人の心とかないんか?
あるところに、バス停の前で立ち往生しているお婆さんがいました。
お婆さんの目的は、車道の向こう側にあるスーパーマーケットです。しかし、足腰の弱いお婆さんが信号のないこの道を渡り切るには、誰かが車を止めてくれなければ不可能に近いことでした。ですが、ひっきりなしに通り過ぎる車の中に、お婆さんに道を譲るような殊勝な運転手は一台も現れませんでした。
お婆さんが困り果てていると、一人の青年がふらりと現れました。
青年は何の躊躇もなく、走行する車の前に身を躍らせました。車は急ブレーキをかけ、止まらざるを得ません。お婆さんはその青年の背中に守られるようにして、ようやく道を渡ることができました。
「なんて優しい子なんだろう。ありがとう。これはお礼だよ。受け取っておくれ」
お婆さんは震える手で財布を取り出し、500円玉を差し出しました。しかし、青年はそれを手で制しました。
「いいから、いいから。遠慮しないで。こういうのは素直に受け取るものだよ。あんたはいいことをしたんだから」
お婆さんが無理やり握らせようとすると、青年は鼻で笑いました。
「は? 違うし。少なすぎんだろって話。ちょ、財布見してみ。ほら、あるじゃねえかよ万札。てかこれ全部もらうわ」
青年はお婆さんの財布をひったくると、呆気にとられるお婆さんを残して雑踏へ消えていきました。
◆
しばらくの間、お婆さんが呆然と立ち尽くしていると。
「おう、さっきのババア」
くちゃくちゃとガムを噛みながら、先ほどの青年が戻ってきました。その手には一枚の紙切れと、膨らんだ買い物袋が握られています。
その紙切れは、お婆さんが財布に入れていた「買い物リスト」でした。青年は無造作に買い物袋をお婆さんへと差し出しました。
「ああ、ありがとう……! 私はとんだ誤解をしていたようだね。やっぱり優しい子だよ」
お婆さんは自らの不信感を恥じ、感謝を込めて袋を受け取りました。
青年が再び車を強引に止めると、お婆さんはその後を追って車道を渡り、バス停へと戻ります。
重い袋が腕に食い込み、足腰に堪えましたが、自分の代わりに買い物をしてくれた青年の厚意を思えば文句など言えるはずもありません。
バス停に着き、お婆さんは深々と頭を下げました。
「本当に、本当にありがとう。私のためにわざわざ買ってきてくれて……」
すると、青年はお婆さんの手から買い物袋をひったくるように取り上げました。
彼はガムを吐き出すと、お婆さんを睨みつけました。
「は? 何言ってんの? これ、俺のだし。重いからお前に運ばせてただけだけど」
お婆さんは、大きなショックで目の前が暗くなりました。青年はすでにどこかへと向かって歩き始めていました。
ショックを受けたお婆さんももう帰ることにしましたが、バス代さえ残っていません。お婆さんは最後の力を振り絞り、情けを乞うように青年の背に言いました。
「せめて、一つだけお願いだよ。バス代だけは返してくれないかい。これがないと、私は家にも帰れないんだよ……」
どうせ聞き入れられるはずがないと、お婆さんはまったく期待していませんでした。
しかし、青年は意外にもお婆さんのところへ戻り、無言でお婆さんの手にいくらかを握らせたのです。
ああ、やはりこの子にも人の心があったのだ。お婆さんの心に、最後の一滴の温もりが宿りました。
青年が去っていく後ろ姿を見送りながら、お婆さんがジーンと胸を熱くさせていると、ちょうどバスがやってきました。お婆さんはバス代を確認しようと、ゆっくりと掌を開きました。
そこにあったのは、買い物リストに包まれたガムのゴミでした。




