終章 そして、世界は動き出す4
気がつけば、濃い青の空に見下ろされていた。
いつからか、わからない。ただ、そこにあった。
ずっとそこにあったような気もする。今この時のような気もする。
意識があるのは、今この時からだった。
青い空と、緑を纏う小さな島が幾つか、漂うままに浮いている。
島は崩れ、大きな木の根は露出して、島の底を突き抜けて浮いている。
光に照らされた雲が少しだけ、青い空を彩っていた。
全てが地や空気と同化したかのように身動きもせずにいた体が、腕が、ふと動いた。
自分自身の意志じゃない。ただ、動いた。
腕の振動はやがてすべての神経を巡り、足の先までの感覚を取り戻す。
……ああ、眩しい。
光の強さを今さらに感じ、瞬きのなかった瞳は閉じ、潤いを取り戻す。
生きている。
今、吸う息を感じた。
生きている。
吐いた息と同時に血の巡りも始まって、記憶のすべてが甦る。
ああ、と零れた声は掠れていた。指先を動かすと、動く。
……体は、自由だ。
自由なのだ、と、体の奥から湧き出る思いがあった。
それが何かはわからない。だけど。
「……アウラ」
あの人はどこにいるのだろう。
この手をすり抜けて、想いごと殺して涙をたたえて、そうして笑っていた、彼女は。
「……っ」
体が軋んだ。それでも動く。
まるで壊れて時を止めていたかのように動きの鈍いそれを無理やり起こして立ち上がった。
探さなければ。
誰でもない。他でもない。
絶望を与えてしまった彼女を、探さなければ。
傾いだ体を無理矢理立たせて、ジルアートは走り出した。
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大地が隆起し、衝突した境目の隙間。
隙間とはいえ大人を数人落として埋められるほどの規模のものだ。
「……っ、もう!」
幾度目か。アウラは力の入らなくなった手で裂け目に手をかけ、這い上がろうとしていた。
櫻であった頃もあまり運動の習慣はなかったものの、アウラの体は華奢で、長く眠っていた体はまだ本調子ではない。
加えて、元々重い物を持つ習慣もなかった公女の手は細く柔らかい。運良くグローブを身に付けていたとはいえ、到底何かを取っ掛かりによじ登る握力はない。
とはいえ。
「やるしかないでしょ……この……っ!」
もう誰も助けてくれない。ここには誰もいないのだ。
ディディエもリュクスも、みんなみんな、空の彼方の世界へと置き去りにしてきた。それを選んだのは自分自身。
櫻であった時よりも長く、赤茶に染まった豊かな髪が風に靡く。髪の色が視界に入り、アウラは手を止めた。
……この体は今、もうアウラのものだ。櫻であった頃の体はどうなったのか定かではないが、櫻であった頃の意識を保ったまま、アウラは目覚めた。アウラの意識には櫻であった頃の記憶も感情も残っている。代わりに、もっと古い記憶にカストルやディディエたちとの記憶もある。
ジルアートの紺色の瞳はカストルとミュゼに因んだものであることはわかっていたが、今思えば彼の赤髪はアウラのものに近しいような気もする。
指先一つとっても、櫻であった頃とは違う。この体で、混ざりあった新しい「わたし」で、ジルアートは気づいてくれるだろうか。
伝えたとして、今までと同じように見てくれるだろうか。
アウラの慟哭と名付けられた一連の憎いともいえる出来事は、研究院の計画の一環であったことは明かされた。アジェリーチェに惹かれた彼がそれに抗えなかったのはシステムゆえであることを、既に知ってはいるけれど。あの時、瞳が重なった瞬間に目覚めたような彼の驚きを、アウラとなった櫻はしっかり覚えている。
不思議なものだ。あの時、こんな絶望はないと思ったはずなのに、アウラが混じった自分はそれを客観的に、少し冷めたように考えることができる。冷静に彼の意志ではないことがわかるのだ。
だからいい。最初から始めればいい。
この世界は残った。これからも続いていく。
だから、アウラとなった櫻が、もう一度ジルアートを見つけて好きになってもらうところから始めればいい。
全部、全部あの人に話そう。
……私はもう一度、あの人に会いたい。
「……絶対、諦めたりなんか、しないんだからっ」
再び、上り始める。
彼の櫻への思いは、システムの一環であったなら。
そんな不安を胸に抱きながら。
それでも、あがき続けるしかない。
この世界で、彼と。ジルアート・カストル・キルセルクと名付けられた、運命という絶対的なものに雁字搦めにされていた彼を愛し、アウラは共に生きたいと、願ったのだから。
――もう一度。震える手が、ようやく地表に届くかと思われた、その瞬間。
滑り落ちた手。抜けた力。
――それを引き上げた、思いがけない強い力と。
紺色の夜空の色をした瞳に、見開いた瞳がぶつかる。
土に汚れた顔でアウラは思い切り笑って、愛しい人の名を呼んだ。