第十一章(2)
その後わたしたちは一刻を経て、現在船上にいた。目の前には、薄く色付き始めた空がある。時間の感覚がもはやなくなっていたのだけど、どうやら今は日の出の時間帯のようだ。
船が舳先を向けているのは、薄く色づく空に縁取られた黒い雲が見える方角。スイさんはあの雲の下にアピスヘイルがあると言っていた。黒い雲は未だに都を抱え込んだままで、全く手放す気配もない。嵐に怯えているだろうみんなのことを思うと、わたしの胸はズキリと痛んだ。
「こんな状態で船を出すのか?」
船縁に掴まりながら声を上げるルカさん。相変わらず荒れている海。高波に揺られ、船が岩壁にぶつかる。わたしは何度口にしたか忘れてしまった悲鳴を上げた。
どうしてわたしたちがこの船に乗る経緯となったのかというと、スイさんの"ご満足頂けそうなプラン"に同意したためだ。彼は先刻、こんなことを提案してきた。
「私と一緒に来てほしい。船に乗ってここを離れるんだ。今すぐにだよ」
とても単純な提案だったから、わたしは迷わず承諾したのだけど……まさか、こんなに大変なことになるんて。
この船はスイさんが乗ってきたという船で、島の側に平然と停められていた。わたしたちがこの船に気が付かなかったのは、とても近寄る気にもならないヒビだらけの崖の側だったからで、よくもまあこんな場所から乗り込もうと思ったものだ、と呆れてしまったのは秘密だ。
そんな場所だったから、船に乗り込むだけでも大変だった。岩場に刻まれたヒビを怖々跨ぎ、岸壁から勇気を振り絞って甲板へ飛び込んだわたしだけど、その苦労はこの船旅のほんの序章に過ぎないということは想像に難くない。
わたしたちはこの先もしばらく恐怖に振り回されるだろう。嵐で荒れ狂った海によって。
こんなに揺れているというのに、スイさんは船首に平然と直立している。やっぱり神さまというのはすごい。どんな不思議な力を使えばあんなことができるのだろう。わたしたちにもちょっとくらいわけてもらえないものかしら。
少しだけ恨みの入ったわたしの視線に気が付かず(もしかしたら気付いているかもしれないけど)、スイさんはまっすぐ前方を眺めながら、右手をゆっくりと正面にかざした。
波の音に混じり、何か不思議な音が聞こえてくる。スイさんが発しているのだろうか。それは何故だか復数人が同時に発声したかような奇妙な音で、藍の都で聞いた″サイカ″というものに似ていた。
黒い雲を越えて差し込んでくる朝日。その眩しい光に目を細めたわたしのうなじを一陣の風が撫でた。次の瞬間、バサリと小気味良い音を立て帆が膨らむ。
「なんだ、この風……?」
ルカさんが怪訝な声をあげた。岩場があるはずの後方から、不自然なまでの強風が吹き始めたのだ。その風はわたしたちの服を激しくはためかせ、帆船の帆を最大まで広げる。
そしてギギギと音を立てながら、船はゆっくりと動き出した。
「すごいです。船が動きましたよ!」
「危ない、カノン。ちゃんと捕まってろ!」
ルカさんに注意され、わたしは梁に捕まり直した。
一方向への意思のある動きにより、横揺れは徐々に収まっていたけれど、次なる恐怖がわたしたちを襲う。強風は止むこと無く船の背中を押し続け、その結果船はあり得ないほど加速を始めたのだった。
「きゃあああああああ」
わたしはビシャビシャと顔に海水を受けながら、必死で船にしがみつく。海の水は毒なんじゃなかったっけ? かなりの量を口に入れてしまった。わたし、溶けたりしないかしら? そんな不安な気持ちが湧く以前に、わたしの頭の中は振り落とされてしまう恐怖の方でいっぱいになっていた。
「おい、スピードを落とせ!」
「何か言ったかい?」
「スピードを……」
ザブンと海水が船に被さり、ルカさんは強制的に沈黙させられる。わたしも再び死水を飲んでしまい、口の中に広がる塩辛さにアタフタとした。
体が溶け出す気配は今のところないようだから、とにかく振り落とされない努力を続けるしかない。
船はしばらく爆走を続け、何度も何度も波を被りつつ懇願したわたしたちの望みがスイさんに届いたのは、お日さまがすっかり真上に上ったくらいの時間帯になってからだった。
スイさんが手を下ろすと、風は緩やかに収まっていく。帆が萎み、推進力を失った船はゆっくりと停止した。
「止まった……」
安堵の溜め息を漏らすわたしたち。全身海水まみれで、なにやら生臭い臭いまでする。
ケープを脱ぎ手で絞ってみたけど、まだまだびしょびしょだ。しばらく干していないと乾きそうもない。わたしはニットのチュニックも脱ごうかどうか悩みつつ、ルカさんの方を見た。
ルカさんは濡れていることはあまり気にしていないようで、穏やかになった海面をじっと眺めている。
「やっぱり嵐のせいで荒れていたのか?」
「そうだよ。アピスヘイルから遠ざかったから、もう波の心配はしなくていい」
スイさんがこちらにトコトコとやってくる。ズルい。全然濡れていない。彼はわたしたちより波を被る位置にいたにも関わらず、陸にいたときと全く変わらない様子で微笑んでいた。
彼は足元に水溜まりを作るわたしたちを見て、ニヤリと性格が悪そうな笑みを浮かべる。
「おや。ずいぶん濡れたね」
「お前のせいだろうが! どうしてくれるんだ!」
ルカさんの怒号にもどこ吹く風で、スイさんはニヤニヤと笑っている。
仕方がないか。失礼を承知で、服を脱いで干させてもらうしかないわ。そう思っていた矢先、わたしの耳にスイさんの吐息が届く。
その吐息は普通の吐息ではなかった。一度に三人が同時に息を吐いたような奇妙なもの。そのひとつひとつが違う音階であることもわたしにはわかった。ピアノの音階で言うなれば、『ティー』『エー』『ケー』。調律をした直後のように、わずかにも狂いがない。
その和音を意識した次の瞬間には、驚くべきことが起こる。わたしの服の内側がじんわりと温かくなったかと思うと、破裂するように温風が沸き立ち、水蒸気がわたしの体から放出された。
ビックリとして服に触れるわたし。乾いている。生臭い臭いまでどこかに行ってしまった。
「服は乾いただろう? これで許してくれるかい?」
「あ、ああ、まあ……」
ルカさんかたじろいでいる。無理もない。こんな奇跡を見せつけられては何も文句が言えない。
さすが神さまの使いの人だわ。わたしはすっかり乾いたケープを羽織る。そして穏やかになった海を見た。
日の光を反射して、キラキラと瞬く水面。相変わらず生物がいそうな気配はないけど、藍の都の周辺のような寒々しい雰囲気はなくなっていた。
空は雲ひとつない透き通った青空。黒い雲は地平線の彼方に消え去ってしまい、あまりの何も無さにあたかも天国に行き着いてしまったかのように思える。
わたしはつい、全てを忘れてしまいたい気分になって船縁に寄りかかる。そして遠くを眺めながら海風に髪を靡かせた。
「そんなことより、聞かせろよ。今からどこへ向かうんだ?」
わたしの気持ちなんてお構いなしに、ルカさんは現実的な質問を投げ掛ける。ゆっくり感傷に浸れもしない。わたしは溜め息を付きながらふたりに視線を戻す。
「ここから北にある、橙の都アンバスに向かうつもりだ」
「アンバス……」
「そこには橙戌がいる。橙色をした犬の神様だ。尻尾が二本あるお犬様だよ。君たちには既視感があるだろう」
スイさんは頭に両手を付けて、ピコピコと動かして見せた。藍猫さまをお猫さまと言って崇めていたアピスの人たちを揶揄したつもりなのだろう。
わたしはちょっぴり気分を害して言った。
「狐翠さまは尻尾が二本あるお狐さまではないんですか?」
「狐翠様の尻尾は一本だよ。その代わり額に二本の角がある」
「そ、そうなんですか……」
すごくどうでもいいと思ってしまった。思わず閉口したわたしの代わりにルカさんがスイさんに噛みつく。
「どうして橙戌ってやつに会わなきゃならないんだ? そいつはまた別の神様なんだろ? お前の主人の狐翠は何もしてくれないのか?」
「狐翠様がそうしろと言うんだ。彼は私の目を通して全てを見ておられるから、すぐに指示を飛ばしてくるんだよ」
「そうなんですか……」
わたしはギクリと身をこわばらせた。いけない、不敬なことを考えては狐翠さままで怒らせてしまうかもしれない。
わたしは違うことを考えるためにスイさんにこんな質問をした。
「すみません。橙の都という場所はどこにあるのでしょう。翠の都よりも北なんですか? わたしはアピスヘイルの外側を何も知らなくて、全然イメージができないんです」
今までわたしの頭の中には、アピスヘイルと藍の都しかなかった。世界の中心はアピスヘイルであり、青の道の上流に他のアピス国の町や村、下流に藍の都があるだけの線状世界だった。
北という方角を言われても、それはお日さまが昇る方角と沈む方角の間にあるだけのものとして知識があるだけで、そちらに世界が広がっているなんて考えたこともない。
「そうだね。地図を見せてあげよう」
スイさんは腰の鞄から黄ばんだ羊皮紙を取り出し、甲板に広げた。そこには見たこともない形の"世界"が描かれていてわたしは息を飲んだ。
六枚の花を彷彿とさせる、ぐにゃぐにゃした奇妙な形の大陸。その花びらすべての先端に、丸い形の島が付随している。花型の大陸の真ん中には空洞があり、そのど真ん中にも島のようなものが描かれている。その真ん中の空洞から、花びらの先端に向けて一本ずつ筋が描き込まれている。
「ここが藍の都。そして、ここがアピスヘイルだ」
スイさんはひとつの島と、その近くにある花びらの先端を指差した。おそらく地図の右上に描かれている矢印の先端が北なのだろうから、そこは南東と呼べそうな場所だった。
「この筋は川か? アピスには青の道とかいう大河があったが」
「そうだよ。大陸の中心にある『内なる海』から、『外なる海』にかけて大河が流れている。どこの国にとってもこの川は重要な動線だね」
「翠の都はどこですか?」
「翠の都はここ。最東にある極だ。そして橙の都がその北、北東の極だよ」
なるほど。そう説明してもらえるとわかりやすいわ。そしてわたしは実感する。わたしは本当に、アピスヘイルで何も教えてもらえていなかったのね。
わたしは藍猫さまを唯一神と信じさせられるために、あえて世界地図を見せてもらえなかった。六個ある神さまの島のうち、五つのことを秘匿されていたのだ。
スイさんはわたしに全てを教えてくれる。スイさんは信頼できる人なのかもしれない。わたしは少しだけ嬉しくなってさらに尋ねた。
「もしかして、他の三つの島はオブシディア、ガルド、カーネリアというのではないですか?」
「どうしてそう思うんだい?」
「アピスヘイルでは、彩日というものがありました。一週間の六日を順番にこう呼んでいました」
わたしは藍の都と言われた場所から時計回りに指を差し、ラピス・ユニアン、オブシディア・ユニム、ガルド・ユニム、カーネリア・ユニム、アンバス・ユニム、フロイト・ユニムと口にする。
「彩日というのは六つの神さまの島から付けられたものだったんですね」
「その通りだよ。国によって微妙に違うがね、どの国にも彩日というものはある。その由来を教えていないのはアピスぐらいのものだろう」
わたしは世界の謎をひとつ解いたような気分になり、ついつい鼻を高くした。
「では、アピスの民は知らないと思うから、もうひとつお耳に入れておこうか」
スイさんは藍の都を指差してから、その島の近くにある花びらの部分をぐるりと指で丸くなぞる。
「世界は司彩の取り決めで六つにわけられているんだよ。この部分は藍猫が所有する領土で、君たちの住んでいたアピスという国だ」
次にスイさんは花びらの先端を指差してこう言った。
「そしてここがアピスヘイル。国名に"ヘイル"と付く土地は、『仕都』と呼ばれる国の首都だ。仕都は最も色濃く司彩の影響を受ける。アピスヘイルがガチガチに藍猫に縛られていたのはそのためだ。藍猫がどんな国作りをしていたのかは噂程度にしか知らないがね、あまりいい話は聞かなかったね」
「シト……」
わたしは地図を見渡す。アピスヘイルが藍猫さまの都というなら、他の花びらの先端にも同様の都があるのだろう。
スイさんはわたしの興味に応えるように、順番に指を指していく。
「紫の都オブシディアの仕都イリスヘイル、黄金の都ガルドの仕都クラウディアヘイル、緋の都カーネリアの仕都イグニアヘイル、橙の都アンバスの仕都ハルムヘイル、翠の都フロイトの仕都フリンジヘイル」
それぞれの都にはそれぞれの民がいて、それぞれの文化や生活があるのだろう。都の名前を聞いて、わたしの世界は急激に広がったような気がした。
わたしの脳裏に、お祭りの二日目に料理を振る舞ってくれた獣人のコックさんの姿が浮かぶ。彼は一体どこの国から来たのかしら。
「獣人はクラウディアに多く住んでいるね。あそこは独特の文化が形成されていてね、なかなか厄介な国だよ」
「そうなんですね」
また考えが読まれてしまったみたいだけど、わたしは大して気にならなくなっていた。スイさんになら読まれてもいいや。いちいち説明しなくていいから楽だわ。
「スイさんたちの国はどんな国なんですか? 仕都はアピスヘイルよりも大きいんですか?」
「私の国はフリンジという。フリンジは遊牧民の国だから、土着の民はほとんどいない。フリンジヘイルには一応農耕民が住み着いているけれど、大した規模ではないね」
「そうなんですか……」
遊牧民。たしか、ククルの貸してくれた小説にそんな設定の主人公がいたわ。羊や馬を連れて集落から集落を旅する、武芸や躍りに長けた自由な民族。何故だか土着の民は彼らに嫉妬していて、様々な嫌がらせを受けるのよ。だけど主人公の踊り子は、そんな世界に翻弄されながらも強く生きていた。
キラキラと目を輝かせるわたしに、スイさんは思わせ振りな溜め息をつく。お話は現実とは違うと言いたいのかしら。
「それで、橙の都に何をしにいくんだよ。具体的に橙戌は何をしてくれるんだ?」
ルカさんが不機嫌そうに尋ねる。確かにそれは一番気になるところだ。現状がおかしいということもわかったし、アピスヘイルが危機にさらされていることもわかった。藍猫さまがわたしたちに嘘をついていたこともわかったし、世界にはあと五人の神さまがおられることも理解した。だけど未だに、これから何をすればいいのかわからない。わたしたちに何ができるのかもわからない。
一体これから何が起こるのだろう。再びアピスに平穏は訪れるのかしら。ふたりでじっと眺めていると、スイさんは沈黙したまま地図をくるくると畳む。腰の鞄に丁寧にそれを仕舞うと、スイさんは口を開いた。
「それは、橙戌様と相談して決めよう」
「は?」
「私にもわからないから、相談しに行こうと言っているんだよ」
「…………」
「大丈夫だよ。悪いようにはしないから」
スイさんは立ち上がり、舳先の方に去っていく。わたしは急に不安になってルカさんを見た。ルカさんは眉間にシワを寄せていたけど、特に何も言わずに彼を見送っていた。
再び風が吹き始める。スイさんが神さまの力を使っているのだろう。帆が広がり、船は動き始める。先程見せてくれた地図の通り、北向きに進路を取るようだ。
わたしは地平線の先を見つめた。アピスヘイルがあるはずの方向に想いを馳せる。
これからどうなるのか不安だけど、きっとスイさんが何とかしてくれる。スイさんはわたしにチャンスを与えようとしてくれているのだ。わたしが汚名返上できるチャンスを。
もし狂った歯車を元に戻せたなら、アピスヘイルのみんなはわたしを許してくれるかしら。もしアピスヘイルに戻れる機会があったとして、わたしを受け入れてくれるかしら。
わたしは母さまの腕に抱かれる自分を妄想しながら、いつまでも地平線を眺め続けた。眺め続けて、眺め続けて、わたしはふとあることに気が付く。
わたしが最後に食事を摂ったのは、いつのことだったかしら……?




