第十章(5)
「食わねぇのか?」
「はい、ちょっと食欲が……」
「そっか」
ルカさんは銀の器に水を入れて、わたしに差し出してくれた。
この水、どこの水かしら。海の水は確か、″死水″と言う毒水なんだとルークさんが言っていた。
だけど、なんだかどうでもいい。
頭がぼんやりする。
今更、死のうが生きようがどっちでもいいじゃない。
わたしは投げやりな気持ちで器の水を飲み干した。
水はちゃんとした飲料水だったらしい。何の味もせず、普通のおいしい水だった。
ちょっぴりがっかりしてしまうわたし。向かいに座って同じく水を飲み干したルカさんを眺めながら、わたしは徐に口を開いた。
「わたし、怖かったんです。心臓を刺すのが。痛いんじゃないかって、つい思ってしまって」
「……そりゃあそうだろ。痛いに決まってるし、怖いに決まってる。当たり前だろ」
ルカさんは意外にも、そんなことを言ってくる。
「でもわたしは白子です。たとえ痛くて辛かったとしても、それは一瞬のことです。ただの試練だったんですよ? 神官になるための試練。なにも恐れることはなかった。あの時ちゃんと胸を刺せていたら、わたしは神官になれていた……なれていたのに……」
「…………」
何故だかポカンと口を開くルカさんに構わず、わたしは話を続けた。
「エリファレットさまは親切にも、痛覚を麻痺させてくれていたんですよ。百合の毒を使って。わたしが試練を乗り越えやすいように手助けしてくださっていた。なのにわたしは勇気が持てず、その結果こんなことに……」
今さらになって、罪の意識が肩にのし掛かってくる。わたしの手はブルブルと震えた。
わたしは失敗してしまった。白子の審判を上手くこなすことが出来なかった。わたしはこのお役目のためだけに生まれ、懸命に生きてきたのに、全てを台無しにしてしまった。
それだけならまだ良い。問題なのは、今の藍の都の状態だ。もしかしてわたしがミスをしたせいで、藍猫さまに多大な迷惑がかかってしまったんじゃないの? 藍猫さまは今、お困りになっているんじゃないの?
「わ、わたし、とんでもないことを……どうしたら良いんでしょう、どうしたら良いんでしょう」
震えが止まらないわたしに、ルカさんは狼狽して言った。
「落ち着けよ、きっと大丈夫だ」
「大丈夫なわけがないじゃないですか!」
思わず出た大声に、自分でもびっくりする。だけど、覆水盆に返らず。わたしは頭を抱えて怒鳴った。
「藍の都がなくなるなんておかしいですよ! 神官さまも藍猫さまもいなくなるなんておかしいですよ! 海が荒れているのだって、あちらの空に見えた黒い雲だって、全部おかしいですよ! おかしいですよね?」
「…………」
ルカさんは答えない。答えられないのは当然だ。だって、本当におかしいんだもの。何が起きてるかなんて、わたしたちにはわかりようもない。わたしは恐ろしいことを引き起こしてしまったんだ。そうなんだ。
「わたしはどうしたら、どう償ったら良いんでしょう。わたしは……」
涙が込み上げてきて、頬を伝い落ちる。後から後からどんどん溢れ出て、わたしの目はすぐに見えなくなった。
泣いてどうするのよ。泣いたってしょうがないじゃない。だけど今のわたしには泣くしか出来なくて、ワンワンと声をあげて泣いた。
悲しかった。ここまで来る道のりも、来た後の出来事も、辛いことばかりだった。だけどそれがわたしのお役目だから。一生懸命やれば藍猫さまに誉めてもらえると思ったから、頑張った。
なのに最後に最後で勇気が出ずに、し損なった。頑張ったことは全て台無し。誰もわたしを労ってはくれない。わたしは誰からも迎え入れてはもらえない。もうどこにもわたしの行く場所はない。
「わたし、わたし、頑張ったのに。辛くても泣かずに頑張ったのに。どうして、どうして、こんなことに……」
泣きわめくわたしに、ルカさんはしばらく困惑していたようだった。
だけど優しい彼のこと、憐れに思ってくれたのだろう。恐る恐る触れてきた手が、ゆっくりと背中を撫でてくれるのがわかった。
わたしは泣き続けたけど、わめくことはなくなっていった。まだ見捨てられていない安心感を、背中の暖かさに感じたからだろうか。
やがて泣き疲れて、わたしはしゃっくりをあげるだけになる。その頃になってようやく、ルカさんに申し訳ないという意識が芽生えた。彼は長い間、わたしの背中を暖め続けてくれたのだ。
わたしは膝に埋めていた顔を少しだけあげて、彼の様子を伺う。びっくりするほど近くにあった黒い瞳が心配そうな色を帯びているのを認めて、わたしはあまりに気まずさに再び顔を伏せた。
「落ち着いたか?」
背中から温もりが消える。手が離されたんだろう。
「はい……その、すみません……」
わたしはそれだけしか言えず、恥ずかしさに身をよじった。
いつもわたしはルカさんの前で弱音を吐いてばかり。ほとほと嫌気が差しているんじゃないかしら。
「あの、大丈夫です、もう大丈夫ですから……」
わたしは顔を伏せたままそう言った。気持ちはだいぶん落ち着いてきてはいたけど、顔は多分大丈夫じゃない。ぐちゃぐちゃの顔を見せたくなくて、わたしは膝に顔を擦り付けた。
「これ使えよ」
「あ……どうも……」
差し出されたのは、何か布のようなもの。わたしはありがたく受けとり、反射的に鼻をかんでしまった。
「ごめんなさい、これ、ルカさんの……」
「別にいいよ、どうせもうボロボロだし」
「ごめんなさい……」
「いいって」
どうやらそれはルカさんの正装のケープだったようで、わたしは慌てて頭を下げる。もう、わたしったら格好悪すぎだ。本当に、本当に、駄目な子……。
「本当に、ごめんなさい……」
そう呟くわたしの耳に、ふっと吹き出す音が聞こえた。布を抱きながらそちらを見ると、ちょっとだけ口を歪めたルカさんが見えた。
「悪ぃ、ちょっと可笑しくて」
「…………」
「悪い」
笑っている場合じゃないことはわかっている。だけど泣き疲れてしまったわたしの脳みそは麻痺していて、何だか笑ってしまいたい気分になった。
わたしもふっと吹き出すと、ルカさんも釣られて笑う。
「少しは元気が出たみたいで良かった」
彼はそう言って、水を満たした器を差し出してきた。
一気に飲み干し、一息付く。喉を降りていった水が、乾いた脳みそにも流れていくようだった。もう一度ルカさんの服で鼻をかみ、腫れぼったい目を擦っていると、ルカさんが徐に語りかけてきた。
「あのな。こういう時に話すのは抵抗があるんだが……いや、今だからこそ聞いて欲しいんだが……、怒らないで聞いてくれるか?」
「何でしょう」
ルカさんは視線を空に泳がせ、少しの間を紡ぐ。
「わたし、何でも聞きますよ。今のわたしには何もないですから……」
「そうか? なら話すが……」
ルカさんは戸惑いつつも、わたしの言葉に促されて口を開いた。
「ラウドの書のことなんだが……お前、まだ信じてるのか?」
「どういうことです?」
つい語調が強くなるわたしに、ルカさんは少しまごつく。
「お前、色々見ただろう。藍猫だとか、神官だとか……。実際のそいつらを見て、まだ今までの教えを信じているのか?」
「…………」
わたしは口をつぐんだ。
それは、考えないようにしていたこと。考えてしまえば、きっと藍猫さまに伝わる。藍猫さまに伝われば、背教者として罪に問われる。
アピスヘイルで暮らしていたときならいざ知らず、神さまのお膝元のこの場所で、わたしはそんなことを考えてはならない。邪心を持ってはいけない。
「信じて……います」
何とか絞り出した言葉は、ルカさんをガッカリさせたようだった。眉をひそめた彼は、ため息混じりにこう言った。
「どうしてだ? もう信じる必要はないんだぞ? 藍猫は居なくなった。藍の都はもうない。お前は解放されたんだよ」
「解放……された?」
「お前はもう、神官なんかにならなくてもいいんだ。そうだろう? だって藍の都がないんだから」
「…………」
わたしは洞窟の先を見た。まばゆく光る一本の柱が見える。わたしは反射的にこう言った。
「藍の都がないと困ります。アピス国のみんなは死後に藍の都へと召されるんです。無くなっては困ります」
「なに言ってんだ。召されるわけねぇだろ。そんなの嘘っぱちだ。死んだら魂は消える。意識は暗い闇の中に沈むんだよ」
「闇の中……」
「死は終焉だ。藍猫の信徒だろうが、白子だろうが、死んだらそこでおしまいだ。藍の都があろうとなかろうと、それはなにも変わらない」
「…………」
藍猫さまを信じていない人は、そのような死生観を持っているのね。わたしはうすら寒いものを感じて、膝を抱える腕に力を込めた。
これまでのわたしがこの話を聞いても、きっと何とも思わなかっただろう。
けれど今は、考えずにはいられない。
神官になれなかったわたしは、これからどうなるんだろう。
死者の審判で零の門を潜った魂は、夜空の星になって眠りにつく――そう教えられてきた。
けれど神官になれずに死んだ白子が、どうなるのかは誰も教えてくれなかった。
白子はすでに零の門を潜っている。
だから、もし死んでも夜空の星になれるのではないか。
わたしはそう思っていた。
でも、わたしは罪人だ。
夜空の星になる資格は、剥奪されたのではないだろうか。
いいえ、そもそも――。
夜空の星になるというのは、藍猫さまが創世される楽園に招かれるための過程だったはずだ。
もし藍猫さまに何かがあって、楽園が創世されなくなったとしたら。
夜空の星は、いつまでも夜空の星のまま。
それは、ずっと眠っているのと何が違うのだろう。
ずっと眠っているというのは、死んでいるのと何が違うのだろう。
――ルカさんの言っていることと、何が違うのだろう。
わからない。
わからない……。
「わたし、これから……どうなるんでしょう。この島から出られずに、飢え死にするんでしょうか」
「そんなことはねぇだろ。数日も経てば波もおさまる。船もあるし、大丈夫だ」
「でも、ここから出られたとして、わたしはどこへ行けばいいのでしょう。どこにも行く場所はありません……」
「どこへでも行ける。風任せで放浪しよう。きっとここよりはましな場所に着くさ」
「どうしてルカさんは、そんなに楽観的なんですか。怖くないんですか?」
ルカさんは特殊な体質をしている。
けど彼は、無敵じゃない。実際に今まで理不尽な目に遭ってきた人だ。
アピスではない国へ逃れたとして、そこに平穏がある保証なんてない。
もし野蛮な国に流れ着いて、捕まったりしたら――。
簡単に死ねない分、ルカさんのほうが、わたしより長く恐ろしい目に遭うかもしれない。
「怖くはないんですか。これから先のこと。どうなるか分からないこの状況で、どうしてそんなにも落ち着いていられるんですか?」
もう一度そう尋ねると、ルカさんは呆れたような表情で答えた。
「あのな。ちゃんと目の前の現実を見てりゃ、怖くはならねぇよ。今は、特に身の危険はない。お前は先のことを勝手に妄想して、不安を膨らませてるだけだ」
思いがけない言葉に目を丸くするわたしに、ルカさんはこう続ける。
「現実的に死が迫ってたら、俺だって怖いさ。
だが、周りを見ろ。今、この場所には何も起きてない」
「…………」
「海が荒れ続けたら? 船が壊れたら?
そのときは、そのときに考えりゃいい。
今、不安になる必要はない」
「……でも」
「でもじゃない」
ぴしゃりと遮られる。
「お前さ。なんで怪しげな宗教の教えは信じるのに、俺の話は信じねぇんだ?」
ルカさんは長いため息をつく。わたしはぎゅっと身を縮ませた。
「お前の言い分を借りるならだ。
お前はとんでもないことをしでかした、どうしようもないやつなんだろ?」
「……」
「だったら今さら、藍猫を信じようが疑おうが、結果は変わらねぇ。だから黙って、俺の話を聞け」
「は、はい……」
気迫に押されて、わたしはそう返事をしてしまった。ルカさんは満足そうに頷いてから、再び口を開く。
「いいか。ラウドの書ってのは嘘っぱちだ。『藍猫が神さま』って言うのも嘘っぱちだし、『お前が藍猫の子供』って言うのも嘘っぱちだ。『心臓を刺したら神官になれる』って言うのも嘘っぱちだし、お前は例の侵入者のお陰で命拾いをしたんだよ。運が良かったんだお前は」
「そ、そんなことは……」
「黙って聞けって言っただろ!」
涙目になって閉口するわたし。
「藍猫が本当に唯一神なら、敵なんて存在するはずがないだろ。なんで同等に戦えるやつがいるんだ。そいつも神だったのか?」
……確かに。
あの金髪の男の子は、おかしかった。
どうして神官であるエリファレットさまを害せたの?
どうして神の力に、あそこまで対抗できたの?
「侵入者一人にロクな罰も与えられねぇ存在を、恐れる必要があるか?
少なくとも今、藍猫にはお前を罰する余裕なんてない。罰するなら先にその金髪の男を罰するはずだからな」
「でも、アピスヘイルには暗雲が……」
「天気は自然現象だ。藍猫に関係なんかねえよ」
ピシャリと言い放つルカさん。
わたしは段々、彼の言葉を聞くことが心地良くなってきた。こんなに自信たっぷり話せるんなら、これが本当の話でいいんじゃないかと思い始めてすらいた。
「俺の考えはこうだ。藍猫は白子を餌にしてる化け物だった。だから神さまのふりをしてアピスヘイルの民を騙し、白子を献上させていた。ラウドの書もアルスの預言書も、そのためだけに作られた嘘っぱちの本だ」
ルカさんは息をつく間もなく続ける。
「だから書いてることがコロコロ変わる。前に書いた本は設定が合わなくなったから焼かせた。それだけの話だ。藍猫たちにとっちゃな!」
アルスの預言書……。
わたしは思わず目を瞬かせた。
そういえば、十二章の話をまだ聞いていない。
わたしが傷つく内容だと言われていたけれど、一体何が書いてあったのだろう。
今なら聞いてもいい気がした。
けれど、そもそもそれが嘘だというのなら、聞く意味はあるのだろうか。
「今回の事件は、やつらの悪事が露呈しただけだ。勝手に足を滑らせて転んだ、それだけの話だ。何も気にする必要はない。ザマァミロって笑ってやればいい!」
ルカさんは吐き捨てるように言った。
それはわたしに向けた言葉というより、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「俺たちは人間だ。家畜じゃねぇ。人間らしく、自由に生きていいんだよ……」
その言葉には、長年積もり積もった怒りと憤りが滲んでいた。きっと彼は、わたしよりもずっと酷い目に遭ってきたのだから。
――自由に生きていい。
その甘美な響きは、わたしの心を強く揺さぶった。
自由で、平穏で、穏やかな暮らし。そんなものが本当に許されるなら、どれほど良いだろう。
けれど、わたしはゆっくりと首を横に振る。
「駄目です。たとえラウドの書が嘘だったとしても、アピスの民はそれを信じています。藍の都をこのまま放置したら、きっとアピスに迷惑がかかってしまう……」
藍猫さまのお恵みで満ちていたアピス。
そのどこまでが嘘で、どこまでが本当だったのか、今のわたしにはわからない。
天候が藍猫さまの感情と無関係だったとしても、導きの水は?
あの泉は、白子の審判とは無関係に、自然に湧き出るものなの?
「せめて、アピスヘイルの状況を確認したいです。災厄が起きていないか。藍の都がこうなっても、あの国の繁栄が続くのか……」
「やめとけ」
即座に、ルカさんは言った。
「もうあの国に首を突っ込むな。お前が帰ったら、ややこしいことになる。俺たちに、もうあの国にしてやれることはない」
「……そうかもしれません。でも、このまま知らんぷりをするなんて無責任すぎます」
わたしは必死に言葉を探す。
「わたしは、そんなに無責任な人間じゃありません。こんなことになった責任を……わたしは、責任を取らなければいけないんです!」
頭を抱えながらわたしが、そう言い放った瞬間。
洞窟の奥で、妙な雑音が反響した。
反射的に、わたしたちは顔を上げる。
「誰だ!」
ルカさんが立ち上がり、暗がりを睨みつける。
洞窟の外は光の柱に照らされて明るいけど、船が打ち付けられている岸辺は闇に沈んでいる。
――パチ、パチ。
手を叩くような音が、はっきりと聞こえた。
明らかに、人為的な音。
「誰だ! そこにいるのは!」
ルカさんがもう一度怒鳴ると、拍手の音が止み、代わりに小石を踏む音が聞こえた。
ざり、ざり……。誰かが近付いてくる。
小柄な人物を思わせる足音だ。
得体の知れない気配に、わたしは息を呑んだ。
ざり、ざり……。瞬きすら憚られるほどにわたしたちの注目を集め、足音と共に暗闇から姿を現したのは――一人の男の人。
期待から大きく外れない、華奢な体の男の人だった。
「話は聞かせてもらったよ」
小さな唇から発せられたのは、涼やかなテノールボイス。その男の人は、見るからに只者でない出で立ちで、わたしの目は釘付けにされてしまった。




