第十七章(2)
八月も半ばに入った頃。相変わらず慌ただしいハクテイが、さらに慌ただしい様相を呈していた。
「どうしたんですか?」
わたしは見当たらないリンさんを探しながら、ようやく見つけた顔見知りのマグニスさんに問い掛けると、謁見の間に皆が集まっていることを聞かされる。わたしたちもそちらへ向かうと、たくさんの人だかりが虎白さまの机の前にできていた。
「リンさん。何があったんですか?」
「カノンさん、ルカさん。大変なことが起きているんですよ!」
リンさんが開けてくれた隙間から人垣の内側を覗き込むと、地べたに額を擦り付けながら座り込んでいる男の人が見えた。見慣れない朱色の服と、変わった形の小さな帽子を被っている。異国から来た人だということはすぐに分かった。
「何ですか? あの人」
「イグニアヘイルから来た使者の方です。今朝からずっとああやって土下座をしているんですよ……」
「えぇ……どうしてですか?」
「それは……」
答えようとしたリンさんが口を閉じる。虎白さまが席を立ったからだ。彼は使者さんには目もくれず奥の通路に足を向け、近くにいた人に一言こう言った。
「もう閉廷の時間だ。客人にはお帰りいただけ」
「は、はい!」
ハクテイの人たちに引きずられていく使者さん。何か色々わめいているけどよく聞こえない。騒ぎが収まってから改めてリンさんに事情を尋ねると、いつものように得意気な様子で教えてくれた。
「彼ははるばるイグニアヘイルから、兎緋の親書を持ってきたんですよ。そこにとんでもないことが書かれていたんです」
兎緋とはイグニア国の先端にある、緋の都カーネリアに住む司彩のことだったはず。「とんでもないこと?」とわたしが問うと、リンさんは話を続けた。
「兎緋は金凰が代替わりしたことに激怒しています。金凰は騙し討ちされたに違いない、卑怯な真似をする次代の金鳳は到底司彩と認められない、裁いてやるから一人でイグニアヘイルまで来いと書いてありました」
「虎白さま一人で? とんでもないですね」
「さらにとんでもないのが、要求を飲まなかったらイグニアヘイルの民を殺していくと言っているんです」
「えぇ?! ハクトの民じゃなくて、イグニアヘイルの民をですか?」
「自国の民をですよ。狂っていますよね」
リンさんはやれやれと他人事のように肩を竦めてみせる。
「さっきの人が土下座をしていたのは……」
「イグニアヘイルの民を救うために、要求を飲んでくれと言っているのです」
「そんなの無理に決まっているじゃないですか」
「その通りです。いくら虎白さまが司彩になられたとはいえ、お一人で敵国に乗り込むなんて絶対にさせません!」
「でもそれだと、イグニアヘイルの人たちは酷い目に遭ってしまうのでは……」
「そんなの知りませんよ! 私たちには関係ないことです」
「関係ないって言っても……」
わたしは言葉に詰まった。確かにどうすることもできないけど、このままイグニア国の人を見捨ててしまっても良いの?
『イグニア国民なんて気にしている暇はないわよ。虎白はアピスヘイルすら救ってくれていないんだから!』
そうなんだけど。でも、一日中額を地べたに擦り付けるあの可哀想な人を放っておくの?
『あなたは色々惑わされすぎよ。アピスヘイルだけならまだしも、他の都の心配なんてしないで頂戴』
マグノリアにピシャリと言われて、わたしは考えるのを止めた。彼女の言う通りだと思ったからだ。わたしは自分の領分を越えた話に首を突っ込めるほど立派じゃない。わたし自身のことですら、まだちゃんとできていないのだから。
その使者さんは次の日も、また次の日も、開廷している時間いっぱい土下座を続けていた。わたしたちは毎夕閉廷直前の時間に人だかりを見に行き、つまみ出される哀れな姿を目にして心を痛めた。
事態に変化が見られたのは、三日後のことだった。いつものように席を立った虎白さまは、ちらりと使者さんの方を見てこう言った。
「毎日毎日同じことをしてもつまらんぞ。少しは頭を使って、首を縦に振らせる頼み方を考えろ」
使者さんは驚いたように虎白さまを見つめたけど、彼はいつも通り退廷を命じて奥の通路に消える。
それから数日間、使者さんはハクテイに現れなかった。次に現れた三日後の夕方に、使者さんは膝を付き両手を組み合わせる独特な礼をしながら虎白さまに尋ねた。
「虎白様。教えてください。私はどうすれば良いのでしょう……」
「質問の意味が分からんな。お前は何が聞きたいんだ」
「兎緋様の要求が無茶苦茶なことは分かっています。ですが、このまま故郷に帰れば私は処刑されます。私が帰らなければ一族郎党全て燃やされます」
「それは痛ましい話だな。それで?」
「どうすれば私は虎白様に首を縦に振っていただけるのでしょう」
「…………」
「三晩考えてもわかりませんでした。どうかあなたの考えをお聞かせくださいませ」
虎白さまは長い溜め息をついた。ひじ掛けに肘を付き、退屈そうに視線を上に向け、吐息混じりに口を開く。
「お前が言いたいのは、お前と一族郎党が助かるために俺が死ねと、そういうことか」
「いえ、とんでもございません……そのようなことは」
「ではお前が望んでいることは何だ」
「私が望んでいるのは……望んでいるのは……」
使者さんは辛そうに言葉を繰り返したあと、絞り出すように呟いた。
「娘がいるのです。小さい娘で、まだ齢は三つです。娘だけは……いえ、妻と私も……」
「お前と家族の命を助けたいのだろう」
「はい。その通りです……」
虎白さまはその答えを聞くと、急に興味を取り戻したように使者さんを見る。
「その望みを叶えるために、俺の命ばかりを懸けさせるのは礼を失しているとは思わんか」
「え……」
「お前と家族の命も平等に懸ける気があるのなら、俺はお前の提案を無下にしたりはせん」
「…………!」
虎白さまはニヤリと笑った。悪い笑顔だ。何かイタズラを思い付いた子供のような顔で、彼は言葉を続ける。
「俺の首を縦に振らせたくば、こう言えば良い。『私が持っている全ての情報を捧げるので、全力を以て兎緋を攻め滅ぼしてください』」
「…………!!」
恐怖に歪んだ使者さんの顔が印象的だった。結局その日彼はとぼとぼとハクテイを後にした。
さらに三日経った日のこと。驚くべきことに、彼は虎白さまが言った通りの言葉を口にしたと、風の噂で聞いた。
「虎白さまはイグニアを攻めるつもりなんですか」
その晩から彩謌隊が再び編成され、実演訓練を始めるとの宣言を受ける。わたしは訓練場に向かう馬車の中でリンさんにそう尋ねた。
「そのようです。ハクテイの工事も大体終わりましたし、さっさとイグニアを潰しておくのは良い選択かもしれません」
「でも、関係ないって言っていたじゃないですか……」
わたしは身震いをする。半月ほど平和な時間を過ごして、すっかり日和ってしまったみたいだ。また実地演習をすることも怖かったし、戦争に従事することも怖かった。
リンさんはわたしの思いに全く気が付いていない様子で、あっけらかんとして言った。
「虎白さまが命じられるのであれば、私たちは従うのですよ。関係あるかないかは虎白さまが決めるのです」
そうでした。あなたはそういう人でしたね。わたしは何も言う気がなくなって、黙って馬車に揺られる。
だけど、今回の実地演習は雰囲気が違っていた。余裕ぶっていたリンさんの顔色がみるみる青ざめていく。怪我人が休むテントの下に、数人の獣人が控えていた。彼らは何やら奇妙な植物や鉱石を持ち込んでいて、乳鉢でゴリゴリとそれらを粉にしている。
「な、なんですかアレ?!」
「わかんないけど、虎白さまの指示みたい……」
ヒソヒソ小声でやり取りをするリンさんとニトさんに、獣人さんたちは冷ややかな目線を向けた。
どうにも雰囲気が良くない。虎白さまから説明があり、獣人さんたちはクラウディアの薬兵と呼ばれる人たちで、変わった技術を持っていると聞かされる。彩謌との相乗効果を見てみたいから、演習に参加させたのだと言われたのだけど、皆はどうにも受け入れがたい様子でピリピリしていた。
確かに薬兵さんの薬は効果が絶大で、倍音しか出せない人が四倍音を出せるようになったり、エネルギーの持ちが良くなったり、怪我が直ぐに治ったりと様々な恩恵をもたらしてくれたのだけど、薬を投与された人たちは一様に不安な顔をしていた。
「虎白さま。この薬って、神樹の実で浄化した体を蝕んだりはしないのですか」
「さあ。わからんな。白子に使った例はあまりないと聞く」
「私は虎白さまほどではありませんが、十年近く神樹の実しか口にしておりません。この努力が水泡に帰したりはしませんか」
「水泡に帰すとは、老化するということか?」
「はい。醜く老いさらばえるなんて、私には辛すぎて耐えられません」
「老いるのは悪ではない。お前はファイたちカミノタミ派の者をそういう色眼鏡で見ているのか?」
「いえ、そういうわけではありませんが……」
虎白さまは、心配な人は薬を使わなくてよいと言ったけど、誰も使用を拒否する人はいなかった。だけど誰も心から納得している人はいなかった。
あまり雰囲気が良くないなと思った。わたしはそれからしばらくの間、何度も何度も同じことを思った。ハクトは一体感を無くしている。虎白さまの力でなんとか繋がっているけど、風が吹いたら壊れてしまいそうだ。




