害じみた暴力が、嵐みたいに吹き荒れている。大きな体躯が美千花さんをなんの容赦もなく殴り、蹴り、踏みつけて、引っ掻いて、そのたびに漏れる悲鳴は掠れ、引き攣って、少しずつ小さくなっていく。
(こわ、こわい、こわい、怖い──‼)
僕は動けない。バカみたいに目と口を開いて、ドアガラスの向こうで吹き荒れる暴力を、見つめているしかできない。
力任せに投げられた陶器がドアに向かって飛んできて、がしゃん! とけたたましい音が砕けた。びくッ、と全身が硬直する。びしゃっ、と勢いよく液体が弾けて、目の前のガラスに茶色の雫が鋭く飛んだ。
カップを投げつけた旦那さんが、ぜえぜえと肩で息をする。床に転がった美千花さんがすすり泣く、消え入りそうに小さな声。そして。
旦那さんが──すうっ、と顔を持ち上げた。鬼気迫る男の表情がゆっくりと回って、さっき飛び散ったばかりの破片を視線が追って、そうだ、破片ならドアのすぐ下──つまり、僕の目の前にあって。
「ぁ──ッ……」
──見つかる。
ひゅっ、と全身の血の気が落ちた。さあっ、と背が冷たくなって、無意識に後退する靴の踵がずりっ、と床を滑る。
(や、やだ、いやだ、いやだ……ッ)
そして、僕は。
両手で口をふさいで、喉の奥で悲鳴を押し殺して、足音を立てないよう数歩後ずさると、たった2メートルほどの距離を必死で走って。
「──ひっ……ッ……‼」
目についたドア、トイレの中に飛び込んで、がちゃん! と鍵をかけた。
ツマミを回した指先が、小刻みに震えている。僕は何度も何度もツマミを回して、鍵がかかっていることを確認した。ドアに背を押し付けて、息を詰めて、両手で耳を力いっぱいふさいで、ずるずるとその場にしゃがみ込む。歯を食いしばり、膝頭にきつく額を押し当てて、痛いほどぎゅうっと丸めた背中が痙攣のようにがたがた震えた。
──怖い。こわい。怖くて、こわくて、たまらない。
もし気付かれたら、見つかったら、僕まで引きずり出されたら。そしたら。
頭蓋のぶつかる重い音、掠れた呻き声、水っぽい咳、痙攣する身体。見つかったら、あの恐ろしいものが、僕の上にも。
震えが止まらなかった。呼吸すら恐ろしかった。ばっくん、ばっくん、ばっくん、と心臓がすさまじい音を立てる。もしこんな大きな音が、外まで聞こえてしまったらどうしよう。僕は恐怖のあまり、この心音がおさまるよう、ひたすら息を詰めて祈り続けた。




