第十七章(3)
九月二日。ハクト・クラウディア連合国は、ついにイグニア国と戦争状態に入った。
しびれを切らしたらしい兎緋が、クラウディアとイグニアの国境へ侵攻したのがきっかけだった。
指揮を執るため、虎白さまは頻繁にクラウディアへ赴き、ハクテイの玉座は空席となっている。
しばらくは有色の兵同士の小競り合いが続くらしく、彩謌隊の出番はまだないと聞いた。
ハクト以外の国には白子兵がいないため、彩謌隊が出動するのは司彩か人形が現れた場合に限られるらしい。
遠くで戦争が起きているにもかかわらず、ハクトは相変わらず平和だった。
わたしたちは夕方から早朝まで実地演習をこなすだけで、昼間は依然として解放されている。
買いたいものもなくなり、商店街をぶらつく必要は減った。
それでもわたしは散歩が好きで、しばしば街を歩き回った。
本当はルカさんと二人で出歩きたかったのだけど、彼は家で勉強している方が好きなようで、無理に誘わず一人で外出することが増えた。
慌ただしいハクテイと比べると、街の一般の人々は落ち着いている。
けれど、まったく以前通りというわけではない。
クラウディアから移住してきた獣人たちがハクトの文化に馴染めず、毎日のように言い争いが起きていた。
今日見たのは、公衆浴場の前で受付に食ってかかる人だった。
獣人が入ったあとは毛が浮くのだから、きちんと掃除をしてほしいと、ヒステリックにまくし立てている。
大したことのない話でも気が立ってしまうのは、不安の表れなのだと思う。
いつも街を歩いていた虎白さまが、最近はずっと不在だ。
ハクトの人たちは、自分たちの虎白さまがクラウディアに奪われたのだと感じている。
そしてその不安を、獣人のせいにしようとしている。
良くない空気だ、とわたしは思った。
並木道の突き当たりにある養護施設へ足を向けるのが、いつの間にか習慣になっていた。
日向ぼっこをするスイさんとアスイさんの姿は、わたしにとって数少ない幸せな光景のひとつだったからだ。
その光景を目に焼き付けようと、わたしは何度もそこに通った。
けれど、いつも二人に会えるわけではない。
十回ほど訪れたうち、遭遇できたのは三回ほどだった。今日も庭に姿はない。
残念な気持ちで踵を返す。
「やあ、偶然だねカノン」
「ひゃああああ!」
背後からスイさんの声がして、思わず悲鳴を上げてしまった。
「どうして叫ぶんだい」
「えっ、その……なんでもないです、あはは」
あなたの秘密を覗きに来ていました、なんて言えるはずもない。
笑って誤魔化そうとしたけれど、スイさん相手にそれは無謀だった。
「君が覗きに来ているのは知っていたよ。なかなか良い趣味だね」
「覗くなんてとんでもないです。ただ散歩をしていただけで……」
「木の影に隠れて、熱心に見ていたような気がしたけど」
「……すみませんでした」
無駄な抵抗だと思い、素直に謝る。
スイさんはくすくす笑っていて、怒ってはいないようだった。
「今日のお散歩は終わったんですか?」
「まだ早いけどね。君が来ると思って待っていた」
「わたしが、ですか?」
頷くスイさん。予想外の展開にどぎまぎする。
「どうしてわたしを?」
「話したいことがあったからさ」
スイさんは並木の向こう、内なる海を指した。
砂浜へ続く階段を降りていく。
白く細かな砂の浜に波の跡が刻まれている。
何もないまっさらな砂浜に足跡を残しながら、スイさんは歩いていく。
わたしは数歩遅れてついていった。
しばらくして、スイさんが速度を緩める。
横に並び顔を覗き込むと、彼は海の向こうの神樹の切り株を見つめていた。
相変わらず、謎めいた薄笑いを浮かべたまま。
「話って何でしょう」
待ちきれずにそう尋ねると、スイさんはわたしを見てこう答える。
「お別れを言っておこうと思ったんだ」
「えっ?!」
「ゆっくり話せるのは今日が最後だと思うから……」
お別れ? 今日が最後? 急に何を言い出すのだろうこの人は。わたしは乾いた笑いを発しながら言葉を絞り出す。
「何を言っているんですか。彩謌隊はまだ出番がないみたいだし、スイさんだってまだ戦争には呼ばれていないでしょう?」
「呼ばれても行かない。私はイグニアには行かない」
「それならまだまだハクトで平和に暮らしていられるでしょう? わたし、この海岸沿いが気に入っていますから、たぶん明日もまた来ますし……」
「私はハクトを発つつもりだ。君との話が終わったらね」
「ど、どうして?!」
悲鳴のような声が出た。
スイさんは薄笑いを浮かべて答える。
「私が虎白の味方でいられるのは、ここまでだから」
「……??」
「私はこれ以上、虎白の味方をすることができない。大人の事情でね」
大人の事情? 何を言っているのだろう。
わけがわからず目をぐるぐる回しているわたしに、スイさんは追い討ちをかける。
「私には時間がないから。だからもう、回り道はできない」
「時間がないって……アスイさんの痴呆が進んでいるんですか?」
わたしの問いかけに、彼は意外そうな顔をした。
「痴呆? ウィスが余計なことを言ったのかな……」
「あ、いえ、その」
不味いことを言ったかしら? わたしはヒヤヒヤしたけど、スイさんの表情はすぐ薄笑いに戻る。
「何を吹き込まれたかは知らないけど、とにかく私には時間がないんだよ。だからもう、ハクトを離れなくちゃならない」
「どうしてですか? スイさんが居ないと困ります。わたしもウィスさんも、虎白さまも……」
「そうだね。困ってくれなきゃ。方々手を尽くした甲斐がないってものさ」
「どうしてそんなことを言うんです? みんなスイさんのことを慕っているのに」
わたしの言葉に、スイさんはふっと笑みをこぼす。
「慕ってくれるのはありがたいが、私は私の味方しかできないんだよ。残念なことにね」
スイさんの意志は固いようだ。わたしの言葉は暖簾に腕押しで、全く心に響いていないらしい。
わたしはしょんぼりと俯いて言った。
「わたしの味方でいてくれると言っていたじゃないですか。あれは嘘だったんですか?」
「嘘じゃないさ。だから最後に君と話をしたかった」
顔を上げるわたし。微笑むスイさんが目に入る。
彼はアスイさんに向けるような優しい笑顔をわたしに向けながら、右手を差し出した。
「君がもし、これからも私の味方で居てくれると言うのなら、これを肌身離さず付けていて欲しい」
「これは……?」
「お守りだよ。君が困ったときに、必ず役に立つだろう」
スイさんがわたしの両手にそっと落としてくれたのは、ネックレスだった。細い銀の鎖の先端に緑色の石が付いている。
「綺麗な石ですね」
「中に虫が閉じ込められているんだよ。珍しいだろう」
親指程もある石をつまんで覗き込むと、小さな白い虫が見えた。とても小さいけど、蜂っぽい見た目だなと思った。
「じゃあ、元気でね」
「もう行っちゃうんですか」
スイさんはわたしの問い掛けに片手を上げて答える。そして一度も振り返ることなく砂浜を後にする。
「スイさん……本当に行っちゃうの?」
わたしは急に、不安な気持ちに襲われた。
彼の消えた先へと駆け出したけど、手遅れだった。
すでにスイさんの姿はどこにもなく、わたしはぐるぐると並木道の周りを回って途方に暮れた。
手に握っていた緑の石をもう一度眺めて、わたしは思う。
もしかして、大変な事態になっているんじゃないの?
スイさんは、ウィスさんや虎白さまに断っているのだろうか。
まさかわたしにしか別れを告げていないんじゃないかしら。
「大変、大変です! ルカさん!」
わたしは急いで家に帰り、ルカさんに顛末を報告した。
「お別れ? なんだそりゃ。勝手なやつだな」
「どうしてそんなことを言うのでしょう。虎白さまに味方ができないとはどういうことなんでしょう」
「あんまり気にしないほうが良いんじゃねーか。あいつはいつも無茶苦茶なことを言うし」
ルカさんが落ち着き払っていたので、わたしも段々と冷静さを取り戻す。
お別れと言いながら、またひょっこり顔を出してくるんじゃないの?
だってスイさんは神出鬼没だし。
虎白さまの味方はできないと言いつつ、今までだって味方らしいことはしていない。
アスイさんは施設にいるだろうから、落ち着いたらきっと帰ってくる。
わたしたちの前には現れなくとも、アスイさんの元には戻ってくるだろう。
気にしなくても、多分大丈夫だ。




