第73話 私たちの家、それぞれの家
新幹線が名古屋を発つ頃、車窓の外はすでに深い藍色に包まれていた。駅の灯りが次々と後ろに流れていく。六人はそれぞれの席に散らばっていたが、誰も寝ていなかった。疲れているはずなのに、目はしっかり開いている。体中の細胞がまだ興奮状態だった。
「セイナさん。」ハナルが小さな声で呼びかけた。
「はい?」
「今日のライブ、楽しかったですね。」
「うん。すごく。」
セイナはそう言って、またスマホの画面を見つめた。動画が止まっていた。彼女はもう一度再生ボタンを押す。
アコはヒデミと並んで座っていた。二人とも無言だったけど、肩と肩がくっついている。ヒデミは時々うつらうつらと船を漕いで、そのたびに頭がアコの肩に寄りかかった。アコは起こさないように、じっと動かずにいた。
「……寝ていいよ。」アコが小声で言った。
「寝てへん。」ヒデミがすぐに答える。目は閉じたまま。
「嘘つき。」
「嘘やない。」
アコは小さく笑って、それ以上は何も言わなかった。
新幹線が新大阪に着いたのは、夜の十一時を回っていた。ホームはひんやりとした空気で、天井の蛍光灯が白い光を落としている。出口へ向かう階段で、六人の足音が規則正しく響いた。カガミが一番前、次にキリカ、ハナル、セイナ、アコ、そしてヒデミ。それぞれが自分の楽器ケースを引きずりながら、重い足取りで階段を上る。ライブの興奮は冷めても、体の疲れはまだ残っていた。
「眠い……」カガミが大きなあくびをした。
「家まで我慢しろ。」キリカが言う。
「わかっとるけどさ。」
改札を出ると、冷たい風が吹き込んできた。夜の空気は澄んでいて、遠くでタクシーのエンジン音が聞こえる。カガミが大きく伸びをした。
「はあ——、名古屋、楽しかったな!」
「また行こうな。」キリカが言う。
「おう!」
セイナは自分のスマホを見つめていた。画面には、両親からのメッセージはまだ来ていない。『今から帰る』と送ったきり、返事がない。もしかしたら、もう寝ているのかもしれない。そう思うと、少しだけ寂しかった。
「セイナ、大丈夫か?」カガミが声をかける。
「はい。大丈夫です。」
「無理すんなよ。明日はオフやし、ゆっくり休め。」
「はい。ありがとうございます。」
その時、ハナルのスマホが震えた。画面を見て、彼女の顔がぱっと明るくなった。
「えっと、お父さんからです。駅まで迎えに来てくれてるって。」
「そっか。よかったな。」カガミが言う。
ハナルはうなずいて、スマホを握りしめた。その手は、少しだけ温かかった。
アコはヒデミの隣で、おとなしく待っている。二人はこれから和歌山に帰る。電車はまだあるけど、もう少ししたら終電がなくなる時間だった。
「そろそろ行くか。」ヒデミが言う。
「うん。」アコがうなずく。
「お前ら、気をつけて帰れよ。」カガミが言う。
「おう。また明日。」
「明日はオフやろ。」キリカが突っ込む。
「あ、そうやった。」
笑い声が改札口に響く。それから、それぞれが自分の道を歩き出した。カガミとキリカは一緒に帰る。ハナルは家族が迎えに来ている。セイナは一人で電車に乗る。アコとヒデミは和歌山へ。
お互いに手を振って、背中を見送る。名古屋の熱気はもう遠く、そこにはいつもの日常が広がっていた。
百合泉方面のホームは、人がまばらだった。セイナはベンチに座って、電車を待っていた。ギターケースを足元に置き、背筋を伸ばして。疲れているはずなのに、姿勢だけは崩せない。それは彼女の長年の習慣だった。でも、今日は違った。彼女は誰かに見られているから姿勢を正しているのではなかった。自分がそうありたいから、そうしている。
電車が到着した。セイナは立ち上がり、ギターケースを手に取った。ドアが開いて、中に入る。車内は暖かくて、座席はほとんど空いていた。彼女は窓側の席に座り、ギターケースを膝の上に置いた。
セイナが家に着いたのは、十二時を回っていた。アパートの廊下は薄暗く、自分の部屋の鍵を開けると、リビングから灯りが漏れている。まだ起きているらしい。夕方の電話の後、ちゃんとライブを見てくれていたのだろうか。ドアを開けると、父と母がソファに座っていた。テレビは消えている。二人とも、セイナが帰ってくるのを待っていた。
「ただいま。」セイナの声は小さかった。
「おかえり。」母が言った。その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
父は黙ったまま、セイナのギターケースを見つめている。何か言おうとして、やめた。セイナは靴を脱ぎ、リビングに上がった。
「ライブ、見てくれた?」
「ああ。」父がやっと口を開いた。「見た。」
「……どうだった?」
母は夫を見た。父は少し間を置いて、言った。
「……悪くなかった。」
それだけだった。悪くなかった。その一言が、セイナの胸にじんわりと広がる。もっと長い言葉じゃない。もっと詳しい感想でもない。でも、父はちゃんと「悪くなかった」と言った。それだけで、十分だった。
母が立ち上がり、キッチンへ向かった。冷蔵庫を開けて、中から小さな包みを取り出す。
「これ。」母は包みをセイナに差し出した。
「なんですか?」
「開けてみな。」
セイナは包みを開けた。中から出てきたのは、ギターの弦だった。真新しい、銀色に輝く弦。彼女がいつも使っているメーカーのものだった。今のはもう少しで切れそうだったから、ちょうど欲しかった。
「お父さんが、買ってきたんやで。」
「お父さん……」
父はそっぽを向いたまま、何も言わない。セイナは弦を握りしめた。
「ありがとう。」
「別に。お前のために買ったわけやない。たまたま、安かったから。」
「そっか。」
セイナは小さく笑った。父は相変わらず不器用だった。でも、その不器用さが、今はとても愛おしかった。
「でも——」父が続けた。「勉強はちゃんとしろよ。」
「はい。」
「バンドだけやって、成績が落ちるようなら、その時は——」
「わかってる。」
セイナはうなずいた。父はまだ何か言いたそうだったけど、やめた。母が「お茶、飲む?」と聞いたので、「いただきます」と答えた。
キッチンから、湯呑みの置かれる音が聞こえる。セイナはソファに座って、ギターの弦を眺めていた。まだ開けていない。もったいなくて、まだ箱から出せない。
その時、スマホが震えた。グループチャットに、美沙からメッセージが来ていた。
『セイナさん!ライブ、めっちゃよかったです!』
すぐに茉莉奈からも。
『ギター、めっちゃかっこよかった!』
野美からも。
『私も、あんなふうに弾けるようになりたいです。』
花火からも。
『感動しました。特に『海』の曲。』
真由美からも。
『セイナ姉ちゃん、お疲れさま!』
セイナは一つ一つ返事を打った。『ありがとう。みんな、見てくれたの?』
『もちろん!スマホでライブ配信、見てた!』
『途中で途切れたけど、後でアーカイブ見る!』
『CD買いたい!』
セイナはその言葉を読んで、目頭が熱くなった。自分の演奏を、こんなにたくさんの人が待っていてくれる。
『また、ライブやるね。その時は、みんなも来てね。』
『行きます!』
『絶対行く!』
『楽しみにしてる!』
セイナはスマホを握りしめた。まだ興奮が冷めないのか、指が少し震えている。
「友達か?」母がお茶を運びながら聞く。
「はい。」
「いつも一緒にいる子たち?」
「そうです。あとで、ライブの映像送ってって言われた。」
「そう。」
母はそう言って、セイナの隣に座った。テーブルの上には、二人分のお茶。父も自分の分を手に取って、一口飲んだ。
「……お前、あのステージで、楽しそうやったな。」
父の言葉に、セイナは顔を上げた。
「はい。すごく、楽しかった。」
「そっか。」
駅には、ハナルの両親と弟の菅太が迎えに来ていた。改札を出たハナルは、家族の姿を見つけるなり、自然と足が速くなった。ギターケースを持ったまま、小走りに近づく。
「おかえり!」母が手を振る。
「ただいま。」ハナルは息を切らしながら言った。
「お姉ちゃん、お疲れ。」菅太がスマホをしまって、近づいた。
「お父さん、迎えに来てくれてありがとう。」
「いいえ、いいえ。さあ、帰ろう。」父は優しく微笑んだ。
駐車場に向かって歩き出す。ハナルは家族の後ろを歩きながら、今日の出来事を話し始めた。たくさんの人が来たこと。『Reckoning』がすごく盛り上がったこと。『海』を歌った時、お客さんが泣いていたこと。母は「へえ」とか「すごいね」とか、相槌を打ちながら聞いている。父は黙って運転しているけど、時々バックミラーに映るハナルの顔をチラッと見る。
車に乗り込んで、エンジンがかかる。ハナルは後部座席に座り、菅太がその隣。前の座席には両親。車内は暖かくて、少しだけ眠くなった。
「お姉ちゃん。」菅太が声をかけた。
「なに?」
「今日のライブ、すごかったね。」
「そ、そうかな。」
「うん。特に『海』。めっちゃよかった。」
「あ、ありがとう。」
ハナルは照れくさそうにうつむいた。菅太はそんな姉を見て、にやりと笑った。
「お姉ちゃんが歌ってる時、泣きそうになった人、結構いたんちゃう?」
「え、そ、それは……」
「まさか、自分も泣いてたり?」
「ち、違う!泣いてない!」
ハナルの顔が、真っ赤になった。母が前の席から振り返って、「あら、ハナル、泣いたの?」と聞く。
「泣いてない!」
「ほんまかー?」
菅太がからかうように言う。ハナルはその肩を軽く叩いた。
「うるさい!」
「いてっ!」
でも、ハナルの口元は確かに上がっていた。もう、隠せない。楽しかった。嬉しかった。それを認めるのが、少し恥ずかしいだけで。
「ハナル。」父がハンドルを握ったまま言った。「お前、頑張ったな。」
「……うん。」
「バンド、結構いいもんやな。」
「え?」
「お前の歌、しっかり届いてた。俺にも、わかった。」
ハナルは目を大きく見開いた。父がバンドのことを認めるなんて、初めてだった。
「お父さん……」
「でも、無理はするなよ。体が資本やからな。」
「うん。ありがとう。」
ハナルはシートにもたれて、窓の外を見た。街灯が、ぽつぽつと流れていく。心の中が、じんわりと温かかった。
岩橋家のリビングでは、ヨシコが温かい料理を並べていた。テーブルの上には、カレーライス、サラダ、それにキリカの好物のコーラが冷やしてある。マサルとトモはソファに座って、ゲームをしていた。テレビ画面では、レースゲームの車がぐんぐん加速している。
「ああああ!また負けた!」マサルがコントローラーを置く。
「パパ、遅すぎ。」トモが笑う。
「お前がハンドル、切りすぎなんや!」
「言い訳せんでええよ。」
玄関のドアが開く音がした。カガミの声が聞こえる。「ただいま!」
「おかえり!」ヨシコがキッチンから顔を出す。
「ただいま。」キリカも続く。
二人がリビングに入ると、マサルが立ち上がった。
「お、帰ってきたか!」
「パパ、ただいま!」カガミが駆け寄る。
「ライブ、どうやった?」
「めっちゃ盛り上がった!人がいっぱい来てた!」
「そっかそっか。よかったな。」
マサルはカガミの頭をポンと叩いた。それから、キリカの方を見て、にこっと笑った。
「キリカちゃん、お疲れ。」
「ただいま。」
「さあ、ご飯にするか!」
五人がテーブルを囲む。カレーライスのいい匂いが、部屋中に広がる。カガミは早速スプーンを手に取り、がっつりとカレーをすくう。
「うまい!」
「食べるの早い。」キリカが言うが、自分もスプーンを動かしている。
マサルはキリカを見ながら、言った。
「キリカちゃん、ドラムめっちゃかっこよかったで。」
「え?」キリカが顔を上げる。
「見たんや。お前のドラム最高やった。」
「……あ、ありがとうございます。」
キリカは照れくさそうにうつむいた。ヨシコがその様子を見て、微笑む。
「トモも見たんやろ?」
「ああ。すごかったよ、キリカ。」トモが親指を立てる。
「まあまあや。」
「謙遜しなくていいのに。」
カガミが隣でケラケラ笑う。キリカはその足を軽く蹴った。「うるさい。」
マサルはコップを掲げた。
「じゃあ、とりあえず——乾杯!」
「乾杯!」
五つのコップがぶつかり合う。キリカはその様子を見て、少しだけ目を細めた。この家に来てから、毎日がこんな感じだ。賑やかで、少し騒がしくて、でも、温かい。
「キリカちゃん、コーラ、もう一本あるよ。」ヨシコが言う。
「はい。ありがとうございます。」
「明日はオフなんやろ?ゆっくり休みな。」
「はい。」
キリカはコーラを一口飲んで、深く息を吐いた。名古屋のステージは、それはそれで楽しかった。でも、この家の食卓も、やっぱり落ち着く。
和歌山行きの電車の中は、ガラガラだった。アコとヒデミは、二人並んで座っている。二人とも無言だったけど、それが心地よかった。アコは窓の外の夜景を眺めていた。ヒデミはうつらうつらと舟を漕いでいる。
電車が和歌山に着く頃には、ヒデミは完全に目を覚ました。二人は駅を出て、タクシーに乗った。ヒデミの実家は、駅から少し離れた住宅街にある。夜の街は静かで、タクシーのエンジン音だけが響く。
「お姉ちゃんたち、おかえり。」
タクシーを降りると、真由美が玄関前に立っていた。スマホの灯りを頼りに、二人を待っていたらしい。
「真由美、まだ起きてたん?」アコが言う。
「うん。ライブの映像、何度も見ちゃって。」
「風邪ひくで。」
「大丈夫。ちゃんと上着着てるし。」
ヒデミは真由美の頭をポンと叩いた。「入ろ。」
玄関を上がると、リビングから光が漏れている。ヒデミの両親が、ソファに座って待っていた。母は編み物をしていて、父は新聞を読んでいる。二人とも、娘たちが帰ってくるのを待っていた。
「ただいま。」ヒデミが言う。
「おかえり。」母が顔を上げる。「アコちゃんも、おかえり。」
「おじゃまします。」アコが小さく頭を下げる。
「疲れたやろ。ご飯、食べる?」
「はい。いただきます。」
キッチンには、おでんの鍋が用意されていた。湯気が立ち上り、ほっこりと温かい。アコはその匂いを嗅いで、お腹が空いたことに気づいた。ヒデミの母が「さあ、座って」と言って、お皿を取り出した。ヒデミの父は黙っておでんを食べている。でも、時々アコの方を見てはうなずいている。悪くないという合図かもしれない。
「アコちゃん。」母が言う。
「はい。」
「今日のライブ、見たよ。すごかったね。」
「ありがとうございます。まだまだですけど。」
「そんなことない。ヒデミがいつも世話になってるし、これからもよろしくな。」
「はい。こちらこそ。」
ヒデミは黙って食べ続けている。
アコはその様子を見て、思わず笑った。ヒデミの家は、いつもこんな感じだ。賑やかで、温かくて、自分がここにいてもいいんだと思える。
お風呂に入って、パジャマに着替える。アコはヒデミの部屋に上がり込んで、ベッドの上でごろごろしていた。ヒデミはドライヤーを持ってきて、アコの髪を乾かし始める。
「ジッとして。」
「うん。」
温かい風が、髪を優しく撫でる。アコは目を閉じて、その感覚に身を任せた。ヒデミの指が、時々頭皮をそっとマッサージする。
「……ヒデミ。」
「なんや。」
「今日、楽しかったね。」
(From Dandy:
See you in the next update.Let's grab some warm coffee after their show.)




