第十四章(2)
日が傾いた頃に、アイシャさんがソフィアを連れて家を訪ねてきた。彼女は炊事場をあれこれ見回して、明日には足りないものを用意しておきますねと笑顔を浮かべた。
「これから公衆浴場に行くんですが、お二人も行きませんか?」
「浴場……? お風呂ですか?」
頷くアイシャさん。どうやらハクトには個人宅に清浄室が付いていないようで、公共の場所に入りにいかないといけないらしい。
そういえば、最後に体を洗ったのはいつのことだろう。一週間以上前であることは間違いない。
リリムだったかな。大教会に来ている平民のひとりを指差して、あれは一週間お風呂に入っていないわねと言っていたことがある。その人は黒ずんだオーバーオールを着て、髪の毛をボサボサに伸ばした小作農のおじさんだった。
どうやらお風呂に一週間入らないと、あんな風になるらしい。わたしはその時嗅いだツンとした臭いを思い出して眉をひそめる。
「俺は行かない」
ルカさんはふいと顔を逸らして、勝手に行けと手で示した。ルカさんはお風呂が嫌いなんだろうか。少なくとも好きではなさそうだ。無理強いしても仕方ないし、わたしは行ってきますと言い残し、ソフィアと手を繋いで家を出た。
もしかしたらルカさんは、傷だけでなく"不潔"という状態異常すらも治してしまえるのかもしれない。もしかしたらわたしも、司彩さまに憑かれた時点で同じようになっているのかもしれない。一週間くらいは水浴びすらしていないにも関わらず、わたしの体は清浄の湯浴び後とほとんど変わらない状態だった。
不快な気持ちも臭いもなく、お風呂に入る必要性は特に感じなかったけど、早くハクトの生活に馴染みたいという気持ちもあって、わたしはワクワクしながら公衆浴場に向かった。
ハクトの建物はどれも装飾が少なく、こぢんまりとしている。公衆浴場もその例に漏れず、シンプルな白壁に囲まれたたいして大きくもない建物だった。
「私たちの地区の住人は、大体夕方の六時くらいに入りにくるんです」
「時間が決まっているんですか」
「たくさんの人が使うから、時間を決めないと不便なんですよ」
脱衣所には無数の人がいて、わたしは自分のスペースを探すのに苦労する。受付でもらった籠と乾いたタオルを人の隙間に差し込んで、服を脱いで浴室に向かった。
「カノンちゃん。ハクトの暮らしはどうですか? 馴染めそう?」
「はい、お陰さまで。楽しくやれそうです」
「良かった」
湯けむりが充満していて、浴室内は視界が良くない。人がたくさんいて、みんなが楽しそうにおしゃべりをしている。わたしたちははぐれないように三人で固まってお湯につかり、顔を近付けて語り合った。
「私はウィスと違って本当にハクトの一般人だから、白子のこともハクテイのこともよくわからないけれど……この都での生活のことはウィスよりも詳しいから、何かあったら相談してくださいね」
「ありがとうございます!」
アイシャさんはわたしたちの事情をほとんど把握していないらしい。わたしたちが普通にハクトに移住してきた白子だと思っているようだ。いえ、もしかしたら全てを把握した上で、あえて普通の女の子として接してくれているのかもしれない。
彼女はわたしの背景について特別な興味も示さず、ただ柔らかな笑顔を向けてくれる。それがわたしにはとても嬉しくて、感謝の気持ちで一杯だった。
「お姉ちゃん。ソフィアね、アイシャの家で暮らすことになったの」
「そうなの? わあ、良かったね! ありがとうございます、アイシャさん」
「ソフィアが来てくれて、すごく嬉しいんです。まるで娘ができたみたい」
ぎゅっとソフィアの肩を抱くアイシャさん。仲良さそうに微笑み合う二人は本当の母娘のようにも見えて、わたしは少し切ない気持ちになった。
「白子は子供が作れないから、私たちの子供は諦めていたんです。だから本当に嬉しい。ソフィア、いつまでもうちに居てくれていいからね」
「うん。ソフィア、ずっと居るよ」
「ありがとう」
わたしは少しだけ目を伏せて、母さまの姿を思い浮かべる。わたしの記憶の中で母さまは涙を流してばかりで、幸せそうな笑顔を思い出すことはできなかった。
きっとソフィアも本当のお母さまのことが心配のはず。今は楽しくやれていても、そのうちお母さまのことを思い出して涙に暮れることだろう。
どうして白子はこんな目に遭うんだろう。小さなこの子が本当の母親と暮らせないのはどうしてだろう。
司彩さまのせいだ、とわたしは思った。司彩さまの本能とやらが、白子を餌として求めるからだ。司彩が世界を支配する限り、白子の悲しみは尽きることはない。
司彩がいなくなれば、ソフィアもわたしも、本当の母さまのもとに帰ることができる? 司彩がいなくなれば……。
「カノンちゃん、どうしたの? のぼせちゃった?」
「え、あ、そうですね。少し……」
「そろそろ上がりましょうか」
わたしの中で、小さな決意が生まれたのはこの時だ。ソフィアが母国に帰れるような世界にしたい。そうすればきっと、わたしも母さまのもとに帰れるような世界になっているはずだ。ルカさんだって故郷に帰れるし、彼も心の底ではそれを望んでいるんじゃないかしら。
明日、虎白さまのところへ行こう。わたしの望みを伝えよう。そう心に決めていたとき、背後から可愛らしい声が上がった。
「お姉ちゃん。背中にお花を描いてるの? 可愛いね」
「……?」
それはソフィアの声だった。彼女はアイシャさんに体を拭いてもらいながら、わたしのほうを指差している。
「お花? なんのこと?」
「多分、背中のアザのことを言っているんです。お花が咲いているみたいな形ですから……」
アイシャさんは遠慮がちにそう言って、嗜めるようにソフィアに首を振ってみせた。
わたしは嫌な予感がした。背中のアザ? そんなものあっただろうか。全身鏡を見つけたわたしは、人の間を縫ってその前に滑り込む。背中を映してみると、確かに変な模様があるのが見えた。
そのアザは、火傷をしたときのように少し赤味がかかったもので、ひとつひとつは楕円の形をしている。その楕円は心臓の辺りを中心にして放射状に散らばっている。
この模様、どこかで見たことがあるわ。確か、幽霊男のベンチのそばの噴水の近く。あれは煤のような色だったけど、同じような花の模様だった。
「カノンちゃん、どうしたの? 大丈夫?」
「はい、大丈夫です。すみません……」
わたしはアザができている不安よりも、こんなアザを今まで人に見られていたことが恥ずかしくなって、急いでワンピースを頭から被った。すっかり暗くなった帰路を辿りながら、アザができた原因についてあれこれと考えたけど、何も思い付かないまま家に帰り着く。
家の周りは随分と明るかった。周囲の家々の玄関脇のランプ全てに火が灯されていたからだ。ここのランプは毎晩当番の人がつけにきてくれるんですよ、とアイシャさんは言い、その火を使って家の中のいくつかのランプに明かりを灯してくれた。
「夕飯はまだ食べられそうにないですか?」
「はい。すみません……」
「いいんですよ。ゆっくり慣れていってね」
お休みなさい、と言って二人は道を戻っていく。ウィスさんの家はすぐそばだから、何の心配もないだろう。わたしは明るくなった家に入り、ルカさんの姿を探した。彼は出かける前と同じく食卓テーブルについて、クラフティの創世記を読み耽っていた。
「どうだった?」
「気持ち良かったですよ。久しぶりにさっぱりできた気分です」
「そうか。あれは毎日入るのが普通なのか?」
「アピスヘイルの貴族層は、毎日入っていましたよ。平民の人たちはよく知りませんが……」
「それが普通なら、その習慣を続けたほうがいい。俺に構わず明日も行ってこいよ」
「そうですね……」
わたしはふと、背中のことを思い出す。少しだけ眉をひそめて、ゆるゆると首を振った。
「いえ、その……。わたしもしばらく入らなくていいかなと思います」
「どうしてだ?」
「別に、理由はありませんが……」
ルカさんは首を傾げる。わたしはなんとなく、アザのことは言いたくなかった。あんなものが体にあったら、気持ち悪いと思われるんじゃないかと不安になった。
そんなわたしにルカさんは、なんだか残念そうにこう言った。
「無理強いはしないが、なるべく普通の生活を続けたほうがいい。母ちゃんがそう言ってた」
「お母さまが?」
ルカさんは本を閉じて、神妙な顔で頷く。
「最近昔のことをよく思い出せるようになってきたんだが……俺が前世の夢を見た九つの誕生日のあと、段々とおかしくなる俺に向けて母ちゃんが言ってたんだ」
「普通の生活を続けるように?」
「そうだ。朝夕ちゃんと飯を食って、暗くなったら眠れと。食えなくても眠れなくても、食おうとしろ眠ろうとしろと」
「どうしてそんなことを言ったのでしょう」
「わからん。ただ不安だったからかもしれないが、少なくとも母ちゃんと暮らしていた時は悪夢を見ることはほとんどなかった。それなりに眠れていたし、食えてもいた。悪化したのは、実家から連れ出されてからだ」
「それはつまり、普通に暮らしていれば、普通のままいられるということなんでしょうか」
「わからんが、スイも言ってたよな。『元に戻せるかどうかはわからないが、元のように過ごすことは可能』だと」
「言っていましたね」
橙の都に向かう船上で、お腹がすかなくなって狼狽えていたわたしにスイさんは言った。普通の状態に戻るためには、″今まで通りに過ごそうと努力すればいい″のだと。
「母ちゃんがどういうつもりで言ったのかはわからんが、的を射たアドバイスだったのかもしれない。俺たちは、出来るだけ元の白子の時と同じ生活を送るべきなんだ」
「これ以上おかしくならないために?」
「そうだ」
とは言っても。わたしたちにそれは難しそうだと思った。窓の外は真っ暗で、今が何時なのかわからないけど、全く眠たくならない。相変わらずお腹もすかないし、朝まで何をしたらいいのかわからない。
わたしたちは食卓に乗せたランプの明かりを頼りに、何度も何度もクラフティの創世記のページをめくる。特に読みたい部分があるわけでもなく、ただ無心に文字を追っているようなルカさんを眺め、わたしは永遠に続いているような夜を過ごした。
いくつか雑談をしたように思う。
「章のタイトルのところにあるこの記号は何でしょう? 隣に『ダェグ』とか書いていますが、これの読み方でしょうか?」
「そうだろうな。俺も初めて見る……」
「ダェグ、フェオ、オス、ケン……十二個あるんですね。なんだか音階に似ています」
「音階?」
「ピアノという楽器を見たことはありますか? 白鍵と黒鍵合わせて十二の音を並べた楽器です」
「知ってるが……音階は、ドレミファソラシ、じゃないのか?」
「違いますよ。『ダー、フェー、オー、ケー……』ですよ」
…………。
「ルカさんのお母さまも、光る実を食べたんでしょうか」
「食べたんだろうな。この本の話が本当なら」
「どうして食べたんでしょう」
「さあ……偶然拾ったのか?」
「ソフィアのお母さまも食べたんですよね。というか、アピスヘイルの白子以外の白子はみんな偶発的に生まれた白子なんでしょうか」
「そうかもな。もしかしたら、特定の人間には美味しそうに見える実なのかもしれない」
「妊婦さんだけに美味しそうに見える実……?」
………………。
「そうだ。ルカさん、朝になったら虎白さまのところに行きましょう」
「明日の朝? なんでだよ。ゆっくり考えろって言われたじゃねぇか」
「結論は早いほうがいいんです。こうしているうちにも、アピスヘイルやハルムヘイルに被害が広がっているかもしれないし」
「別に良いじゃねぇか。俺たちには関係ねぇだろ」
「わたしはルカさんのように割りきることはできません。ルカさんだって、お母さまの住む村が被害に遭っていたら救おうとするでしょう?」
「…………」
「わたしはアピスヘイルを救いたい。明日、虎白さまにそう言います」
「…………わかったよ」
……………………。




