第十七章(1)
それからしばらく、わたしたちはゆったりとした時間を過ごした。
暦はいつの間にか八月になっていた。月の初めにリンさんから『お給料』と称したお金を貰い、好きに使ってもよいと言われたので、わたしたちは商店街に足を伸ばすようになった。
食料品は必要ないので、見るのは主に雑貨だ。習慣となっていたお掃除の道具を揃えたり、アイシャさんから勧められた裁縫の道具を買ってみたり。ルカさんは本や筆記用具が欲しいというので、書店にも立ち寄ってみた。
さすが紙が特産品というだけあって、書店の品揃えは図書館並みにすごく、価格も一桁くらい安かった。わたしたちの手持ちでも二、三冊買えてしまう驚きの価格設定に、ふたりで何を買おうか何日も悩んでしまう。
結局、ルカさんの勉強用の読み書きの本と、ハクトの歴史の本を買うことにした。
「お昼間にやることが増えて良かったですね」
「そうだな」
「さすがにお掃除ばかりじゃ飽きてきますもんね」
「使わねぇから、そんなに汚れないしな……」
帰り道に金物屋さんの前を通る。入り口付近に銀製の食器が並べられていて、日の光を受けてキラキラと輝いていた。食器には特段興味がなかったのだけど、その中のフォークに目が止まり、わたしはふとあることを思い出す。
「ルカさん。最近、発作みたいなものが出なくなりましたよね。以前はその……自分を傷付けてみたりとか、そういうことをしていたじゃないですか」
口にしながら、恐る恐る彼を見る。
こんな話題を出してよかったかしら。
また豹変したらどうしよう。
思わず身構えてしまう。
だけどルカさんは、のんびり空を見上げて言った。
「そういえば、そうだな。あの実を食べ初めてから、全然眠たくならないからかな」
「やっぱり悪夢が原因だったんですか?」
「そうだろうな。あれは……悪い夢だったから」
ルカさんがひどく顔をしかめたので、わたしは慌てて首を振って言った。
「いえ、思い出さなくていいんです。ルカさんが良くなったなら、わたしはとても嬉しいんです」
もうフォークを隠し持つ必要もない。
ルカさんが安心して勉強に集中できるようになった。
「あの実をくれた虎白さまに、感謝しないとですね!」
わざと明るく言って、この話題を無理やり終わらせた。
ルカさんは少し考えるようにしてから、息をつき首を撫でる。
「まあ、そうだな。どうでもいいか……」
その時、わたしの目に奇妙な影が写った。ルカさんは相変わらずフリンジ風のブカブカの服を着ていたのだけど、一瞬だけ鎖骨の辺りが見えた。
そこに、くっきりとアザのようなものがあった。
「……!」
わたしは声を上げそうになって、やめる。
なんだか強い胸騒ぎを覚えたのだ。
同時に、自分の背中にあったアザを思い出す。
もしかして、ルカさんが公衆浴場に行きたがらなかったのは、わたしと同じ理由なんじゃないかしら。
醜いアザを誰にも見られたくなかったから……?
「どうした? カノン」
「え? いや、なんでもありません!」
わたしたちには共通点が多い。
変な夢も、変な記憶も、変なアザも。ご飯を食べられなくなったのも、眠れなくなったのも、お風呂に入らなくて良くなったのも同じ。
同じなんだから、きっと大丈夫だ。
多分スイさんだって、虎白さまだって、リンさんだって同じだ。多少の差はあれど、白子は似たような事態に陥るのだ。
きっと大丈夫。ハクトにいれば、大丈夫。
わたしは何度も自分に言い聞かせ、次第に気持ちが落ち着いてきた。
道を大きく外れてしまったのか、見覚えのない通りが目の前に広がっている。
時間を持て余していたわたしたちは、普段からこうやって頭の中の地図を広げる作業をしていたわけだけど、今回の場所は一味違った。
それは内なる海に沿った、美しい通りだった。
白い煉瓦で舗装された道の脇に、並木が綺麗に植わっている。黄色と黄緑の混ざった葉を持つ珍しい広葉樹だ。
わたしとルカさんは、青と黄緑のコントラストに見とれながら、通りをゆっくり散策する。
突き当たりに白い箱形の建物があり、低い塀に囲まれていた。庭には並木と同じ木が植わっていて、他にも低木や花が丁寧に育てられている。
良く手入れされた庭に、見覚えのある人が立っていることに気が付いた。
「あれ……スイさんじゃないですか?」
「本当だ。何してんだろうな」
スイさんは車椅子の後ろに立ち、そこに座る人物に話しかけているようだった。
内容は聞こえないけど、和やかな雰囲気が伝わってくる。
相手は白髪の老人――おばあさんのようだった。
七十はとうに越えていそうな、かなり高齢の女性だ。
「病院か、養護施設か……そんな感じだな」
「あのおばあさん、スイさんの知り合いでしょうか」
「親類か? あんまり居そうなイメージないけどな」
「すごく仲が良さそうですね……。あんな表情のスイさん、初めて見ました……」
わたしたちは何故か小声になり、並木に身を隠してふたりを観察してしまう。
やがてスイさんが車椅子を押して歩き出したので、慌てて顔を背け帰路についた。
「ああ。それは、アスイさんですよ」
「アスイさん?」
後日、ソフィアを連れて遊びにきたウィスさんに尋ねると、そのような答えが返ってくる。
「ええ。アスイさん。スイさまの恋人ですよ」
「恋人?!」
わたしたちは揃って驚きの声を上げ、ウィスさんに笑われた。
「だって、ものすごいおばあさんでしたよ?」
「そりゃあそうです。アスイさんは白子ではありませんから」
「実年齢は同じくらいってことか」
「はい。おそらく、僕たちのように施設にいた頃からの仲でしょう」
「施設?」
「『翠の家』ですよ」
わたしはその単語を聞いて、ハッとする。
確かその話は以前、ウィスさんから聞いた。
フリンジヘイルにある、狐翠の器を育てる施設。
ウィスさんとアイシャさんはそこに収容されていて、当時は『スイ』、『アスイ』とかいう番号名で呼ばれていた。
「ウィスさんたちと同じような関係だったってことですか?」
「はい。スイさまから詳しい話を聞けたことはありませんが、恐らくそうです」
「スイさんも元々は翠の家にいた白子だったんですか?」
「ええ。そうですよ。スイさまは六十年ほど前に、狐翠に選ばれて器となった白子です」
「アスイさんは、アイシャさんと同じで白子じゃないのに施設に入れられていた……?」
「そうです。昔から翠の家は雑な管理だったみたいですね」
『スイ』という名前から、充分予想ができた話ではあったけど、わたしは頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。
今までの"ミステリアスな司彩のスイさん"が急に"一人のちっぽけな白子"になったような気がして、わたしは頭がくらくらとしてしまう。
「あの二人はウィスさんたちと同じように、施設にいた頃から仲が良かったんですかね」
「僕はそう思っています。だからスイさまは、僕たちを救ってくれたんでしょう。似ている僕たちに、特別に目をかけてくださったのかもしれません」
「同じスイとアスイだった二人に幸せになってほしくて、翠の家を解体したんですか?」
「それは言い過ぎです。ただ、スイさまにとって不要になった。そこにたまたま僕たちがいた、それだけでしょう」
わたしの中のスイさん像が、音を立てて崩れていく。
スイさんは孤高の存在で、誰かに寄り添うような人生を送る人だと思っていなかった。
けれど彼は、ハクトにいる間、ああしてアスイさんと穏やかな日々を過ごしていたのだ。
策略を巡らせているわけでもなく、恋人と海辺を散歩していた。
――意外だ。意外すぎる。
「なあ、ウィス……。あいつ、『間に合わない』ってよく言っているが、それはあの婆さんに関係があるのか」
「…………」
ルカさんが発した問いに、ウィスさんは口を真横に結ぶ。答えにくい質問だったのか、しばらく思考を巡らした後に口を開いた。
「アスイさんの主治医にお話を聞いたことがあります。近頃アスイさんは、記憶障害を患っているようです」
「記憶障害?」
「もうかなりお歳ですから。普通のことですが……物忘れが激しくなっているんですよ」
「ボケ始めたってことか」
頷くウィスさん。わたしは少し疑問に思う。
そのくらいなら特に心配することでもないんじゃないかしら。
不治の病とか言われたらどうしようかと怯えていたのに、ボケ始めたなんて言われて、拍子抜け感が否めない。
わたしの視線にウィスさんは、薄く笑みを浮かべて言った。
「僕にも良くわからないんです。スイさまが何故急いでいるのか……。でも、何となくはわかります。多分スイさまにとって、本当のスイさまのことを知っているのはアスイさんだけなんです」
「どういうことです?」
「スイさまは、スイさまであることをとても大切にしている。きっとそれがスイさまが、狐翠に侵食されなかった秘訣なんですよ。
そしてスイさまがそうしていられるのは、アスイさんがスイさまのことを覚えているから……」
ウィスさんはそこで話を止める。わたしはその先の内容を理解して、ゾッとしてしまった。
多分、ウィスさんの想像は当たっている。ウィスさんは白子だから、わたしたちが今苦しんでいるのと同じような体験があるのだろう。
だから、そんな推測ができた。
スイさんの焦りが理解できた。
わたしはルカさんを盗み見ると、彼も同じように鬼気迫る表情をしていた。
わたしたちが理解したことを察して、ウィスさんは言葉を続ける。
「僕たちは、一体どのくらい自分自身のことを知っているのでしょう。もし孤独になったとして、自分がどんな人間だったのか把握し続けることができるでしょうか」
「……」
「僕には司彩に憑かれた人の苦労はわかりません。だけど僕が記憶を混同せず、『ウィス』という人間でいられるのは、自分で付けたこの名前とアイシャのお陰です。スイさまを支えられるのは、スイさまの過去を知っているアスイさんしかいないんですよ」
「ウィスさんでは駄目なんですか」
「駄目ですよ。たかだか数年しか接していない僕では駄目です。僕にはスイさまがどんな人なのかわからない。僕が知っているスイさまは、本当のスイさまではないんです」
「本当のスイさんは、一体どんな人なんでしょう……」
「さあ……。どんな人なんでしょうね」
ウィスさんにわからないのなら、わたしに分かりようもない。
わたしはしばらく物思いに耽った。
もしわたしの記憶がおかしくなって、わたしが『カノン』という名前を忘れてしまったとき、誰がわたしを取り戻してくれるのかしら。
わたしには、わたしを知る人がほとんどいない。
母さまとは数年間離れていたし、父さまであるオズワルドさまはわたしを娘だと思ってくれてすらいない。友人と呼べる存在もいないし、一番の理解者であった姉さまとは仲直りできないまま離れ離れになってしまった。
わたしには誰もいない。本当のわたしを知る人は誰もいない。
『ルカがいるじゃない。あなたの一番の理解者はルカよ』
ルカさん……。
マグノリアに言われて初めて気が付いた。
確かにわたしを一番良く知っているのは、ルカさんかもしれない。
付き合いは短いけど、色んな苦難を一緒に乗り越えてきた。
ルカさんが名前を呼んでくれている限りは、わたしはカノンでいられるのかもしれない。
わたしと同じように、ルカさんも物思いに耽っているようだった。
多分、同じようなことを考えていると思った。
わたしたちは良く似ているから。
性格や考え方はまるで違うのに、わたしたちは良く似ていた。
お互いを理解し合える存在。
わたしたちはそう考えているから、一緒に居て心地よいのだろう。
一生この生活が続けば良いのに。ルカさんとふたりでこの小さな家に暮らしていられたら良いのに。
少しずつふたりの物が増えていき、部屋が賑やかになるにつれて、わたしの思いは強くなった。
このまま何もなく、穏やかに日々を過ごしていたい。
司彩のこともアピスヘイルのことも忘れて、ルカさんとのんびり暮らしていたい。
マグノリアはわたしの心境の変化にとても喜んでくれていた。
思えばずっとマグノリアはそう言っていた。
――ルカと幸せに暮らして欲しい。
そう言っていたのだった。




