第十二章(4)
「ハクトはどこにあるんだ?」
「この大河の上流、内なる海の傍です。建前上はフリンジ国の領土内ですが、独立した国なんですよ」
段々と暗くなる空を見ながら、わたしたちはウィスさんから話を聞く。相変わらず眠気はやってこないので、わたしもルカさんもいつまでも話を聞いていられた。
「それって大丈夫なのか? フリンジ国は狐翠ってやつのものなんじゃないのか」
「大丈夫ですよ。フリンジ国は狐翠のものですが、現在の狐翠はスイさまですから」
「どういうことだ? あいつ、狐翠の使いだと言ってたが……」
「スイさま自身が、狐翠を宿しています。使いだと名乗るのはスイさまのお遊びですよ」
「お遊び? ややこしいことをするな……」
「いえ、もしかしたらスイさまには大事なことなのかもしれません。スイさまは狐翠でありながら狐翠ではない、狐翠とは違う人格であると区別するのに必要なことなのかもしれません」
「???」
ルカさんはわけがわからないという風に眉をひそめる。わたしもしばらく首を捻っていたけど、徐に口を開いた。
「スイさんは狐翠さまを宿しているけど、狐翠さまに操作されていないということですか?」
「はい。その通りです。スイさまは明らかに司彩とは違う、僕たち白子に近い価値観を持っています。狐翠の力を自由に使いながらも、僕たち白子に益する行動を取ってくださいます」
「どうしてそんなことが……」
「わかりません。不思議なことですが、彼はそんな状況下で数十年の時を過ごしています。白子を害そうとする他の司彩とは全く違います」
「…………」
スイさんは言っていた。『私たちは良く似ている』と。
もしかして、そのことを言っていたんだろうか。司彩さまを体に宿しながらも、元の白子の意識を保っているから。そういう意味で、似ているといったんだろうか。
「スイさんってどういう方なんですか? わたし、良くわからなくて……」
「とても優しい方ですよ。だけど、かなり厳しいところもある。僕がスイさまに従って十年ほど経ちますが、その行動には信念と一貫性があります。今回の件は僕も驚きましたが、何かスイさまのちゃんとしたお考えがあるのでしょう」
何の考えがあって、あんなことに及んだのか……。わたしはあの時のことを思い出して気分が悪くなった。スイさんを慕う彼には申し訳ないけど、スイさんのことを手放しで信頼することはもうできないだろうなと思った。
「スイとお前はどういう関係なんだ? 上司とか言ってたが」
「スイさまは、僕の命の恩人なんです」
「命の恩人?」
「はい。僕はフリンジ国のとある施設で育てられたのですが、その施設はひどい場所で……。スイさまが救いだしてくださらなかったら、今ごろはどうなっていたやら」
「……どんな施設だったんですか?」
わたしが恐々尋ねると、ウィスさんは声のトーンを少し落としてこう答える。
「あなた方も似たような場所で育ったんじゃないですか? 聞いていますよ、アピスヘイルには白子を閉じ込めて育て、定期的に藍猫に捧げる仕組みがあると」
わたしは閉口した。ひどい言われ方だと思ったけど、否定できない。確かにその通りだからだ。
「フリンジも似たようなものでした。ただ違うのは、狐翠がそれほど白子を必要としなかったというところです」
「白子を必要としていないのに、閉じ込めていたのか?」
「全く必要としていないわけではなかったようです。狐翠にとってあの施設は、いざというときの保険みたいなものだったのです」
ウィスさんはフリンジの施設について話してくれた。その施設の名前は″翠の家″と言った。フリンジ国の各地で発見された白子を集めて収容し、勉学などをさせていた。
「翠の家の子供はみんな小さい頃に連れてこられて、番号のように名前をつけられます。優秀な順番から、スイ、アスイ、ヒスイ、リスイ……といった風に。僕がいた頃の翠の家には、五人の子供が収容されていました」
「五人も白子がいたんですか?」
わたしはずっと″この世に白子は二人しかいない″と教えられてきたわけだけど、案外白子というのはたくさん存在するらしい。だけどウィスさんは笑いながら首を横に振る。
「いえいえ、白子は僕ひとりでした。あとの四人は髪の色素が薄いだけの普通の子供でした」
「え? どういうことですか?」
「翠の家に白子を渡すと、かなりのお金がもらえるらしいのです。だから白子と偽って、白子でない子供を持ち込んでくる輩が後を絶たなかったのですよ」
そんなことをして、狐翠さまが怖くなかったんだろうか。一応狐翠さまのために白子を集めていたのよね? わたしの疑問にウィスさんはアハハと笑ってからこう答えた。
「狐翠はフリンジ国にほとんど恩恵も罰も与えませんから、フリンジ国民は狐翠など恐れていないのです。惰性で施設を運営していただけなんですよ。なんだかんだで子供を育てれば役に立ちますし」
「役に立つ?」
そう問うと、ウィスさんは再び暗い調子に落とした声で言った。
「翠の家にいられるのは二十歳の誕生日までで、それから先はどこかに売られてしまうんです。白子じゃなくても、学識のある健康な若者は、労働力としてそれなりに価値がありますから」
「…………」
「白子だったらさらに高値で売れるそうですよ。多分、ハルム国辺りが買い上げて、橙戌に献上するんでしょうね」
酷い話だ。アピス国じゃなくても、白子というのは平凡には生きていけないらしい。
「スイさまが翠の家に来られたのは、僕が十八になる年のことでした。彼は自らを狐翠の使者だと名乗り、翠の家を解体するように命じました」
「解体? なんでまた……」
「わかりません。狐翠にとって僕らは、万が一の時のための器の予備です。スイさまには必要ないものかもしれませんが、わざわざ解体する必要もなかったでしょうに」
理由はわからないけど、長年放置されていた翠の家は、十年ほど前に急に解体された。それによってウィスさんは命拾いをし、スイさんに感謝しているということだった。
「スイさまは僕たち五人をハクトに連れていって下さいました。ハクトは素晴らしい国で、白子もそれ以外も、平等に住むところを用意してくれました。僕たちは今、それぞれに仕事を与えられ、翠の家の番号名とは違う名前で暮らしています。幸せですよ」
ウィスさんは晴れやかな声でそう言った。わたしは羨ましさで溺れそうだった。住居と仕事。ハクトという国にはわたしが欲しかったものがある。
「わたしたちも仕事をもらえるでしょうか」
「ええ。きっともらえますよ。ハクトにはたくさんの白子がいて、あなた方のように外国から逃げてきた人も多いんです」
「白子ってそんなにたくさんいるんですか? アピスヘイルでは、二人しかいないとずっと教えられてきたんですが」
「白子というのは、そこまで珍しい存在ではありません。特にハクトでは、白子を産み分ける方法も研究されていると聞いています」
「そうなんですか……」
わたしはほっとする反面、なんだか拍子抜けした気分だった。自分は零の門を潜った特別な魂だと信じて頑張ってきたのに、おだてられていただけなのね。少しショックだけど、納得している自分もいた。
「ですが、司彩にとっては貴重な存在ですから、注意しないといけません」
大して珍しくもないのはハクトにいるときだけです、とウィスさんは強い口調で断言した。
船上でスイさんが色々と教えてくれたように、ウィスさんの話はわたしの今までの狭い世界を溶かしてくれるようだった。わたしとルカさんは、夢中になって彼に様々な質問をぶつけた。
「どうして司彩さまは白子を欲しがるのでしょう」
「白子を食べていると聞きます。正確には、白子の血液を取り込み魂と同化する。司彩はたくさんの白子の魂が同化した集合体であると言われています」
「集合体? 煙のような獣の姿を見ましたが、あれが本体ではないんですか?」
「多分それが本体で間違いじゃないです。しかしその煙を作り上げているのは、司彩が今まで食らった白子の魂なんですよ」
なんだか途方もない話だ。今わたしの体には、ふたつの司彩さまが入っている。藍猫さまと橙戌さまはたくさんの白子を食べているようだったけど、わたしの体にはいったいいくつの魂が入り込んでしまったのだろう?
今のところ何ともないけど、本当に大丈夫なんだろうか……。
「どうして司彩は白子を食うんだ。食わなきゃ餓死するって訳でもないんだろ?」
「司彩が憑いた白子は、特殊な体になります。寝なくとも食べなくとも死なない、病や老いのない素晴らしい体を手に入れます。しかし、決して完璧な存在にはなれません。司彩は神ではなく、一個の生き物だからです」
「どういう意味だ?」
「精神は老い続けてしまうのです。元より永遠を生きる神とは違う。生物は永遠を生きるようにはできていません。生き物は元々与えられていた寿命よりも長く生きると、やがて生きるのに飽きてしまうのです」
「生きるのに、飽きる?」
「生きるのに飽きた司彩は、段々と力を失っていきます。力を失えば、今まで仕都に与えていた恩恵や、長年掛けて作り上げたシステムが壊れてしまいます。だから司彩は弱るまえに若く新鮮な精神と融合し、また何十年と生きていく気力を手に入れようとするのです」
「では、藍猫さまが十八年に一度白子を欲していたのは……」
「藍猫を宿したあの女性は、精神的に弱い方のようです。定期的に白子を摂取しないと生気が保てないことを自分で理解していたのでしょう。……スイさまはそう分析していました」
司彩は白子の魂の集合体だといっても、現在取り憑いている白子の意識をベースにするのだという。だからいくら白子を食べても弱い精神力であることは変わらず、寿命をわずかに延ばすだけ。
エリファレットさまは十八年に一度、二人の白子の生きようとする意思を吸い上げることで、かろうじて生きる力を繋いでいた。それがアピスという国の、真の姿だったのだ。
「そう言えばウィスさん。わたしたちを助けてくれたとき、目の色が違っていたじゃないですか。あれって何なんですか?」
「ああ。あれはスイさまが僕を操作していたんですよ。白子はそういう性質があるんです」
「そういう性質?」
「司彩の魂と同調できるのです。司彩は白子の体を人形のように操ることができます。藍猫や橙戌も操っていたのを見ませんでしたか?」
「見ましたが……死体ばかりだったので……」
生きている白子も操れるの? わたしはふと、船の上での出来事を思い出した。
スイさんは渡り鳥を呼び寄せて、白い個体は私に懐くと言っていたけど、もしかしてそういう意味だったのかしら。
わたしがその話をウィスさんにすると、彼は笑い声を上げて言った。
「その鳥ですよ! いや、驚きました。アピスの白子を連れて橙戌のところに行くから迎えに来いって手紙をくくりつけて一週間前に僕のところに飛んできたんです。人使いが荒すぎますよね。本当に慌てましたよ」
「じゃあ、スイさんは渡り鳥の白子まで操れるんですか。動物にも白子がいるんですか?」
「僕もよく知りませんが、そうみたいですね」
「藍猫さまの人形たちは、髪の毛の色も変わっていましたが……」
「それは意識まで乗っ取られているからですね。スイさまは僕の意識までは奪いません。僕が操作を拒否すれば簡単に呪縛から逃れられます」
意識まで乗っ取られる……。わたしは自分の髪の毛を見た。暗くてよく見えないけど、いまだに白銀であることは何となくわかる。同時にスイさんの髪の色を思い浮かべた。確か、金緑色をしていたように思う。
スイさんは本当に狐翠に意識を操作されていないのだろうか。少なくとも白子ではなくなっている彼が、どうして白子の意識を保ち続けていられるのだろう。
そしてわたしはこれからもずっと銀髪のままでいられるのだろうか。いつかは髪の色が変わってしまうんじゃないかしら。
「白子や司彩のことはよくわかっていないことが多いんです。僕に聞くよりは虎白さまにお訊ねになったほうが良いと思います。この世の人間で誰よりも白子と司彩について研究しているのが彼です」
「でも王さま……なんですよね? 忙しくて会っていただけないのでは……」
「お忙しいのはもちろんですが、気さくな方ですよ。近臣の方々も有能揃いですから、自分でやらなくてはならない仕事はそんなには多くないと仰っています」
「そうなんですか……」
ウィスさんはしばらく、上機嫌でハクトのことを語った。虎白さまのお人柄や安定した国政、美しい街並みや気候、活気のある国民の様子。
ウィスさんは有事のときには徴兵されるけど、普段は船乗りとして働いているそうだ。ハクトが面している″内なる海″は、″外なる海″と違い、生物に満ち溢れていて、獲り尽くせないほどの海の幸を孕んでいるという。
聞けば聞くほど素敵な国だった。わたしが夢にまで見ていた楽園は、ここのことなのかもしれない。
ルカさんもすっかりウィスさんの話に聞き惚れていた。




