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【完結・百合】家庭環境最悪な僕っ娘(14)が、マンションの上階に住む人妻(28)にズルズルに依存する話  作者: Ru
第三章 辻褄合わせの恋

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第11話

 そうして、永遠にも近い数分が過ぎたあと。


 廊下の向こうで、がちゃっ、とドアが開く音がした。ひっ、と喉の奥で悲鳴が潰れる。僕はがくがく震えながら、たすけて、と何かにすがった。荒々しい足音が、トイレのすぐ前を通り過ぎていく。


 そのまま、ざっ、ざっ、と靴を履くような音。玄関ドアが開いて、閉じて、がちゃっ、と荒く錠が回る粗雑な音。玄関の向こうで、重い大人の足音が少しずつ遠ざかっていって──、


 ……そして、痛いほどの静寂が訪れた。


 そろそろと、耳を塞いでいた手を外す。ゆっくりと顔を上げ、目の前の白い便座が、涙でにじんでいるのを視認する。はひゅ、はひゅ、とみっともなく乱れた息が苦しくて、げほ、と何度か咳き込んで。


「みち、かさ──……」


 僕はようやく、ふらり、と立ち上がった。


 トイレの鍵を開けようとする。けれど指先が震えてうまくできない。もつれる手を必死に操って、ようやくかちゃん、と鍵が回った。


 僕ははっ、はっ、と犬みたいにみっともない呼吸を口からこぼして、肩を何度も上下させて、心臓を両手で押さえた。そのとき。


 LDKのほうから、がたっ、と音がした。


「ぁ──、」


 美千花さんは。


 僕は弾かれたように走り出すと、LDKに続くドアを跳ね開けた。壁にドアがぶつかって、ばんッ、と大きな音。


 ダイニングの椅子によりかかって立ち上がろうとしている美千花さんが、はっ、と顔を上げる。その表情は恐れと怯えに引きつっていて、けれど僕を見留めた瞬間、ダークグレーの瞳からすっと力が抜けた。


 かくん、と美千花さんの膝が折れる。


「──美千花さんッ‼」


 僕は慌てて駆け寄ると、美千花さんの身体を抱き支えた。のしかかる体重で靴の裏がずるりと滑る。大人ひとりぶんの重みに必死に耐えて踏ん張って、なんとか彼女を椅子に座らせた。


「……来てた、のね……っげほ、がは……ッ!」

「や、やだ、喋らないで……!」


 美千花さんが背を痙攣させ、何度も咳き込む。襟から覗く首筋に、赤い血のにじむ切り傷が見えた。よく見ると、前髪の隙間、こめかみに赤黒い痣ができている。


(ひどい……)


 どうしよう、こういうとき、僕はどうしたらいい。何をすればいいかもわからず、ただおろおろして、僕は美千花さんの顔を覗き込むしかできなかった。


 美千花さんは僕のことを見ないまま、手探りでダイニングテーブルからティッシュを取った。何枚かまとめて首の傷に押し当てて、白いティッシュににじむ赤いシミが、じわじわ濡れて広がっていく。


 美千花さんは首の傷口を押さえたまま、手首や足首、肩なんかをかすかに動かした。なんだろうと思って、数秒遅れて、ちゃんと関節が動くか確認しているのだと気付く。


 それから、美千花さんは何度かティッシュを取り替えて、袖やスカートの裾をまくって、指先で痣に触れた。痛そうに顔をしかめると、美千花さんは僕を見ないまま立ち上がり、保冷剤やタオル、そして薬を出してくる。


「そ、それ……なに……」

「解熱鎮痛剤」

「熱、あるの……?」

「これから出るのよ」

「っ……」


 問いかける僕の声は小さくて、震えていて、要点もなにもわかっていない、ひどく間抜けなものだった。


 ただ呆然と立ち尽くすだけの僕をよそに、美千花さんは当たり前の作業みたいに応急処置を続けていく。その手慣れた様子を見て初めて、美千花さんはいつも、手当てをしたがる僕のために、わざと〝簡単な怪我〟を残しておいてくれたのだと気が付いた。


(……っ、ぼく、は……)


 ありとあらゆる感情がこみ上げて、心の中がぐちゃぐちゃになる。恥辱、無力感、不安と恐怖、耐え難いほどのいたたまれなさ、感じたことのない強烈な焦躁。のぼせあがって調子に乗って、騎士様になったつもりでいたくせに、結局なにもできずに逃げ出した自分への、どうしようもない嫌悪感。


 ぽた、ぽた、と床の上でしずくが散った。


 僕の頬を、生ぬるい液体が、後から後から伝い落ちていく。鼻の奥がつんとして、喉が詰まって苦しくて、じいん、と全身が熱く震えていた。


 耐えられない、と思った。美千花さんは淡々と患部を冷やしている。僕のことなど見向きもしない。僕がなんの役にも立たないことを、美千花さんは知っているからだ。


(ぼ、僕、ぼくは、美千花さん、を──)


 情動が、僕の内側をめちゃくちゃに荒らしていって、ぐちゃぐちゃしたよくわからない感情が、嵐みたいに吹き荒れている。ひぐっ、と喉が鳴って、僕は何度も鼻をすすった。


(美千花さん。美千花さん。美千花さん──)


 この人を、守りたいと思っていた。笑ってほしいと願っていた。そうだ、もしこの人が僕に似合う色を教えてくれるのなら、僕は一生その色の服を着るだろう。この人の許しを得るためなら、僕はどんなことだってする。


 そう、だから──僕はきっと、美千花さんのことが。


 きっと恋慕だ、と思った。


 こんな気持ちになってまで、ここまでみじめになってまで、僕がまだ、ここに立ち尽くしている理由。なんの役にも立たなくて、相手にすらされないのに、この家から帰ることができない、そのわけは。


「……みちか、さん」


 震えるくちびるが、彼女の名前をぽつりと呼んだ。傷を冷やしていた美千花さんが、うつろな瞳をすうっと持ち上げる。ダークグレーの瞳がぼんやりと僕を見た。その中に映る自分の姿はひどく小さく、無力で、いっそ無様なほどちっぽけに見える。


(……だけど。だけど、僕は……)


 怖くて、情けなくて、それでもなにかを振り絞った。そうしなければならないと思った。


 震えながら、手を伸ばす。

 そして僕は、美千花さんの手を下からそっと掬い上げると、騎士様みたいに、その白い指先に口付けた。


 きっ、と眼差しを強くして、まっすぐに美千花さんを見つめる。僕は万感の思いを込めて、はっきりと言った。


「一緒に逃げよう。僕がきみを守ってあげる」

「……あなた、」


 美千花さんが、かすかに、くちびるを震わせる。その暗い瞳をまっすぐに見つめて、僕は美千花さんの冷え切った指先を、きゅっ、と握りしめた。


 このひとのために、なにかをしなきゃいけない。


 たった今、なにもできなかった自分が許せなかった。ただ震えていただけの自分が情けなかった。だからこそ、僕はこの人が好きなのだと、本当のことに気が付いた。

 なんでもする。きみのためなら、僕はどんなことだってする。そうでなきゃいけない。だって僕は、きみを。


 握りしめた手に、ひときわ強く力を込めた。ほとんどすがる気持ちで、ここから逃げよう、と繰り返す。


「行こう。きみは──ひとりじゃない」


 どうか届いてほしい。祈るようにささやくと、美千花さんは息を呑んで、大きく目を見開いた。美しいダークグレーの虹彩の中、瞳孔がきゅう、と拡大して、真っ暗な点の中心に、必死な僕が映っている。祈りながら彼女を待っている。


 美千花さんは何十秒も黙っていた。永遠みたいな沈黙が、時計の秒針をゆっくりと一周、回していった。そして。


「……わかったわ」


 震える、小さなささやきが耳に届いた瞬間。僕は自分の中のなにかが、深い悦びに震えるのを、はっきりと感じた。

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