第35話 あんたたちよりもうまくやれる
土曜日。午後一時。
心斎橋の駅前は、いつも通り人で溢れていた。
「集合時間、とっくに過ぎとるやんけ!」カガミが待ち合わせ場所に駆け込むなり叫んだ。
「遅刻したのはあんたやろ。」キリカが返す。「すぐについてくるって言うたやん。」
「ちゃうねん!電車が遅れて——」
「言い訳ええわ。早よ行くで。」
ハナルは小さく笑った。こういうやり取りも、もうすっかり日常になった。彼女は自分の手に持っているミルクティーを見つめ、何を言っていいかわからなかった。彼女の言語能力は確かに少し不足していたが、とても幸せだった。
今日の彼女たちはみんなTシャツを着ていて、本来はその上にFAの文字を描く予定だったのだが、却下された。
「アコちゃん、それ、めっちゃ似合っとるやん!」カガミが目を輝かせる。
アコは照れくさそうにうつむいた。白いブラウスに赤いスカート。ヒデミが選んだ服だ。
「ヒデミちゃんは……相変わらずやな。」カガミはヒデミのその服を見ていた。
ヒデミは黒のTシャツにジーンズ。いつもと変わらない。
「ええねん。暑いし。」
「あんた、そればっかやな。」カガミが言う。
「うるさい。」ヒデミがアコの頭を軽く叩いた。
六人は歩き出した。向かうのは、心斎橋のライブハウス『DIME』。
ユキのバンドのライブを見に行くのだ。名前は「ラギング・ブル」。キリカがその時出会ったバンドのことだ。
会場に着くと、入り口にはすでに列ができていた。思ったより人が多い。
「へえ。結構集まっとるやん。」キリカが呟く。
カガミが招待状を受付に出す。スタッフが中を確認して、「どうぞ」と手を振った。
中に入ると、ステージは思ったより広く、照明も本格的だった。客席には五十人以上はいるだろう。若い女性が多く、中には『Ragging Bull』のTシャツを着ている人もいる。
「す、すごい人ですね……」ハナルが緊張した声で言う。
「当たり前や。オレらもそのうちこんなんになるからな!」カガミは強気だが、目は少し不安そうだった。
キリカは壁際に寄って、腕を組んだ。「ここから見える。邪魔にならんし。」
六人は壁際に並んで立った。ステージには機材がセッティングされていて、スタッフが最終チェックをしている。
その時、壁に貼ってあるポスターが目に入った。バンド名は『Ragging Bull』。メンバーの写真が載っている。
ユキは一番端に立っていた。ベースを抱えて、無表情。でも写真の中のユキは、FAにいた時より少しだけ生き生きしているように見えた。
唯はセンター寄り。ギターを持って、微笑んでいる。優しそうな印象だが、目はしっかり前を見ていた。
周りには他に3人いた。そのうちの1人はキリカが見たことのない人物で、おそらく新しく募集された同業者だろう。
「あれが唯さんか。」カガミが言う。
「……うん。」キリカが答えた。
「綺麗な人やな。」
「それがどないしたんや。」
「別に。」
その時、照明が落ちた。歓声が上がる。
ステージに、五人現れた。ボーカルのユイ、ギター二人、ベース、ドラム。
ユキはベースを抱えて、ステージの端に立っていた。黒のタンクトップに、迷彩柄のパンツ。髪は前にまとめて、いつもより少しだけ攻撃的に見える。
唯はギターを持って、センターよりやや左。白いブラウスに黒いベスト。落ち着いた雰囲気だが、ギターを抱える手つきは確かだった。
「どうも。『Ragging Bull』です。」ボーカルがマイクに向かって言う。「最初の曲は——『騙し合い』。」
ドラムのカウントで、音が炸裂した。
ユキのベースが、低く唸る。テクニックは確かだった。指の動きが速く、正確で、無駄がない。FAにいた時よりも、さらにレベルアップしているように見えた。
キリカは無言で見つめていた。彼女の目は、ユキの指先を追っている。
「……上手い。」ぽつりと呟いた。
カガミは唇を噛んだ。悔しいけど、認めざるを得なかった。
ハナルは音に圧倒されていた。力強いビートと、鋭いギターの音。確かに、かっこよかった。でも——何かが違う。
「全然生きてへん。まるで機械みたいや。」ヒデミが小さな声で言った。
アコが顔を向ける。ヒデミは続けた。
「技術はすごい。でも感情がなくて、ただロックをなぞってるだけみたいや。伝わってこん。」
「……うちも、そう思う。」アコが言った。
セイナは黙って見ていた。彼女の目には、ユキのベースのポジション、指の動きが焼き付いていく。勉強になる。でも、それ以上に——怖いとも思った。あんなに正確に弾ける人が、FAを辞めた。自分は、いつまでついていけるんだろう。
一曲終わり、拍手が起こる。大きい。でも、どこか機械的だった。
二曲目が始まる前に、ユキが一歩前に出た。マイクを手に取る。
「……この曲は、私が書いた。」低い声が響く。「裏切りとか、そういうのをテーマにした。」
ハナルの体が、ピンと張った。
「あの時、俺が辞めたバンドがあった。」ユキは続ける。「偽物の絆ってやつ。気持ち悪かった。家族ごっこ。そんなもん、音楽に必要ない。」
カガミの拳が震えた。キリカがそっと彼女の腕を掴む。
「でも、今はわかった。必要ないのは、そんなもんだけじゃない。」ユキの目が鋭くなる。「技術がない奴は、ただの足手まとい。音楽を舐めてる。」
「だから、自分だけを慰めるような奴らはやめておこう。みんなで温まろう。」
ステージが暗転した。次の曲が始まる。
アコは唇を噛みしめた。ヒデミの腕をぎゅっと握る。
「……あの子、まだ言うとる。」声が震える。
「聞くな。」ヒデミは短く言った。でも、アコの手を離さなかった。
キリカは無表情のまま、ユキを見つめていた。その目には、怒りと、何か別の感情が混ざっていた。
三曲目が終わり、ステージの照明が明るくなる。拍手が響く。
カガミは何かを言いかけて、やめた。キリカも何も言わない。
「……外、出る。」アコが突然言った。
ヒデミは何も言わずに、一緒に廊下へ出た。
壁には『Ragging Bull』のポスターが何枚も貼ってある。その中に、メンバーのアップの写真があった。ユキの顔。唯の顔。他にも人がいる。
アコはそれを見つめて、立ち止まった。
「……綺麗やな。」声は小さかった。嫉妬?それとも——羨望。
「あんたも負けてへんで。」ヒデミが言う。
「違う。うちは——」
アコは言葉を探していた。ユキは技術がある。唯は落ち着いている。自分のバンドは、まだまだ未熟だ。でも——
「うちは、うちらの音が好きや。」アコが言った。「下手でも、不器用でも、あの音が好き。」
「あの子たちはうちらの夢を踏みにじる資格なんてあらへん。FAがうちにどれだけ大きな変化をもたらしたか、うちは知っとる。だから……さっきはほとんど怒鳴りつけそうなったわ。」
ヒデミは何も言わずに、アコの頭をポンと叩いた。
「戻ろか。」
「うん。」
中に戻ると、ちょうどライブが終わったところだった。アンコールの声が響いている。
カガミたちは壁際で待っていた。
「お疲れ。どうやった?」キリカが聞く。
「……なんか、すっきりした。」アコが答えた。「うちは、うちらの音が好きやって、再確認できた。さっきは興奮してしもて、あの子らに怒鳴りつけたいぐらいやった……」
カガミが嬉しそうに笑った。「それでええねん!」
アンコールが終わり、観客が出口に向かって移動し始める。
「さあ、帰ろか。」カガミが言った。
その時——入口の方から、誰かが歩いてきた。
唯だった。まだライブの衣装のまま、ギターケースを背負っている。
「あ、いた。」唯は微笑んだ。「来てくれたんですね。ありがとう。」
「え、あの……」カガミが戸惑う。
「ちょっとだけ、いいかな?」唯はカガミを見た。「特に、キャプテンのスパークルさんと、話がしたいのですが。」
カガミはキリカと顔を見合わせた。
「……別にええで。」カガミが答える。
少し離れたベンチに、唯とカガミが座った。他のメンバーは少し距離を置いて待っている。
「今日のライブ、どうやった?」唯が聞く。
「……上手かったです。特に唯さんのギター。」カガミは正直に答えた。
「ありがとう。でも、まだまだですけどね。」
唯は少し間を置いて、言った。
「カガミさん。あなた、ギター、とても上手いですね。」
「え?」
「動画を見ました。FAのライブの。あなたのソロ、とてもかっこよかったです。」
カガミは照れくさそうに頭をかいた。「まだまだですけど……」
「ユキも認めていました。『あのキャプテンは、技術はある』って。」
「ユキが……?」
「はい。あの子、口では悪く言いますけど、認めています。彼女は、あなたがうちのバンドのギタリストより上手だと思っています。だから、あなたにオリーブの枝を差し伸べたいのです。」
唯は真剣な目でカガミを見た。
「カガミさん。もしよろしければ、私たちのバンドに入りませんか?」
カガミは目を見開いた。「え?」
「あなたがあのバンドのリーダーだと知っていますが、私たちにはあなたの才能を発揮できるより良いチャンスがあります。ユキもあなたを恨んではいません。あのバンドはもう終わっています。メンバーはまとまりがなく、方向性も定まっていません。あなたが来れば、もっと強くなります。」
「ちょっと待って——」
「キーボーディストは別にいなくてもいいです。ギターで、私たちのバンドはもっと良くなります。」
「私はバンドのギタリスト、小林をクビにしてあなたを入れたいのです。どう思いますか?」
カガミは固まっていた。
その時、近くで聞いていたセイナが飛び出してきた。
「ちょっと待ってください!」
「セイナちゃん?」カガミが立ち上がる。
セイナは唯の前に立ちはだかった。声は震えていたけど、目はしっかり前を向いていた。
「カガミさんを、取らないでください。」
「セイナさん……」カガミが驚いた顔で見る。
「カガミさんは、私たちのキャプテンです。FAのリーダーです。」セイナの声がだんだん大きくなる。「他のバンドに行く必要なんて、ありません。私たちは——まだまだ未熟です。でも、私たちは家族です!」
唯は少し驚いた顔をして、それから微笑んだ。
「家族、ねえ。」
「そうです。」セイナは続けた。「カガミさんが私たちと一緒にいてくれるから、私たちも頑張れる。技術だけじゃない。大事なのは、一緒に音楽を作りたいっていう気持ちです。」
さっきついてきたハナルとキリカも中に入ってきた。キリカは怒りが大きいようで、何かを発散したい様子だった。それは、相手がカガミを引き抜こうとしているという怒りだった。ハナルも何か言いたそうだった。
カガミはセイナの肩に手を置いた。
「セイナちゃん。ありがとう。」
それから、唯に向き直った。
「唯さん、誘ってくれてありがとう。でも、オレはここにいる。」
「FAが、オレの居場所やから。」
唯はしばらくカガミを見つめていたが、やがて小さくうなずいた。
「……わかりました。ごめんなさい、変なことを言って。」
「いいえ。でも、唯さんはなんで——」
「なぜそんなことを言ったか?」唯は少し寂しそうに笑った。「おそらく……ユキをもう少し楽しませたかったんです。あの子は確かに勉強をとても重視していますが、私は思うんです……そんなに嫌っているわけじゃないと。ただ、少し偏狭なだけなんですよね。」
「ユキは……」
「あの子、ああ見えて、すごく寂しがり屋なんです。FAにいた時も、心のどこかで、あなたたちと一緒にいたかったんだと思います。でも、自分から離れてしまった。本当に仕事を奪われたのかな?」
唯は立ち上がった。
「今日は、誘ってごめんなさい。でも、あなたたちのバンド、応援しています。皆さんの成功を祈ります。」
「唯さん——」
「じゃあ、また。」
唯は振り返らずに、廊下の奥へ消えていった。
「……セイナちゃん。」カガミが言った。
「はい。」
「今の、めっちゃかっこよかったで。」
セイナは顔を赤らめた。「そ、そんなこと……でも、カガミさんが取られるのは嫌で、つい……」
「ありがとう。でも、オレはどっこも行かへんで。FAが一番やから。」
「……はい。」
二人が戻ると、キリカが呆れた顔をしていた。
「何やっとったん?」
「唯さんにスカウトされた。」カガミが笑いながら言う。
「はあ?」
「でも、断ったわ。」
「当たり前や。」キリカが鼻で笑った。「あんたがいなんだら、誰がキャプテンやるねん。」
ハナルも安心したように微笑んだ。「よ、よかったです。」
アコはヒデミの隣で、何かを考えていた。
「……ヒデミ。」
「ん。」
「うち、写真撮りたい。」
「は?」
「ユキたちのポスター、見てて思ったんや。うちらも、もっといい写真撮らなあかん。」
ヒデミは首をかしげた。「今から?」
「うん。車、出せる?」
「……駐車場にあるけど。」
「じゃあ、行こ。」
アコはみんなの前に歩いていった。
「みんな、ちょっと聞いて。」
五人がアコを見る。
「これから、写真撮りに行く。うちらの、新しい写真。」
「え?今から?」カガミが驚く。
「うん。ユキたちのポスター、見てて思ったんや。うちらも、もっとかっこいい写真を撮らなあかん。SNSに載せるやつ。」
「でも、もう夕方やで。」キリカが言う。
「大丈夫。夕暮れの方が、綺麗に撮れるかもしれへん。」
アコはヒデミを見た。
「ヒデミ、車、出せる?」
ヒデミはため息をついた。
「……しゃあないなあ。駐車場、こっちや。」
六人はライブハウスを出た。夕日が、建物の影を長く伸ばしている。
ヒデミの車は、建物の裏手の駐車場に停めてあった。ボロい軽自動車。でも、FAの六人が乗れば、ちょっとした移動基地になる。
「乗れや。」ヒデミが運転席に座る。
カガミが助手席に飛び乗る。後ろに四人がぎゅうぎゅうに座る。
「どこ行くん?」ヒデミが聞く。
「海。」アコが答えた。「夕暮れの海で、写真を撮りたい。」
「海か……ちょっと距離あるで。」
「ええねん。」
ヒデミはエンジンをかけた。
「シートベルト、締めろよ。」
車が動き出す。窓の外では、街の灯りが点き始めていた。
「なあ、ハナルちゃん。」カガミが振り返る。
「な、なに?」
「今日のライブ、どう思った?」
ハナルは少し考えてから、答えた。
「……技、技術はすごかった。しかし、た、魂も感覚もない。」
「そうそう、オレもそう思った!」カガミがうなずく。
「わ、私たちは、技術じゃ負けてるかもしれない。で、でも——」
「でも?」キリカが聞く。
「で、でも温かさは負けない。わ、私たちは機械じゃない、本、本物のロックだろう?」
車内が一瞬静かになった。それから、カガミが笑い出した。
「それでええねん!それこそがFAや!」
ヒデミは何も言わずにハンドルを握っていた。バックミラーに映る彼女の目は、優しかった。
車は、夕暮れの街を走り続けた。向かう先は、海。
六人の新しい写真を撮るために。
(From Dandy:
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