第十六章(3)
船は島の入り江に吸い寄せられるように漂着する。人が歩けそうな自然岸壁に船を寄せ、錨を下ろしてから橋を渡す。木箱を船員さんたちがひとつだけ抱えて船を降り、わたしたちもそれに続く。
降り立った入り江は息を呑むくらいに美しかった。宝石のような植物が浅瀬を埋め付くし、砂浜は硝子粉のようにキラキラと煌めいている。
「金凰はどうしろと言っていた?」
「ここで待つようにと。使いの者が応対します。前回私が来たときは……」
虎白さまと使節団のひとりが話している。使節団の中でも年齢が上のように見える男の人だった。彼は二週間ほど前にここを訪れ、金凰に使節団を送る旨を記載した親書を渡したらしい。わたしたちは一応金凰の許可を得てここを訪れているわけだ。
そりゃあそうよね。無許可で司彩の都にズカズカと入り込むなんて、同じ司彩であるスイさんくらいしかできないわ。いや、スイさんですら橙の都では攻撃を受けていたわけだし、同じ司彩であろうと無許可ではまずいのかもしれない。
しばらく待っていると、茂みから一頭の獣が現れる。わたしの背丈くらいもある、大きな白い獣。猫に似ているけど、顔が厳つくて耳が小さい。多分この生き物は虎だ。初めて見るから自信はないけど……。
「白虎を寄越すとは、なかなか粋な計らいだな」
虎白さまはそう呟き、虎の動向を見守る。虎はゆったりとした動きでわたしたちを眺めてから背を向けた。
付いてこいと言いたげな仕草だったので、わたしたちは虎のあとを付いていくことにする。
彼は非常に歩きにくい道をのそのそと歩いた。それは片足くらいの幅しか踏みかためられていない細い獣道で、茂みがわたしの腰くらいまで伸びている。一列になるしかなく、わたしはニトさんの背中を追いながら、怖々と周りの風景を眺めた。
遠くから見ても彩り豊かだった森は、近くで見るとさらに細分化された色彩を纏っている。そこかしこから虫の羽音や獣の唸り声が聞こえて、わたしはすっかり縮こまってしまった。
すぐそばにあった木の枝から真っ白な蛇が垂れ下がっているのを見て、わたしは確信する。もし道を踏み間違えでもしたら、手痛い制裁を受けるんだろうな……。
しばらくして森を抜け、辺りに湿地が広がった。澄んだ水には蓮の葉が浮かび、白い魚が泳いでいる。その先には巨大な樹が聳え立っていて、金色の光の粒をキラキラと落としている。あまりの幻想的な光景に、つい足を止める仲間たちで列が渋滞を起こした。
虎は蓮の葉を足場にして、ピョンピョンと湿地を渡る。少し戸惑ったけどみんな同じようにして水場を乗り越え、楔樹の根本に至る。ぽっかりと開いた幹のウロに石造りの階段が見えた。その前で虎はお座りをして待っている。この先に金凰がいるということなのだろう。
「行くぞ」
虎白さまは躊躇いなく階段に足を踏み出した。この人には恐れというものがないんだろうかと思いながら、わたしたちも後に続く。
ウロの中はとても広く、虎白さまの謁見の間の二倍くらいの面積があった。見事な刺繍がされた絨毯が敷かれ、天井からは金色に光る実がぶら下がっている。
様々な動物が彫られた柱が奥までずらりと並んでいて、その側には一人ずつ金色の髪をした兵士さんが控えていた。彼らは人形のような無表情でわたしたちを見つめている。傍を通りすぎる度に、彼らが色々な形の耳や尻尾を持っていることに気が付いた。
金凰らしき人物は一番奥の壁際にいた。虎白さまと同じように、大きな椅子にふんぞりかえって座っている。その背後には大きな机と本棚があり、はるか上のほうまで続く本棚にわたしはあんぐりと口を開けてしまった。
「よくもノコノコとやってこれたわね、人間の白子」
金凰がわたしたちにぶつけた第一声はそれだった。低めの女性の声だ。金凰の頭は女性の獣人さんで、縞の入った金色の長耳と細長い尻尾がすぐに目に入る。尻尾の先には茶色のフサフサした毛が一房付いていて、ピョコピョコ動くのが可愛らしいと思ってしまった。
「金凰殿。急な謁見の申し込みで申し訳なかった。快諾いただき感謝する」
虎白さまが会釈と共にそう答え、場内が一瞬ピリッと凍りつく。丁寧に聞こえるけども、全然丁寧じゃない物言いだ。いつもの虎白さまと言えばそうなのだけど、相手がいつもの相手じゃない。
司彩に対しても、その尊大な態度のままで大丈夫なのかしら? 金凰は明らかに気分を害したような薄笑いを浮かべていた。
わたしはびくびくしながらスイさんの方を見たけど、彼はいつものように笑っているので何の参考にもならなかった。
「わかっているとは思うけど……」
沈黙を破り、金凰が口を開く。
「アンタたちは無法者の集団、アタシは正当なる国家元首。おわかり? 狐翠はともかく、アンタとアタシでは格が違うの。言動に気を付けなさい」
「ハクト国の元首、虎白として貴殿に会いに来た。立ち話では礼を失することになろう。俺と狐翠殿の席を用意していただけないか」
「…………」
金凰は絶句して、虎白さまを睨みつけた。肩を竦めつつ、スイさんが助け船を出す。
「まあ、そういうことらしいから……。ここは私に免じて、席を用意してあげてくれないか?」
「…………狐翠、後でちゃんと教育しておきなさいよ」
金凰は舌打ちをしつつも、立ち上がってウロの奥に向かう。本棚の下の壁がぽっかりと開いていて、その先には大きな円卓と椅子が置いてある部屋があった。
金凰は細長い尻尾を振りながらそちらの部屋にわたしたちを誘導する。たくさん席はあったけど、座ったのは元首の三人だけで、わたしたちは虎白さまの後ろにぞろぞろと立ち、ウィスさんだけはスイさんの後ろに立った。
ゆったりとした足取りで先ほどの白虎が金凰の足元に擦り寄ったのを皮切りに、金凰が口を開く。
「で? 何の話をしに来たの。くだらない話をしたら殺すわよ」
こ、怖い……。わたしは彼女の鋭い眼光に縮み上がってしまったのだけど、虎白さまは相変わらず落ち着いた様子で答えた。
「我が国とフリンジの隣国、アピスとハルムについて相談に参った。双方とも情勢が急速に悪化し、民が混乱している。国境を荒らす輩も増え、我々は困り果てている」
「そもそも国境を荒らしてんのはアンタたちでしょ。まあいいわ、それで?」
「アピスとハルムが何故そんなことになったのかはわからんが、我らとしてもこのまま傍観しているのは心苦しい。どうにかせねばならんと思っている」
「…………」
「そこで一案を提示しに来た。ハルムを貴殿が平定し、アピスを我らが平定する。それでとりあえず今の混乱を乗り切ろうと言う提案だ。いかがだろうか」
「却下」
金凰はドンと机を蹴り上げ、強い不快感を顕にした。
「馬鹿にするのもいい加減になさい。アンタたちが橙戌を隠したんでしょう? どうやって隠したんだか知らないけど、平定したいならさっさと橙戌を出せば良いじゃない! 藍猫だって同じよ。アンタたち、一体何をしたの? アタシらに喧嘩売ってんの?」
彼女はわたしたちを睨む。わたしに司彩が入っていることはわからないと言っていたけど、何度も目が合ってその度に背筋が凍った。
わたしは大量に冷や汗をかきながら、平静を保つ努力をする。幸運にもわたしが槍玉に上げられることはなく、話は続けられた。
「我々に司彩をどうこうできるはずがなかろう。できるとしたらそれは、神の采配に他ならん」
「神なんて、大きく出たわね。そんな古くさいもの、人間はまだ信じてるの?」
「聡明なる金凰殿は、神を信じていないのか。それは非常に驚きだ」
「何が驚きなのよ。神ってのが今の世界にいるとしたら、それはアタシよ。アタシが神。全知全能の金凰様よ」
「俺は冗談を言いに来たのではない。真面目な話をしている」
「……!」
金凰の顔色が変わる。怒っている……。めちゃくちゃ怒っているよ……? そんなに挑発して大丈夫なの? ごくりと生唾を飲む音がそこかしこから聞こえた。
わたしたちの不安をよそに、虎白さまはさらに挑発するような態度をとる。金凰と同じように椅子に深く背を預け、偉そうに足を組んで見せた。
「金凰殿。聡明な貴殿がお察しのように、俺は少し嘘を吐いた。今日この場に参じたのは、アピスとハルムを分け合おうと言う話をするためではない」
「ふん。じゃあ何を言いに来たのよ」
「俺はこの世は統一されるべきだと思っている。今回の出来事は、その算段をする最初で最後の機会だと思っている。だからこそ、司彩で一番力を持っている貴殿に話をしに来たのだ」
「クラウディアに世界を統一しろということかしら? ハクトはついに身売りする気になったの?」
「現在の金凰が覇者に足る存在ならば、それでもいいと思っていたが……」
虎白さまは小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。それは今までにも増して、あからさまな挑発だった。
「駄目だな。話にならん」
「!」
「先見性がまるでない。所詮クラウディアは資源があるから栄えただけの国だ」
その時、一瞬だけ和音が聞こえた。口の端から漏れ出たくらいの、ごく小さな空気の振動。続いてドンと地面が揺れる。思わず悲鳴を上げて頭を庇った。
すぐに静かになったので、わたしは怖々顔を上げる。目の前の円卓が斜めになっていて、足の部分であった木の根が異様な形に伸びていた。
わたしは再び小さな悲鳴を漏らしてしまい、慌てて口を覆う。木の根はその先端をトゲのように鋭くし、虎白さまの喉元に突き刺さらんばかりに伸びていたのだ。幸運にも刺さってはいないようで、虎白さまは冷静に口を開く。
「落ち着け。感情的になると余計に低能だと思われるぞ」
「…………」
まだそんなことを言うの? わたしは呆れてしまったのだけど、驚くことに金凰は表情を緩めていた。長い睫を揺らしながら目を細め、とても嬉しそうな顔をしてこう言った。
「胆が据わっているのね。気に入ったわ。話を聞いてあげましょう」
首もとまで伸びていた木の根は、茶色く変色しグニャリと曲がる。周囲からは安堵のため息の合唱が聞こえた。
そんな弛緩した空気の中、わたしは僅かに違和感を覚えていた。
金凰の雰囲気が変わった気がする。さっきまでの人とは別人になったかのようだ。落ち着いた笑みを湛えて、白虎を撫でながら虎白さまを観察している。
わたしはなんとなく察した。ここからが交渉の本番なのだろう。
「現在のクラフティで、最も大きな楔樹を持っているのは金凰殿、貴女だ。それは揺るぎ無い事実。クラフティを統一するならば金凰殿を中心にすべきというのは間違いがないだろう」
「うん。そうね、それで?」
「金凰殿は聡明で、民に慕われ、橙戌や兎緋も貴女であれば従っても良いと思っていると聞いた。そこに我々が加われば、ほとんど世界を統一できたと言っても良い」
「そうかもしれないわね。それで? 投降したいということなの?」
「違う。先ほども述べたが、そうするには貴殿は少々知恵に欠ける。世界を統一するには思慮が足りない」
「…………」
「貴殿が取り憑いているその器は、世界の覇者になれるほどの能力がない。決定的に足りないものがある」
「ほう」
金凰は顎に手をやり、非常に興味深そうな視線を向けた。やっぱり先ほどまでの彼女とは明らかに違う。彼女は笑みを湛えたまま、「続けろ」と虎白さまを促した。
「クラウディアにおいて最も問題なのが、人種の偏りだ。金凰殿の器は、この点においてかなり狭量であるようだ。貴殿も気付かれているかもしれんが、その器は人種について強い拘りがある。それは金凰殿の制御が立ち行かん程の愚かな拘りだ」
「……そうね。言わんとすることは解るわ。だけど、実際に獣人は人間よりも優れているの。勤勉で体力があり、主人に従順。人間よりも扱いやすい」
「それはその通りかもしれんが、人間のほうが獣人よりも数に勝る。才覚の発現は確率によるところが多い。獣人ばかりを登用する金凰殿のやり方では、致命的な取りこぼしをしてしまうだろう」
虎白さまは話を切り、こちらを振り返ってルカさんを呼んだ。突然名前を呼ばれたルカさんは戸惑った様子を見せたけど、黙って虎白さまの隣に立つ。
「例えばハクトにはこのような人材がいる。彼は人間であるが、優秀な白子だ」
金凰は訝しげな視線をルカさんにぶつけていた。金凰だけじゃなくて、味方の白子たちも少し戸惑った様子で彼を見ている。
スイさんだけが訳知り顔で、フッと笑みを溢して見せた。
「金凰殿の立派な蔵書を拝見したが、貴殿もこの奇書をお持ちであって驚いた。取り扱いに困られていることだろう」
虎白さまは手元に古ぼけた一冊の本を取り出す。金凰はその表紙を見て、ああ、と声を上げた。
「その怪文書か。何を書いてあるのかさっぱりわからん。別に大したことが書いてあるわけでもないだろう。アタシは興味がないわ」
「ルカ。それを金凰殿に読んで差し上げろ。小難しいところはできるだけ噛み砕いて朗読してやれ」
「…………」
ルカさんは本を受けとり、ゆっくりと表紙を開く。自然と静かになる室内。みんな固唾を飲んで、ルカさんの挙動を見守っている。
「ーーー、ーーーーーー……」
流暢に紡がれる神さまの言葉。わたしにも少しだけ聞き取れるようになっていたから、話の筋はなんとなく理解できた。
世界を構成するのは『ユビグラム』という元素であり、七種類の粒である。世界のあらゆるものはユビグラムから成り立ち、ユビグラムの配列で全てを表すことができる……。
あとは何を言っているのかよくわからない。ルカさんが数ページほど読んだところで、もういいと虎白さまが制止する。彼は本を虎白さまに返却し、わたしの隣に戻ってきた。
「この本は怪文書ではない。おそらく異世界の書物だ。神が恣意的に持ち込んだ時代倒錯遺物だ。ハクトはこの類いのものを複数所持している。神が何のためにこのようなものをクラフティに紛れ込ませたのか、予てより興味を持っていた」
「そいつはその本を最後まで読めるの?」
「読める。ハクトにはこの本を理解できる者が複数いる」
「その時代倒錯遺物? をどうしようっていうの。解読してどうするの」
「試してみようと思う。この世もその『ユビグラム』というもので構成されているのか」
「馬鹿げているわ」
「馬鹿げていない。これは千年問題の解明にも繋がる。神は我々にメッセージを送っているのだ。自分と同じ高みに上ってこいと」
金凰は千年問題という言葉にあからさまな反応を見せる。白虎から手を離し、身を乗り出すようにしてこう言った。
「話が見えてきた。貴方の真の提案を聞きましょう。長々と話す意味はもう無いわ。はっきり言って頂戴」
虎白さまは大きく頷く。深呼吸をひとつして、口を開いた。
「金凰。その頭を捨てて、俺を頭にしないか。俺は貴殿を退屈させたりはせん。全力を以て、金凰を天上に押し上げよう」
「…………?!」
その発言に驚いたのは、金凰ではなくわたしたちだった。今まで大人しく傍観していた使節団に、ざわめきが走る。その混乱を切り裂くように、金凰の高笑いが響き渡った。




