第十七章(5)
ハオランさんがやってきてから、彩謌隊の座学や演習は対兎緋を想定したものに変化していた。
兎緋は火を司る神さまなので、使用する彩謌は炎が絡むものが多い。ハクテイには長い間蓄積された司彩や彩謌の研究の歴史があるから、どんな音でどんな彩謌が放たれるか、どんな戦闘になりそうかというのはある程度予測できていた。
もしかすると、″金鳳″(金の鳳凰は、乗り移る白子の性別で名前が変わるのだと後から聞いた)となった虎白さまの知識によるものもあったのかもしれない。かなり具体化された演習内容に、彩謌隊の面々は来るべき兎緋戦に充分に士気を高められていたし、応戦できる自信も付いていた。
出陣が迫る中、虎白さまが彩謌隊の人たちひとりひとりに意思を確認しているらしいという噂を耳にした。
今回の出兵は、本当に司彩と戦闘する。命の保証はできない。命が惜しいものは無理に参戦することはない。ハクトに留まり都を守るのも重要な任務だからと言い、前線に立つか、後衛をするか、どちらを希望するか尋ねているという内容だった。
士気を高められた白子たちは、もちろん前線を希望する人が多く、リンさんを始めとしたわたしの周りの人たちはみんなイグニア行きを希望すると言っていた。
出陣前夜、ようやくわたしたちにも声が掛かり、待合室で待っている間わたしはルカさんにこんな話をした。
「ルカさん。わたしは行こうと思っていますが、ルカさんは無理に行くことはないですよ。アピスヘイルのことも司彩のことも、全部わたしの問題であって、ルカさんには関係がないんですから……」
ルカさんは眉間に皺を寄せて、不機嫌そうな顔をする。怒らせてしまったかとあたふたしていると、彼は一言だけこんなことを呟いた。
「お前だけを行かせるわけにはいかねぇだろ」
その答えを聞き、わたしは申し訳なく思った。ルカさんは度々わたしのせいで危険な目に遭っている。わたしが他人に踊らされて、フラフラといらないことに首を突っ込むのが原因だ。
今回の件も、わたしが断固として行かないと言えば、ルカさんもきっと行かないと答えるのだろう。本当に彼のことを心配するのなら、わたしは行かないと言えば良いのに、どうにもそう言えそうにない。
わたしはルカさんに甘えてしまっている。どんなに危険な場所でも、ルカさんなら一緒に来てくれるだろうと思っている。
「ありがとうございます……」
わたしは正直なところ、ほっとしていた。ルカさんと一緒に行けることを喜んでいた。わたしの感謝の言葉を聞いて、ルカさんは少し嬉しそうな顔をしている。
今のわたしはよく理解していた。ルカさんはこういう人なのだと。わたしの気持ちを尊重して、静かに寄り添ってくれようとしている。それを自分の役目だと思っている。
彼が何故そんなにわたしを大切にしてくれるのかは良くわからなかったけど、わたしはその厚意をありがたく受け取ることに決めていた。ずっとひとりきりだったわたしには、夢見心地なくらい嬉しいことだったから。
ルカさんが呼ばれた後に、わたしが呼ばれる。恐らくわたしが最後の一人なのだろう。待合室には誰もいなくて、謁見の間にも誰もいない。
虎白さまはあえてわたしを最後に残していたのだと思う。側に控えていたファイさんにも席を外させて、彼はわたしに壇上に上がってくるように言った。
「カノン。お前とは少し長い話をしておかねばならん」
虎白さまは隣に小さな椅子を出して、わたしに勧める。
「話とは何でしょう」
前線に立つかどうかの希望聴取ではないのか。虎白さまは普段見せないような、少し疲れた表情を覗かせて口を開いた。
「俺が金鳳になってから、いくつかわかったことがある。今まで見当もつかなかったことだ。あのペテン師はほとんど情報を落とさなかったからな」
ペテン師……スイさんのことか。虎白さまはしばしばスイさんのことをそう表現するけど、一体何を吹き込まれてきたんだろう。
わたしにも思い当たることが無いわけではないけど、虎白さまのほうが長い付き合いだろうから、色々と思うことがあったんだろうな。……なんて過去形に考えてしまって、わたしはちょっぴり寂しくなった。
スイさんとは本当にもう会えないのだろうか……。
「お前が藍猫と橙戌に支配されない理由については以前述べたな」
「はい。前世の魂と融合していないから……でしたっけ」
「そうだ。その推察は概ね正しい。金鳳の見解もそうだった。お前に司彩の魂が割り込んでこないのは、お前と前世がしっかりと切り離されているからだ」
「そうなんですか……」
虎白さまは腕を組み、眉間に皺を寄せる。普段はあまり感情を表に出さない虎白さまが、今日はとても厳しい顔を見せている。わたしは段々と不安な気持ちになってきた。
「司彩というのは、白子を操る。お前も見たことがあるだろうが、スイはウィスを操っていただろう。あれは全ての司彩ができることだ。もちろん俺にもできる。金鳳になった俺は、ハクテイにいる全ての白子を操れるだろう」
「人形状態、というやつですか」
「そうだ。人形状態は、白子の生死を問わない。生きているものはその者の意思が邪魔をするから完全に支配はできないはずだが、意志薄弱な者は兎緋に乗っ取られてしまうかもしれない」
「司彩が亡くなった白子を人形にしているのは、完全に操りたいからなんですか?」
「その通りだ。死んでいる方が操作が楽だからな」
死んでいる方が楽。……司彩というのは本当に、白子を物としか見ていない。わたしは辟易としながら、虎白さまの話の続きを聞いた。
「今回俺が皆の意思を確認したのはそのためだ。無理矢理に連れていけば足元を掬われる。白子には意思を強く持ってもらわねばならん。兎緋に立ち向かうという強い意思がなければ入り込まれる」
「そういうことだったんですね……」
「今まではスイがいてくれたから良かったんだが、今回は俺が皆を守らねばならん。兎緋に入り込まれないように、俺が皆と意識を繋ぐ。人形化されそうになれば、俺が人形にする。そういう戦いになる」
虎白さまの表情は相変わらず厳しい。わたしはようやく思い至った。これまで遭遇した司彩とは一度もまともに戦闘していない。今回の兎緋が初めてなのだ。司彩と真っ向勝負をしようというのは。
神さまと言うほどの力を持つ司彩と正面から戦うなんて、元来無謀なことだ。いくら同じ司彩を宿している身とはいえ、意識を完全に司彩に委ねていない分、虎白さまのほうが不利なのかもしれない。
虎白さまの表情からは苦悩がありありと見てとれた。
「人形状態とするには、前世の魂を足掛かりとする。前世の魂と融合していない幼い白子は操ることができない。だからお前もそうなのだと思う。まだ前世の夢を見ていない年齢だったから、取り憑かれた瞬間に司彩と混ざらなかった」
「そういうことだったんですね」
「だが、そこからの挙動が違っている。普通はそのような状態は長く続かん。司彩は融合を進めるためにお前に前世の夢を見せたはずだ。そうだろう?」
「はい……そうです。確かに見ました。藍猫のときも、橙戌のときも、憑かれた直後に夢を見ました……」
「なのにどうして、お前は司彩と混ざっていないのか。前世と隔たっていられるのか……それがわからん。俺にはわからん」
そんなことを言われても、わたしにもわからない。どうしてなの、マグノリア? 前世の魂に問いかけてみたけど、答えは返ってこない。わからないけど、なんとなく思う。
マグノリアはこの話題を避けている。わたしと融合することを拒絶している。彼女は自分のことを思い出さなくていいと言った。眠らない方がいいと言った。
もしかして、マグノリアがわたしと司彩を引き離してくれているの? わたしを守ってくれているの?
「俺も司彩になるまでは、自分に自信があった。どんなことがあろうと自我を失うことはないと、根拠のない自信があった。しかし、案外脆いものかもしれん。俺は大して意思の強い人間でないのかもしれん」
「えっ! そんなこと言わないでください、虎白さま……」
「お前もスイも強い人間だったんだな。俺は自分を買い被っていたようだ。自他の境界を保つのはなかなかに難しい」
虎白さまは笑ったけど、それは自嘲のようだった。彼の口から弱音が飛び出るとは思っていなくて、わたしはすっかり狼狽してしまう。
虎白さまが金鳳に飲まれてしまったら、ハクトはどうなるの? アピスヘイルはどうすればいいの? わたしが目を白黒させている間、虎白さまも何かを思案していたようだった。彼は天井を見ていた視線を下げて、徐に口を開く。
「自己を保つには、単純な願いで頭を満たすほうがいいのかもしれんな。強烈で単純な望みというのは、自分という魂の境界を強固にしてくれる気がする」
「単純な望み……ですか?」
「正しくありたいとか、国を守りたいとかいう望みは複雑すぎて混沌に飲まれやすい。そんな公明正大な考えなどかなぐり捨てて、もっと私的な、ひとつの単純な思いを芯にしたほうが良いのかもしれんな」
「例えば……?」
「そうだな。『死にたくない』とか」
『死にたくない』……。わたしの心臓は大きく跳ねた。
『死にたくない』。確かにわたしは、強くそう感じていた。だからこそ白子の審判をうまくこなすことができなかった。人一倍強いこの思いが、偶然にも司彩を抑え込む事態に繋がったと言うのだろうか。
「そういう考えを持っていないか? カノン。お前はどうやって自己を保っている」
わたしは虎白さまに問われて、首を横に振った。くだらない自己保身が事の発端だなんて、知られたくないと思ってしまった。
「わかりません……。でも、スイさんは言っていましたね」
「何と言っていた?」
「『神が創り与えしこの体は、唯一のものにして最高の逸品である。よく学び、よく遊び、よく生きよ。隅々まで自らを感じ、世界と魂の境界を自ら創り上げるのだ』」
「創世記の一節か。それがどうした?」
「スイさんはこの詩が気に入っているようでした。司彩に憑かれて戸惑っていたわたしに教えてくれました。『自分を創るのは自分だ。自分がどうありたいかを思い浮かべて実行し続ければ、結果は必ず付いてくる』と」
「自分がどうありたいか、か……」
わたしの話を聞いて、虎白さまはしばらく考え込む。悩む彼の姿にわたしは思った。司彩に憑かれた白子として、わたしは虎白さまよりも先輩なんだなと。
わたしのような小さな人間でも、虎白さまの力になれるのかもしれない。スイさんの代わりが務まるかもしれない。わたしは虎白さまを助けることで、一連の事件の罪滅ぼしができるのかもしれないと思い始めていた。
「ありがとう。参考になった」
「それは良かったです」
「もうひとつ話したいことがあるんだが、聞いてくれるか」
「はい、もちろんです」
先ほどよりも幾分か明るくなった顔で、虎白さまは言った。
「俺は今回の戦いも勝つ気でいる。勝つ気がないならそもそも直接対決など選ばん。だが今回は、無傷で勝てる見込みはほぼない。味方にもかなりの犠牲者が出るだろう」
「そこまでしても今、戦わなければならないんですね?」
「今のタイミングで直接叩くのが、長い目に見ても一番傷が浅く済む。兎緋との決戦は早ければ早いほうが良い」
「それなら仕方がないです。みんな覚悟していますよ」
「そうなのだが、犠牲は少ないほど良い。なんとか最小の犠牲でと思っているが、俺はそこまで気を回せん。気を回し過ぎれば負ける」
普段の虎白さまはこんなにリスクを口にしない。マイナスなことを言って皆を過度に不安にさせないためだと思うけど、どうして今日はわたしにここまで話すのだろう。
答えは明白だ。わたしに頼みがあるからだ。そう思い至った瞬間に、虎白さまは口を開いた。
「そこでお前に頼みがある。お前にしかできないことだ」
「はい。何でしょう……」
「もしお前がうまく前世の魂を隔離できているのなら、その人格と会話することができるのだろうか」
「……できます。多分……」
「恐らくお前の中のその人格は、司彩の力を操ることができる。司彩の魂が結合しているのはお前でなく、その人格だからだ」
「…………」
「金鳳の生命の力は兎緋の火の力と相性が良くない。彩謌隊の得意とする光の力も同様だ。しかしお前が持つ藍猫の水の力は、兎緋を圧倒することができる。おそらく一撃で戦況を好転できるだろう」
「わたしの前世に、藍猫の力を使うように交渉して欲しいということですか」
虎白さまは頷く。そんな提案を受けるなんて思っていなかったから、わたしは驚いた。
確かにマグノリアの髪の色は、青と橙に染まっていた。彼女は既に司彩の力を手に入れているのかもしれない。
「司彩の力は強大だが、代償が大きい。力を使うことで、お前が司彩と混ざる可能性もなくはない。だから、無理にとは言わない。そのリスクを取ってでも力を使うべき場面に遭遇したら、選択肢として考えて欲しい」
「……わかりました」
「よろしく頼む」
結局虎白さまは、わたしに前線に立つ意思を確認することなく話を終えた。前回スイさんの話を伝えたときに、回答を得たと思っているのだろうか。
既に虎白さまの頭には、わたし抜きというシナリオは存在していないのかもしれない。スイさんがいなくなった今、虎白さまにはわたしが必須の駒になってしまったのだろう。
それは光栄なことであったけど、非常に重たい荷物だった。果たして、わたしに背負いきれるものなのかしら……?




