第十六章(4)
金凰はひとしきり笑ったあと、わたしたちに外へ出るように言った。彼女は先頭に立ち樹のウロから出て、蓮の池を渡り、開けた場所へと誘導する。
そこは膝ほどの高さのススキが生え揃った金色の原っぱだった。金凰はその草原の中心に立って、虎白さまに向き直った。
「アンタの提案はとても面白いわ。受けてあげてもいいんだけど、タダじゃあ駄目ね」
「そうか。では、どうすればいい?」
「アンタが口だけじゃない男だと証明しなさい」
「もっと具体的に言ってくれ」
「アンタが本当に、このアタシの器よりも優れているのだと証明しなさい」
「戦えということか」
「そう。この器と、アンタ一人の一対一でやり合って、アタシの本体をこの体から引きずり出してみなさい」
その条件は驚くべきものだった。司彩と一対一で戦って勝てということなの? わたしはリンさんを見る。彼女はパニックを起こしそうな顔で虎白さまを見ていて、全く頼れそうにない。周囲はみんなそのような面持ちで、冷静なのはスイさんくらいだった。
彼は遠く離れたところでヤレヤレと肩を竦めると、樹の幹にもたれかかって他人事のようにこちらを眺めている。加勢する気はさらさらないらしい。
「引きずり出せば、俺に憑くことを確約するか」
「雑魚には憑きたくないもの。当然よ」
「戦闘に参加するのは頭だけか」
「人形は使わない。ハンデもつけてあげるわ。ただのテストだし」
「俺以外の者に手を出さないか」
「巻き添えを食らうかどうかは自己責任だけど、邪魔さえしなければ標的にはしない」
「そうか。ならば受けよう」
虎白さまはローブから黒い手袋を取り出して両手にはめる。あれは石を砕く専用のグローブだ。本気で戦う気なのかと不安に思っていると、彼はこちらを振り向いて言った。
「リン。下がって指揮を取れ。巻き添えを食らわぬよう皆を守れ」
「は、はい!」
リンさんはハッと幻覚から覚めたように瞬きをして、いつもの自信に満ちた表情を顔に貼り付ける。
「みなさん。下がって、隊列を組んでください。落ち着いて、彩謌の準備をしてください」
わたしたちはスイさんの近くまで下がって、いつもの隊列を組んだ。リンさんの背中に隠れて、対峙する二人に目を向ける。少し目を離した隙に、金凰の様子が豹変していて驚いた。
先ほどまでの堂々たる佇まいはすっかり消え失せ、憤怒をありったけに詰め込んだ表情で虎白さまを睨み付けている。高い位置で結ばれた髪の毛が逆立ち、全身から噴き出した怒りの空気で足元のススキが揺れていた。
「ちくしょう。ナメやがって……アンタのせいよ! 殺してやる……」
情動のまま放たれたその言葉に、わたしは理解する。彼女は、最初に会った金凰に戻ったのだ。先ほどまでの冷静な金凰と、感情的な金凰はおそらく別の人格なのだろう。司彩にはたくさんの魂が内包されているのだから、そんなことが起きていてもおかしくはない。わたしも一度、気付かない内に何かに体を支配されていたようだったのだからよくわかる。
微かに和音が聞こえる。ウロの中で聞いた音と同じだ。地響きとともに地面が割れ、尖った木の根が付き出してくる。
石が砕ける音がした。聞いたことのない和音だ。虎白さまの周りに砂煙が舞い、彼の姿を覆い隠す。
金凰の舌打ちが聞こえた。再び石の音と、ルオンの響きが耳に届く。何の彩謌かはわからない。すると突然、砂煙のない方向からギン、と金属がぶつかる音がした。
「なによ、用意万端なんて卑怯だわ! アンタ、話し合いに来たんじゃないの?」
「……さて、どうだったかな」
いつの間にそちらに飛んだんだろう。金凰の背後から現れた虎白さまの右手から一筋の赤が垂れている。そこには手のひらほどの刃渡りの短いナイフが握られていた。金凰は間一髪、両手に付けていた腕輪で攻撃を反らしたけど、剥き出しの腕に切傷を負ったようだ。
血を流すままにして、金凰は次の彩謌を唱える。ススキが一斉に身を起こし、棘を放出する。虎白さまが放った彩謌により棘は砂になって崩れ、再び視界が悪くなる。
「その手はもう食わないわ!」
金凰は自分を中心に八方向に蔓を伸ばし、迎撃体制に入った。虎白さまは蔓をしゃがんでかわし、砂煙に身を隠す。
「あいつ、戦い方も上手いな」
後ろでルカさんが呟いた。
「確かに、すごすぎて全然目で追えません……」
「多分あいつ、初めから一騎討ちを想定してたんだろうな。流石に用意周到すぎる」
「そうなんですか?」
「相手の攻撃パターンを読んでないとあの動きはできない。金凰の攻撃が大振りなのを知っていて、小回りが利く戦法なら勝ちやすいと踏んでいたんだろ」
攻撃が大振り……。言わんとすることはわかる。金凰の彩謌はほとんどが周りの植物を利用したものだった。植物によって色々形は変わるけど、基本的には"広範囲の物理攻撃"に他ならない。大多数を排除するには向いていそうだけど、素早い一人を仕留めるのは難しいと思われる。
それに対する虎白さまの戦法は、非常に単純だ。視界を悪くし、大振りの攻撃を避けて接近し、ナイフで突く。おそらく治癒能力が高いであろう司彩の倒し方はよくわからないけど、スイさんが橙戌を倒したときのように"心臓を突く"のが定石なのだろう。
虎白さまは繰り返し繰り返し金凰に接近して心臓を狙っていた。最初の一撃以外は一度も彼女の体に到達できた攻撃はないけど、ずっと虎白さまは攻める側に身を置き、金凰は防戦一方であった。
だけど金凰にとってはそれでも良かったのかもしれない。虎白さまの彩謌は大体三種類の単純なものだったけど、何度も使えば疲労が溜まる。
わたしたちが三回目の彩謌で身を守った後くらいだったか、虎白さまが息を切らしていることに気が付いた。
「リンさん、虎白さまは大丈夫でしょうか。神樹の実が切れたのかもしれません」
わたしは堪らずそう進言したけど、返ってきた言葉は意外なものだった。
「大丈夫……です。虎白さまが勝ちますよ」
また暢気にそんなことを言って、と思ったけど、リンさんの表情は真剣だ。冷静に状況を分析した上で言った言葉なのだろうと感じた。
「大丈夫だ。虎白が勝つ」
ルカさんまでそんなことを言うので、わたしは黙って戦況を見守ることにする。虎白さまが辛そうなのは変わりがないけれど、それよりも金凰の様子が気になった。
彼女はふと左腕に目を落とす。そこには初めに付けられた切り傷が未だに真っ赤な口を開けていた。
金凰は戸惑っているようだった。こんな小さな傷が治らないはずがない、どうしてまだ治っていないのか。治るどころか傷は広がり、おびただしい量の血液を流している。
狼狽する金凰には、明らかな隙ができた。その隙に虎白さまは彩謌を紡ぐ。この音は"発雷"。聞き慣れた和音だった。
一筋の雷光が金凰に突き刺さる。ススキが燃え、黒焦げた原っぱに細い体が投げ出される。直撃はしていないようだけど、肩が真っ黒になり全身が痙攣を起こしていた。
その体に駆け寄り、背中に足を乗せ押さえつける虎白さま。
「金凰、俺の勝ちだ。約束を果たしてもらおう」
彼はそう呟くと共に、右手に握ったナイフを心臓目掛けて振り下ろした。突き刺さるナイフと、噴き出す赤い飛沫。
なんとも呆気ない幕切れだった。金凰は何も言わないままに沈黙し、傷口から金色の光が溢れ出す。光は膨れ上がり、モクモクと雲のようになり、金色の何かを形作った。
金色の鳥だ。金凰の本体は、二本の尾を持つ大きな鳥だった。わたしの頭の中に、甲高い笑い声が響く。それは何重にも重なった不快な雑音で、わたしは思わず耳をふさいだ。
鳥はくるりと宙返りをしてから、虎白さまの胸に頭から突っ込む。金凰の本体は吸い込まれるように消えていき、後には虎白さまだけが残った。
「虎白さま!!」
リンさんが弾かれるように駆け出して、それを見た他の仲間たちも駆け出していく。
「虎白さま! 大丈夫ですか、虎白さま!」
わたしが遅蒔きに駆け寄ったときには、虎白さまはリンさんとニトさんに支えられながら原っぱに横たえられていた。
「どうしたんでしょう。虎白さま……」
「司彩が憑いたから。少し意識を失っているだけだ」
背後から落ち着いた声がする。振り返ると、スイさんが近くまでやってきていた。
「司彩が憑くと、意識を失うんですか?」
「君だってそうだったろう」
そう言われてみると、そうだ。わたし以外の人に司彩が憑くのを見たことがなかったから、今の状況に上手く結び付かなかったのだ。
皆が虎白さまを心配し声を掛けているなかで、スイさんは一人離れた場所にある金凰の遺体に寄り添っている。橙戌と同じく白髪に戻ったその獣人の器は、胸を真っ赤に染めて沈黙していた。
そんな彼女の姿をスイさんは憂鬱そうに眺め、ひとつ溜め息を吐いてから、気を取り直したようにこちらを向く。
「虎白はここからが大変だ。彼は大博打を打った」
「え……? そうなんですか?」
「君は特別なんだよ、カノン。普通は司彩に取り憑かれれば、取り込まれる危険の方が高い」
「ということは、虎白さまは金凰に支配されてしまう危険性があるんですか」
「あるね。大いにある」
わたしは絶句して、虎白さまを見た。彼の髪の毛は既に金色に染まっており、金凰の器になってしまった事実は明白だ。
「どうして虎白さまは、そんなことをしたんでしょう。船上で彼はわたしに、金凰を受け入れて欲しいと言っていたのに……」
そう口にしながら、わたしはハッと気が付く。もしかして、虎白さまはわたしに動いて欲しかったのかしら。間一髪のところで彼を押し退けて、わたしの体に金凰を入れて欲しかったのかしら。
わたしの頭は後悔で一杯になり、泣きそうな顔でスイさんを見た。彼は薄く微笑みながらこう言った。
「それはね、私が焚き付けたからさ」
「は?」
「私がそうしろと言ったんだよ」
「…………」
いつの間にか隣に来ていたルカさんも、ポカンと口を開けてスイさんを見ている。
ちょっと待って。わけがわからないわ。わたしはスイさんの近くに控えているウィスさんに目を向ける。彼は困ったように苦笑いをして、頭を掻いた。
「どうしてそんなことを……」
「メリットが大きいから。リスクは高いけど、リターンが大きい。というか、よく考えたら選択肢はもうこれしかない。他の選択肢では間に合わない」
「間に合わないというのは、千年問題の件ですか?」
「それもあるし、それ以外のことも」
「それ以外って何のことだよ」
スイさんはその問いには答えずに、金凰の遺体から離れて後ろを向いた。
「多分虎白は大丈夫だ。彼は神さまに愛されているからね。あり得ないほどの恩恵を受けて、彼はこの世界を牽引するだろう」
「…………」
「数時間もすれば目を覚ますよ。私たちは先に帰っているから、あとはよろしく」
「えっ……」
一体どうやって帰るつもりなのかわからないけど、スイさんはウィスさんを引き連れてスタスタと歩きだした。
わたしとルカさんは、スイさんと虎白さまを交互に見てから顔を見合わせる。
「相変わらず訳がわからんやつだな」
「とりあえず、虎白さまを信じて待ちましょうか……」




