第二十章(1)
静かな対面だった。数年間引き裂かれていた親子は、この日人知れず再会を果たすこととなった。
ティカさんはパンパンに膨らんだずだ袋を床に下ろし、ルカさんにゆっくり近付いていく。顔を覗き込み、銀色の髪に手を伸ばし、優しく撫でながらこう言った。
「変わっていない。あれから五年も経つのに、別れた時のままだ……」
その発言は比喩なのかと思った。昔の面影のままに成長していることを暗示しているのかと思った。
だけどティカさんの悲しそうな様子に、わたしは気付いてしまう。ティカさんが、"そのままの意味"でそう言っていることに。
「変わっていないんですか?」
「ああ……。この子はもう十九になるはずなのに、どう見てもまだ子供じゃないか」
十九。ルカさんは、わたしよりも五つも歳上だったの? わたしは驚いて彼を見た。
幾分か痩せて顔色が悪くなっているけども、どう見てもルカさんは出会った頃のルカさんと同じ印象で、わたしと同じか少し上くらいとしか思えない。
神樹の実を食べた白子でも、成長が止まるわけではない。老いることはなくなるけど、子供から大人になることはできるはず。物心ついた頃から実を食べ続けているという虎白さまが、二十代後半くらいまで成長できているのがその証拠だ。
やっぱりルカさんは司彩に憑かれた白子の挙動に似ている。橙戌が子供の姿を保っていたことから想像できる。司彩に憑かれた白子は成長を止めてしまうのだ。
「五年間成長が止まっているのだとすると、ルカさんは五年前くらいに何かに取り憑かれたのでしょうか」
「いいや、違う。ルカにアレが入ったのは十年前、九つの時だ。多分、親父が死んだときだからね」
「アレ?」
「アレだよ」
さも当然のように言われるので、わたしは困ってしまった。アレってなんだろう。ティカさんは困惑するわたしに言った。
「あんたも会ったと言ってたじゃないか。アレだよ。ルカの中に入っている悪魔さ」
「悪魔?」
ティカさんは溜め息をつく。愛おしげにルカさんの髪の毛を何度も指で梳かしながら、静かに呟いた。
「私たちの一族にしか憑かない悪魔。この子の前はこの子の親父が、その前は祖父が、この悪魔に憑かれていたんだ。ルカは金色の髪じゃなかったから、憑かれないと思っていたけどやっぱり駄目だったんだね」
「ルカさんの一族にしか憑かない? 白子じゃなくてですか?」
ティカさんは頷く。わたしの頭は混乱してしまった。司彩と同じようなものだと思っていたから、白子なら誰でも憑く可能性があるのだと思っていた。
ルカさんの一族にしか憑かないというのなら、それは白子じゃなくても憑くことができるということ? 目を白黒させるわたしに、ティカさんは語った。
「私の一族は、悪魔の一族と言われていた。ディールの村人にだけどさ。金色の髪と赤い瞳を持っていて、みんな同じ顔をしている。気持ちの悪い一族と言われていた」
昔は数人の家族と暮らしていた。家長と呼ばれていた祖父に、悪魔が憑いていた。悪魔が憑いている人は、たまにおかしくなるんだそうだ。普段は温厚な性格をしていても、ふとしたきっかけで化け物になってしまう。少年のような高い声で、子供のような猫被った話し方をする。そうなる期間が長くなると、ついには歳を取らなくなってしまう。ティカさんの物心ついた頃の祖父は、三十代そこそこにしか見えない容姿をしていたそうだ。
「次にそうなったのは親父だった。親父は優しい人だったが段々と爺ちゃんのようになっていった。母ちゃんが色々と教えてくれた。この呪いの進行を止める方法を私たちはこっそりと受け継いでいたんだよ」
ティカさんのお母さまも亡くなり、他の家族もいつの間にかいなくなり、色々あってついに一族はティカさんとルカさんとルカさんのお父さまだけになった。
悪魔というのは、家長が死んだ時にすぐそばにいた家族に移っていくらしい。ティカさんは、ルカさんにそれが移ってしまうのを止めることができなかった。
「ルカさんは段々とおかしくなったと言っていました」
「そうだよ。私がおかしくならないように止めていたから。母ちゃんが親父にしていたことを、私はルカに試していたんだ」
ルカさんは十九には見えないけど、どう見ても九つにも見えない。五、六年の間、ティカさんはひとりで呪いと戦っていた。ルカさんが悪魔にならないように奮闘していた。
それなのに、その均衡をランディスさまたちがぶち壊してしまった。
ティカさんは深い溜め息をつく。わたしは申し訳ない気持ちになった。
「呪いの進行を止めるにはどうしたらいいのでしょう」
「できるだけ普通の人間として暮らすことだ。良く食べ良く眠り、良く笑い良く泣いていれば呪いは進行しない」
「それは……」
無理だ。今の状態のルカさんに、そんなことをする余裕はない。そもそも目が覚めなければ、食べるのも笑うのも無理な話だ。
「他にもある。もうそろそろ朝になる頃かな。布団を干したいんだが、できそうかね?」
「お布団ですか?」
予想外の頼み事に、わたしはどうしたらいいか困惑する。とりあえず部外者が入り込んだことから説明しなくてはならない。その朝訪れたリンさんにこれまでの事情を説明してから、布団を干したいことを伝えた。
「布団ですか? まあ……いいんじゃないでしょうか……」
ノギスのことを伏せていたから、リンさんとしてはどうやってティカさんを連れてこられたのかが理解できなかったらしい。でもわたしが司彩の力を使えることを彼女は知っているから、司彩の力か何かだと勝手に思い込んでくれたようだ。深くは問い質されず、布団をもう一式用意してくれ、天日干しすることを許してくれた。
布団を干しただけで何が変わるというのか。わたしは疑問だったけど、その効果は歴然だった。その晩のルカさんの表情は穏やかで、珍しく深い眠りについているように見えた。
ティカさんとわたしはそれから毎朝布団を干し、ルカさんの布団を交換してあげた。ルカさんの髪の毛は日の半分は金色をしていたのに、布団を干しはじめてからは段々と銀色でいる期間が長くなり、数日後にはすっかり金色に変わらなくなった。
「すごいわ。見違えるようね」
ティカさんが疲れて眠ってしまってから、ノギスが数日ぶりに話しかけてくる。彼女はあれから部屋の隅で一部始終を眺めていただけだった。必要以上に手を貸してくれるつもりはないらしい。
「流石はお母さまです。本当にすごいです」
椅子に座ったまま、ベッドに突っ伏して眠ってしまったティカさんの肩に毛布をかけてあげて、わたしは畳んで置いてあった布団の上に腰かけた。
「数年間離れ離れだったけど、ティカさんはルカさんの一番の理解者であり続けたんですね」
寄り添うように眠るふたりを眺めながら、わたしは羨ましいと感じてしまった。
わたしの母さまは、わたしのためにここまでしてくれるだろうか。わたしの母さまはわたしが八歳になるまで一緒にいてくれたけど、それから六年間のわたしをほとんど知らない。今のわたしと八歳のわたしにどれくらい共通点があるだろう。自分ではよくわからない。
そもそも母さまは今、荒れ果てたアピスヘイルにいるのだ。わたしを助けている余裕なんてなく、わたしが彼女を救わなくてはならない状況なのだ。
わたしはワンピースの裾をギュッと握り締める。ルカさんの件が落ち着いたら、すぐにでもアピスヘイルを救いに行こうと心に決める。
翌朝目を覚ましたティカさんは、ずだ袋から一冊の絵本を取り出した。
「その本は?」
「ルカが好きだった本だよ」
表紙を覗き込むと、一匹の汚い野良犬の絵が描かれていた。
この絵本は知っている。アピスヘイルの図書館にもあった。確か、『神から見放された犬』だ。
「その本が好きだったんですか……?」
わたしは眉をひそめた。内容は詳しく覚えていないけど、間違いなくルカさんの好みそうなものではない。
ティカさんは本をめくり、朗読を始める。それを静かに聞きながら、わたしはなるほどと納得した。
『幸福に死んだ犬』
とある村に一匹の犬がいた。
犬はとても賢く善良な犬だった。神さまに愛された犬だった。だから犬は何度も犬として生まれ変わり、その度に違う主人と違う人生を生きた。
主人は大変に犬を愛し、犬は毎日きれいに洗われ、美味しいものを食べた。きらびやかな彼はたくさんの犬たちから憧れの存在だった。
だけどその犬は、誰も愛していなかった。神に愛されていた彼は記憶を持ったまま転生したにも関わらず、誰一人の顔も名前も、自分に付けられた名前すら覚えていなかった。
十一回目に生まれ変わった犬は、初めて主人を亡くして野良犬になった。
どんどんみすぼらしくなる自分に不安を感じた犬は、きらびやかな前世の話をして周りの犬たちの気を引こうとしたが、小汚い姿の彼を誰も相手にしてくれなかった。
誰も彼に興味を持ってくれない中、一匹のメス犬が彼に近付いてきた。彼女は彼のみすぼらしい姿なんて気にしなかった。彼女もまたみすぼらしい姿をしていたからだ。
初めて自分に興味を持ってもらえた犬は嬉しくてたくさんの話をし、彼らは瞬く間に仲良くなった。
やがて二匹は一緒に暮らすようになり、少しずつ二人だけの思い出を作っていく。二人で食べたもの、二人で見たもの、触れたもの。気が付いたときには犬は前世のことをすっかり忘れてしまっていた。
やがて二匹の間にたくさんの子供が生まれ、彼は一匹一匹に名前を付ける。それはすべて彼の好きなものをもじった名前だった。
みすぼらしい一家に誰も興味を示さなかったが、彼らは幸福だった。
やがて彼は病魔におかされ、余命幾ばくもない状態になる。今まで死を恐れたことのなかった彼は、初めて死ぬことを恐れ、病床で涙した。
三日三晩涙を流した彼は、神に祈る。"愛する家族の名前を永遠に忘れませんように"。
みすぼらしい棲み家にはみすぼらしい家族しかいなかったけど、彼は一匹一匹の顔を見て、名前を呼んだ。彼らはみんな彼の名前を呼んだ。
満足した彼は、ゆっくりと眠りに付く。神は彼の幸せそうな顔を見て涙を流す。
そして彼が再び生まれ変わることはなかった。
ティカさんが読んだのは、そのような話だった。
わたしが記憶している内容とまるで違う。ティカさんは文字が読めないんだ、とわたしはすぐに理解した。
ティカさんは絵本の挿絵を頼りに、絵本の内容を創作して話したんだろう。その創作のお話が、ルカさんは好きだったんだ。
ティカさんは何度も何度も本を読む。ルカさんに声は届いているだろうか。想像で読んでいるわけだから、話す度に内容が少しずつ変わる。だけど概要は同じで、犬は最後に幸せに包まれて死んでいく。
五度目の朗読が終わった頃だったか。ルカさんの目から、一筋の涙が溢れたのに気が付いた。




