第十九章(1)
ルカさんは、相変わらず意識を取り戻さなかった。わたしはベッドに横たわりうなされる彼の看病を続けた。
吐血はなくなったけど、熱が下がらない。何度換えても額の濡れタオルはすぐにホカホカと熱を持ってしまう。
ルカさんの髪は、今は銀色になっていた。だけど少し前には金色だった。目はしっかりと閉じられていたので色は分からない。そんな状態がもう、一週間ほど続いた気がする。
イグニアヘイルからハクトに戻ったあと、苦しむルカさんを見て虎白さまは言った。
「こいつは外部から操られているんじゃない。内部に何かを飼っている。俺たちと同じ"頭"だ」
「頭……。何に憑かれているのでしょう……司彩は六柱しかいないんですよね?」
「司彩ではない。金色の髪の司彩は金鳳しかいない。こいつが飼っているのは、得体の知れん化け物だ」
化け物……。虎白さまがルカさんを見る目は冷たかった。
彼はわたしから毒を取り上げ、ルカさんの体を蝕む原因を突き止めながらも治療をすることを拒否した。
「本来なら死罪だ。俺の命を狙うなど万死に値する。だが司彩と同じなら、ルカが死ねば何かが出てきて白子に乗り移るかもしれん。生きている状態で隔離しなくてはならん」
この状態は都合がいい。しばらく悪巧みもできんだろう。この程度でどうせ死にはしない。そう言い放つ虎白さまの目は冷めていた。
わたしは彼が怖いと思った。あんなに親しみを持っていた虎白さまに、今は恐怖していた。でも、彼が変わってしまったわけではない。彼は元からこういう人だった。
『虎白は複雑なことをやってのける奴だけど、思考回路は非常にわかりやすく単純だ。考えているのは、ハクトにとって何が得で、何が損なのか。』
かつてスイさんがわたしに語った言葉を思い出す。
『そういうものとして彼を見たら、上手いつきあい方というのが見えてくるだろう。参考になったかな?』
参考になったわ。ありがとう、スイさん。
要するに、虎白さまにとってルカさんは、ハクトに害のあるものと認識されたのだ。だから極端に冷たくなった。ハクトに害のないように、彼を排除しようと考えた。その結果ルカさんは、大した治療も受けさせてもらえず地下深くの牢屋に閉じ込められた。ベッドがあるだけの狭い部屋。明かりだけは辛うじて、電気が通じているお陰で充分に与えられていた。
わたしは虎白さまに泣き付いて、側で看病させて欲しいと頼んだ。虎白さまにとってわたしはまだハクトに有益な存在だからだろう。なんとか温情を受けることができ、同じ牢に入ることは許された。
だからわたしは、ここでずっとルカさんを見守っている。リンさんとニトさんはわたしたちを心配して、日に何度も様子を見に来てくれた。
「必要なものがあれば言ってください。可能な限りは用意しますから……」
申し訳なさそうに、彼女たちは言った。わたしは冷たい水とタオルを要望して、ルカさんが少しでも楽になるように額を冷やし続けている。
何もできない。わたしには、何もできない。ルカさんが元に戻ってくれることを祈るしかできない。時間がたっぷりあったから、わたしは昔のことを思い出していた。ルカさんに会ってから、今までのことを。
わたしがルカさんに初めて会ったのは、今年の四月。半年ほど前のことだ。正確に言うと、一月の正礼拝で既に会っていたのだけど、テオドアだと思い込んでいたからあまりよく覚えていない。
わたしが彼について思い出せる一番最初の記憶は、羊角の大教会に忍び込んだときのこと。彼は今では信じられないほど、おかしな男の子だった。自分を傷付け死のうとしている、酷く精神を病んだ男の子だった。
彼はわたしと話す度に、落ち着きを取り戻していった。眠りさえしなければ、普通に話し、笑い、趣味である勉強を楽しむこともできた。だけどやっぱり彼は普通の男の子ではなかった。彼はご飯を食べず、眠らず、傷が治癒する特殊な体質であり続けた。
彼は神樹の実を食べたことはないと言っていたから、初めから何かが憑いていたことになる。わたしが藍猫に憑かれてから特殊な体質になったように、ルカさんも何かに憑かれてから特殊な体質になったのだろう。
彼が特殊な体質になったのは十年前からだと言っていた。彼が今いくつなのかはわからないけど、わたしと同じくらいであれば、四、五歳のときには何かに憑かれていた。それほど前から彼は、何かに操られる人形だったのだ。
テオドアが"悪意"と呼んでいたものが何なのかはわからないけど、無関係とは思えない。司彩は白子を操ることができる。その"悪意"も白子を操ることができるのなら、テオドアは遠隔で操られていただけに違いない。
頭であるルカさんが、テオドアを操ってどこかに行かせた。テオドアは"悪意"の目的を果たすために、消された。そしてルカさんは、"悪意"の目的を果たすためにアピスの白子にされたわけだ。
"悪意"の目的は、エリファレットさまを殺すこと。彼女に近付くためには、アピスの白子になるのが一番簡単だから、そうしたのだろう。わたしはその企みに巻き込まれただけなのだ。わたしがいてもいなくても、アピスヘイルは同じ運命を辿っていたのだ。
それでもわたしが藍猫を宿したとき、スイさんや虎白さまのようにちゃんと司彩の力を使えたなら、アピスヘイルに災厄は起こらなかっただろう。わたしは被害者ではない。わたしは被害者面をして知らんぷりすることはできない。
わたしの考察がすべて正しいとは思わないけど、少なくとも"悪意"が意図的に世界を狂わせたことは間違いなさそうだ。"悪意"は、世界を壊そうとしている悪魔だ。
わたしはルカさんの額のタオルを取る。水に浸して、絞ってもう一度額に乗せる。苦しそうな表情は相変わらずだ。髪の毛はいつの間にか金色に変わっていた。
「ルカさん。あなたは、どこまで知っていたんですか……?」
今思えばルカさんは、"悪意"について何か知っていたようだった。
思い出されるのは、テオドアの最後の手紙を読んだあと。ルカさんは何故だか急に全てを忘れてしまったかのようにテオドアの話題を口にしなくなった。まるで"悪意"について言及されるのが嫌だったように。彼はその話題から徹底的に背を向けた。
「あれは、"悪意"がさせたことですか? それともルカさんが自分でやったことですか?」
わからない。わからない。
ルカさんは銀髪をしていた。多分わたしと同じで、"悪意"は眠った状態なのだと思う。それならルカさんは、ただの可哀想な白子なの? 金髪にならなければ、ルカさんはわたしの知っている優しいルカさんなの?
だけど何かのタイミングで、ルカさんは"悪意"になってしまう。"悪意"になれば、多分また司彩を殺そうとする。わたしも司彩だ。近くにいればわたしも狙われるだろう。
わたしはこのままルカさんの側にいていいのだろうか。虎白さまの側で、守ってくださいと震えているべきなのだろうか。
「う……うう…………」
ルカさんは苦しそうだ。まだ毒が抜けていないんだろう。髪の毛は金色だったけど、紛れもなくわたしが知っているルカさんの顔だ。ルカさんが苦しんでいるのに、放置して逃げるなんてできない。本心はどうあれ、ルカさんはわたしを見捨てずにずっと側にいてくれたのだ。それがわたしにとってどれほど救いだったことか。
「ううう…………」
滝のような汗をかいている。わたしは別のタオルで額を拭いた。
何か痛みを和らげるようなものはないのかしら。リンさんに頼んでみよう。わたしがそう思っていたとき、脳内に聞き慣れた声が響く。
『違うわ。彼が苦しんでいるのは、悪夢を見ているからよ』
マグノリアだった。イグニアヘイルで眠りについてから、彼女が思念を送ってきたのは初めてのことだ。
マグノリア! 起きたのね。良かった。わたしがそう応えると、彼女は不満な気持ちを溢れさせてこう言った。
『わたしのことはどうでもいいの。今はルカのことを考えましょう』
ルカさんは今、悪夢を見ているの?
『ええ。さっきからずっとよ。あなたには見えないのね』
あなたにはルカさんの夢が見えるの? わたしは驚いた。他人の夢が見えるなんて、聞いたことがない。
『彼は司彩に近い存在なのね。普段は誤魔化していたようだけど、今はそんな余裕がないみたい。頭の中が駄々漏れよ』
駄々漏れ。わたしがそうだったと、マグノリアは言っていたっけ。
ルカさんの夢は、どんな夢なの?
『酷い夢よ。これは……酷い夢』
マグノリアが顔を歪めているのがわかる。わたしは恐怖した。ルカさんの悪夢は、ルカさんをおかしくしてしまう。彼を狂わせるほどの悪夢とは一体どんなものなのだろう。
『知りたい?』
マグノリアに問われて、わたしは戸惑った。知りたいかと言われたら、知りたいのかもしれない。ルカさんと同じ苦しみを分かち合いたい気持ちはあった。
だけどもしその夢が、ルカさんをルカさんでなくしてしまうような恐ろしいものだったなら。わたしは目の前のルカさんを、ルカさんと思い続けることができるのかしら。
『カノン。わたしは、知るべきだと思うわ』
マグノリアは静かに言った。
『この夢は多分、彼の苦しみの始まりであり、彼の苦しみの全てに繋がっている』
…………。
『彼に取り憑く"悪意"もまた、この苦しみを抱えているのかもしれないわ……』
"悪意"の苦しみ? そう問うと、マグノリアは頷く。
『わたしは、彼の前世こそが"悪意"なのだと思っている。ルカを救うには、彼の前世が何かを知る必要がある』
ルカさんの前世が"悪意"? マグノリアは再び頷いてからこう言った。
『カノン。あなたにも見せましょう。ルカの悪夢、ルカの前世の夢を。あなたはルカを救わなくてはならないわ』
マグノリアの言葉を皮切りに、わたしの意識はどこか遠くへ飛んでいく。
多分、これはルカさんの夢の中。わたしの目の前に、見たことがない不思議な景色が広がっていた。




