第53話 仕置きの時間よ
和歌山行きの高速道路は、夜の闇に沈んでいた。対向車のヘッドライトが時折窓を照らし、車内は静かだった。
ヒデミはハンドルを握り、無言で前方を見つめている。アコは助手席で、窓の外の流れる景色を眺めていた。さっきまでの賑やかさが嘘みたいに、二人の間に言葉はなかった。
「……なあ。」ヒデミが口を開いた。
「なんや。」
「髪、染めたんか。」
「……うん。」
「ピンクか。」
「うん。」
ヒデミは一呼吸置いて、言った。「前に染めるな言うたやろ。」
「言うたな。」
「なんで染めたん。」
アコは答えない。窓の外の光が、彼女の横顔をぼんやりと照らす。
「……あのポスター、見た。」アコの声は小さかった。「あの子みたいになりたかった。」
「あの子になれると思とるんか。」
「なれるとは思てへん。」
「ならなんで。」
「……なんか、ちょっとでも近づきたかった。自分を変えたかった。」
ヒデミはため息をついた。
「ばかやな。」
「うん。」
その後も無言が続いた。高速道路の路面が、タイヤの下で一定のリズムを刻む。アコは指で窓ガラスをなぞった。冷たい。自分の心みたいに冷たい。
「……ヒデミ。」
「ん。」
「あの時、なんで抵抗せえへんかったん。」
ヒデミの手が、少しだけハンドルを握り締めた。
「……何が。」
「あいつに殴られた時。あんた、何もせえへんかったやん。」
「別に。痛うなかったし。」
「嘘つけ。」アコの声が震え始める。「あんなに音がした。頬、赤くなっとる。なんで殴り返さんかったんや。」
「殴り返したら、また同じや。」
「それがどうしたんや!」
アコの声が、車内に響く。ヒデミは無言で運転を続ける。
「あんたはいつもそうや。何でも「しゃあない」で済ませて、自分を守らへん。うちが——」
「お前がどうしたん。」ヒデミの声は低かった。
アコは唇を噛んだ。
「……うちが、見てられへんねん。」
その言葉を最後に、また沈黙が戻った。
高速を降りて、一般道に入る。信号で止まるたびに、アコはそっとヒデミの横顔を盗み見た。頬の赤みはまだ少し残っている。かすかに腫れているようにも見えた。
「……痛いやろ。」
「痛ない。」
「見せて。」
「ええねん。」
「見せて言うとるやろ!」
アコが体を乗り出して、ヒデミの頬に手を伸ばす。ヒデミはひらりと避けた。
「運転中や。おとなしくしとれ。」
「じゃあ、家に着いたら見して。」
「……しゃあないなあ。」
ヒデミの家に着いたのは、それから十五分後のことだった。駐車場に車を停め、エンジンを切る。シーンと静まり返った夜の空気が、二人を包んだ。
「降りるで。」ヒデミがドアを開ける。
アコも従って車を降りる。ヒデミの家は、二階建ての一軒家。玄関の灯りが点いていて、中には誰もいない気配がした。
「お父さんとお母さん、まだ帰ってへんの?」
「今日は買い物に行くって言うとった。今日は、ここに泊まっていって。店長に休み取る。」
「……うん。」
ヒデミが鍵を開けて、中に入る。玄関を上がると、すぐにリビング。薄暗い中で、ソファやテーブルのシルエットが浮かび上がる。
「上がれ。」ヒデミが靴を脱ぎながら言う。
アコも後に続いて靴を脱いだ。その瞬間――
ガシッ。
ヒデミの手が、アコの腕を掴んだ。
「な、なんや!」
「こっち来い。」
ヒデミはアコを引っ張って、リビングのソファに座らせた。そして自分はその前に立つ。
「……何する気や。」
「さっきの続きや。お前、うちに言いたいことがあるんやろ。」ヒデミの目は真剣だった。「言うてみ。」
アコは一瞬、言葉に詰まった。それから――堰を切ったように、言葉が溢れ出した。
「あんたはいつもそうや!何があっても自分を後回しにして、相手に合わせて、自分が傷ついても平気なふりして!」
「アコ――」
「聞いて!」アコが叫ぶ。「あの時だって、あんたは殴られたのに、何も言わんかった。『これで終わりやないなら、あんたたちは所詮その程度の人間や』って、かっこつけて!」
「それが――」
「それがなんや!あんたのその『しゃあない』っていう口癖、本当に嫌やねん!もっと怒ってもええし、泣いてもええのに、いつも冷静ぶって!」
ヒデミは何も言わなかった。ただ、アコの言葉を聞いている。
「うち、見てられへんねん。あんたが傷つくのが、怖いねん。」アコの声が詰まる。「あんたは強いから――強いから、いつも一人で全部背負おうとする。でも、あんたも弱っていいんやで?誰かに頼ってもいいんやで?」
「……頼っとるやろ。」ヒデミが小声で言う。
「どこがや!」
「今。」
アコは言葉を失った。ヒデミの目が、まっすぐにアコを見つめている。
「今、お前に怒鳴られてるやろ。これが頼るいうことや。」
「そんなん――」
「アコ。」ヒデミの声が柔らかくなる。「お前がいてくれて、助かっとる。それでええねん。」
アコは唇を噛みしめた。それでも涙は止まらなかった。
「……あんたのばか。」
「うん。」
「大ばか。」
「うん。」
「もう、殴られたら殴り返せ。絶対やで。」
「わかった。」
ヒデミがそっと、アコの涙を拭った。その指先は温かかった。
「もうええか。」
「……まだ。」
「まだあんのか。」
「うん。まだまだあるねん!」
アコはムッとした顔で、ヒデミの胸を拳で叩いた。トントン、と。
「あんたが悪いねん。あの時、もっと怒っても良かったんやで?うちが守るからって、自分から前に出て――」
「お前が守るって?」ヒデミが眉をひそめる。「どっちが守られとると思とんねん。」
「今回はうちが守る番や!いつもあんたに助けられてばかりやから、たまには――」
「たまには何や。」
「たまには、うちが頑張らなあかんやろ!」
アコは立ち上がって、ヒデミの胸を両手で押した。しかしヒデミは微動だにしない。
「お前、力なさすぎ。」
「うるさい!」
アコは何度も何度も押すが、ヒデミはその場に立ったまま。逆にアコの方が疲れてきて、肩で息をする。
「……も、もうええ。」
「終わったか。」
「とりあえずな。」
アコがソファに座り直そうとしたその時、ヒデミが一瞬でその手首を掴んだ。
「わっ――」
「まだや。今度はうちの番や。」
ヒデミはアコの両手を掴んだまま、自分の膝の上に乗せるようにして動きを封じた。アコは体をよじるが、びくともしない。
「なにするねん!離せ!」
「離さん。お前がちゃんと反省するまで離さん。」
「反省なんか――」
「するやろ。」
ヒデミの目が、アコをじっと見つめる。その真剣な眼差しに、アコはたじろいだ。
「……わかった。反省する。」
「ほんまか。」
「ほんまや。だから離して。」
「嘘やな。お前、反省する気ないやろ。」
「あるって!」
「目が泳いどる。」
「泳いでへん!」
ヒデミはため息をついて、アコの手を離した。その瞬間、アコが素早くヒデミの腕を掴んで引き寄せた。
「なにすん――」
アコはヒデミの肩に思い切り噛みついた。痛くない程度に、でも強い意志を込めて。
「……お前、犬か。」
「あんたが悪いねん。あんたがいつもそうやから、うちがこうならなあかんねん。」
「そうやな。」
「そうやな、ばっかりやな!」
アコがもう一度噛みつこうとしたその時、ヒデミの手がアコの頭をがしっと掴んだ。
「お前なあ――」
「離せ!」
「離さへん。これ以上暴れたら、もう一つお仕置き追加やで。」
「なんのお仕置きや!」
「尻叩き。」
アコの顔が一瞬で赤くなった。「はあ!?や、やめ――」
パシッ!
軽い音がした。ヒデミの手がアコの尻を叩いたのだ。
「……!」
アコは硬直した。耳まで真っ赤になっている。
「な、なにするんや――」
「お仕置き。」
「そんなん認めへん!」
「認めんでもええ。やるからにはやる。」
ヒデミはアコを自分の膝の上にうつ伏せにさせ、もう一度――
パシッ!
「いたっ!」
「反省するか。」
「しない!」
パシッ!
「いたた――」
「するか。」
「……する。」
「素直やな。」
ヒデミが手を離すと、アコはむっとしてソファの端に寄った。お尻を押さえながら、恨めしそうにヒデミを睨んでいる。
「……あんた、強すぎるねん。」
「お前が弱すぎるだけや。」
「うるさい。」
二人の間に、穏やかな沈黙が流れた。壁の時計の音だけが、規則正しく響いている。
「……ヒデミ。」
「ん。」
「あの――唯さんに伝えてほしいって言うたやつ……ちゃんと伝わるかな。」
「伝わる。あいつは頭ええし。」
「そうやな。」
「それに。」ヒデミが続ける。「ユキも、いつか気づく。自分が間違ってたって。」
「そうやったらええな。」
「お前、心配性やな。」
「うるさい。」
アコはヒデミの肩にそっと頭を寄せた。ヒデミは何も言わずに、そのままにしておいた。
「……ヒデミ。」
「ん。」
「もう、あんたを一人にせへん。」
「……べつに一人やないで。」
「そうやな。」
その夜、近所の人々はいくつか奇妙な音を聞いた。パチパチという音と、時々「いたっ」「やめて」という小さな叫び声。それが何かは、誰にもわからなかった。
翌朝。アコは起き上がるたびに顔をしかめていた。
「……うっ。」
「どないしたん。」ヒデミがキッチンから顔を出す。
「なんでもない。」
アコは立ち上がろうとして、また座り込んだ。お尻が痛い。昨日ヒデミに叩かれた場所が、まだじんじんと痛む。
「昨日の仕返しや。」
「あんたが悪いねん。」
「はいはい。」
ヒデミが朝ごはんの皿を運んでくる。目玉焼きとトースト、サラダ。簡単なものだが、温かそうな湯気が立っている。
「食え。」
「……ありがとう。」
アコはおずおずと席に着く。でも、座るたびに痛くて、体を浮かせたり下ろしたりしている。
「そんなに痛いんか。」
「痛いねん!あんたが悪いねん!」
「しゃあないやろ。お前が反省せんから。」
「反省した!」
「ほんまか。」
「ほんまや!」
ヒデミは笑って、アコの頭をポンと叩いた。
「はい、食え。」
「……うん。」
(From Dandy:
If you want to see some private moments between the two of them, just let me know. I won't go into too much detail in the main post. I have exams these days so I might update a bit later, but I'll still be posting every day.)




