第十章(4)
「カミノクニに? お前が?」
茶色い髪の少年が、わたしに向かって驚いた声を上げる。その声に、わたしは頷いてこう返事をした。
「清らかな女の子はね、テンシさまのご病気を治す力が宿っているんだって。旅の占い師さまが仰っていたの」
「ああ、あのうさん臭いババアか。随分適当なこと言うんだな」
「カミノタミの集落から来られた方よ! きっと本当のことだわ」
わたしの熱弁を聞き、茶髪の男の子は寝転がって野草を噛みながらつまらなさそうに呟く。
「"清らかな女の子"って、お前、自分のことそう思ってんの?」
「そりゃあ、わたしは祈り子だし、清らかでいるようにお父さまから言われて育ったのだもの……多少は、資格があるはずだわ」
「へー。そんで、お前、立候補する気?」
「うん……だって、"自ら進んで身を捧げる心"が、祈り子をさらに清らかにするんだって、お父さまが……」
わたしはスカートのすそを弄りながら、モジモジと答える。
「お父さま、泣いていたわ。わたしにどうかテンシさまを治してほしいって。わたし、お父さまの役に立ちたいから……」
「はぁ? 何言ってんだよ。どうしてお前が行かなきゃなんないんだ? 親父が行けばいーじゃんか。薬酒でも持って」
「お父さまは祈り子じゃないから……それに、薬酒じゃテンシさまは良くならないわ……」
茶髪の少年は、上体を起こしてわたしを見た。とても不機嫌そうな顔だった。
「お前は俺よりも親父の方が大切なのか? 俺と結婚する約束はどうなるんだよ」
「わたし、あなたのことは好きよ。だけどそれは、村が平穏であって、わたしの家族が幸せであることが前提なの。村の人たちが苦しんでいるのに、わたしだけあなたと幸せになることはできないわ」
その言葉を聞いた彼は、みるみる顔色を悪くした。きっと彼はわたしのことを思って言ってくれたのだろう。それはわたしに良くわかっていた。
でもわたしは……このときのわたしは、自分の考えを正しいと思っていた。彼のことを傷つけたとしても、みんなのために、お父さまのために……清らかな女の子になりたいと願ったのだ。
「ごめんなさい、××。ごめんなさい……」
ざざ、と波の音が聞こえる。わたしはざらついた地面を頬に感じ、ゆっくりと目を開けた。
わたしの周りにはごつごつした岩場が広がっている。荒れ果てた岩場と、広い湖。湖には何一つ浮遊物もなく、ただ中央部に一本の細い光の柱が立っている。
「あれ……おかしいな。ここ……藍の都、だよね?」
わたしはズキズキする頭を抱えて立ち上がる。わたしの記憶では、ここに神殿と大きな樹が立っていた。この岩場の上から、幻想的な風景を眺めたことを覚えている。
まるで夢だったかのように、目の前には何もない。わたしの背後に、わたしが乗ってきた船が停泊しているはずの洞窟がぽっかりと口を開けている。
「どこに行っちゃったの、エリファレットさま、ラウドさま……」
わたしは呆然としながらも、人の姿を求めて岩場の上をうろうろする。すると、洞窟の脇の岩の陰にうつ伏せに倒れている人物を見つけることができた。
「……え? ルカさん?」
顔は見えなかったけど、その服と、ぼさぼさの銀髪。夜のうちにどこかに消えてしまったルカさんに間違いない。
どうしてこんなところにいるの? わたしは急いで彼の元に駆け寄り、体をゆすった。
「ルカさん? ルカさーん!」
彼の背中には、何故だか赤黒いシミがある。多分、血痕だ。
怪我でもしたのだろうか。普通の人なら心配する量の出血だけど、ルカさんならこの程度、何でもないだろう。
予想通り、ルカさんはすぐに意識を取り戻した。寝ぼけて地面に何度か額をこすりつけた後に、顔を上げる。
「ルカさん! おはようございます。わかりますか? カノンです」
「カノン……?」
ルカさんは焦点の定まっていない目で辺りを見回していたけど、ようやく状況を理解したようで、むくりと体を起こして言った。
「カノン、お前、大丈夫だったか?!」
「ひゃっ」
いきなり肩を掴まれて驚いた。そして初めてわたしの名前を読んでくれたことにドギマギする。
「だ、だいじょうぶって、なにがですか……?」
はにかみながら問うわたしに、ルカさんは何故だか鬼気迫る顔をしてこう言った。
「お前、殺されそうになってたじゃねえか。あの女、やっぱり俺たちを殺そうと……」
「あの女って、エリファレットさまのことですか?」
「名前は知らねーけど、あの背の高い女」
「どうしてルカさん、そのことを知っているんですか?」
ルカさんは藍の都に着く前にどこかに去ってしまったはず。どうしてわたしたちのやりとりを知っているんだろう。
「それは……」
ルカさんはバツが悪そうにわたしから視線を逸らす。また言いたくないことでもあるんだろうか、と思ったけど、彼は絞り出すような声でこう言った。
「……お前が、心配だったんだよ」
「え? ……今、何て」
信じられない言葉に、わたしは思わず聞き返してしまう。するとルカさんは、耳まで真っ赤になりながら乱暴にこう言った。
「殺されるかもしんねーのに、ノコノコ正面から入る馬鹿がいるか? あまりにもお前の頭が固いから、こうするしかなかったんだよ。やばくなったら、助けてやろうと思って……なんだよ、見殺しになんてできねーだろ、普通!」
「ルカさん……!」
不貞腐れてそっぽを向くルカさんに、わたしは強く胸を打たれた。
わたしは本当は心細かった。仕方ないと思い込もうとしていたけど、見捨てられたことにかなりショックを受けていた。だけど、それはわたしの早とちりだった。ルカさんは実はわたしのために行動してくれていた。わたしを見捨てた訳じゃなかった。
わたしの心は喜びで満ち、しばし現実を忘れて幸福感に浸っていた。満面の笑みを浮かべて、ルカさんにお礼を言う。
「ありがとうございます。わたし、神官になるってことを勘違いしていて、つい戸惑ってしまいました」
「そりゃあそうだろ。あんなのまともじゃねぇよ。自分で心臓を捧げろって? 頭がおかしいだろ……」
「そう……ですよね……」
心臓を捧げる……その言葉に、わたしは一気に現実に意識を戻された。
思ってみれば、わたしは神官というものを甘く見ていた。どこか夢を見ていたんだ。白子として頑張っていれば、藍猫さまがわたしを暖かく迎えてくれる。藍猫さまはわたしの本当のお母さま。よく戻ってきたと抱き締めてくれて、無償の愛で包んでくださる。そして今まで頑張ったねとわたしの手を取り、神官の座へと導いてくださる。
「神官になるということは、わたしの思っていたようなものじゃなくて、もっと覚悟のいることだったんですね。わたし、そんなこと全然考えてなかったから……怖くなっちゃって」
ズシリと重たい短剣の感触を思い出す。あれを胸に突き立てるなんて恐ろしい。できるはずがない……。
できるはずないけど、やらなきゃいけなかった。少なくともサリーはあそこにいて、審判を無事に終えていた。審判を無事に……。
わたしの目の前に、急に鮮血が拡がっていく。悲鳴を上げながら胸を突かれる彼女の姿が思い起こされる。
「大変! 大変なことが起こったんですよ、ルカさん!」
「なにかあったのか?」
「エリファレットさまですよ! ルカさんも見ましたよね? エリファレットさま、誰かに刺されて……」
そうだ。どうして忘れていたの? わたしは大変なことを思い出した。わたしが意識を失う前に起きた恐ろしい出来事を。
「黒いマントの人でした。多分、男の子です。金色の髪で目の赤い……。どこからかやってきて、突然彼女を……」
「落ち着けよ、何言ってるんだ、お前」
「これが落ち着いていられますか! エリファレットさまが襲われたんですよ? 一大事です」
何故だかルカさんは、わたしの狼狽に怪訝な目を向けていた。わたしたちのやり取りを見ていたんじゃないの? どうして話が伝わらないの。
「待て、少し話を整理させてくれ。俺は多分、事の顛末を全部見てないんだ。後ろから刺されて……それからの記憶がない」
「後ろから、誰かに?」
「多分だが、そんな覚えがある。ずっとお前らの様子を伺ってたんだが、お前を助けるために立ち上がろうとしたとき、背中に何かが……」
「確かにルカさんの背中、血塗れですよ」
「本当か?」
ルカさんはケープを脱ぎ、背中の惨状を目の当たりにする。
「くそ、誰だよこんなことしたの……」
そしてブツブツと不平を言いながらも、再びケープをヒラリと羽織った。
「ということは、ルカさん、あの黒猫の人を見ていないんですか」
「黒猫?」
「ええ。黒猫の格好をした男の子です。声変わりしていない高い声の、金髪の男の子」
「そいつがどうしたんだ?」
「突然どこからかやってきて、エリファレットさまに襲いかかったんです!」
わたしは見聞きしたことを順序立ててルカさんに話した。
エリファレットさまが襲われた後、男の子が光る球体に向かおうとしたこと。それを人形たちが阻止しようとしたこと。倒れたエリファレットさまから藍猫さまが現れたこと。藍猫さまがどこかに消え、人形たちが動かなくなったこと。
「男の子はなんだか気味の悪いことを言いながらわたしに近付いてきました。けれど辺りが崩れ始めて……それからどうなったのかわかりません。そこでわたしは意識を失ってしまったので」
「目が覚めたら、こうなってたってことか?」
わたしは静かに頷いた。ルカさんもようやく、辺りの変わり様に意識が向いたようだ。立ち上がって岩場を進み、崖に掘り込まれた階段の前に立って呆然と湖を見る。
「ここに変な建物があったよな? どこに行ったんだ……」
「わかりません。藍猫さまはどうなってしまったのでしょう。白子の審判は……」
「………………」
考えていても仕方がない。わたしたちはその階段を下りてみた。以前と変わらず、階段の中途まで水が満ちていて、先に進めない。
「その水面、歩けないのか? 俺が一人で潜入したとき、確か足場がないように見えても歩ける場所があったんだが」
ルカさんの提案を受けて、わたしは水面に足を踏み出してみた。ズブズブと沈む靴に、わたしは慌てて右足を引っこめる。
「駄目です。ただの水ですよ、ここ」
「そうか……」
わたしたちは階段から湖を見渡す。ゴミひとつ浮いていない水面。透き通った水は、遥か下まで空洞が続いていることを露にしている。湖のほぼ中心にある細い光の柱だけが、ここに不思議な神殿があった可能性を示していた。
「なんだろうな、あの光の柱」
「さあ……」
わからないけど、さっきまで目の前にあった光の球、あれと関係があるような気がする。
なんの手がかりも得られず、わたしたちは崖の上へと戻った。そして今度は反対側、船が停泊しているはずの洞窟へと足を踏み入れてみた。
波が高く、船は岸壁に叩きつけられている。辛うじて船体は形を留めていたけども、積まれた荷は全て海に投げ出されてしまったようだ。色とりどりの贅沢な品々が、船の周りをプカプカと漂っている。
わたしたちは船に乗れないか試してみたけど、来たときよりも荒れ狂っている波に翻弄されて上手くいかない。
「船は駄目だ。こんなに流れが急になってたら、この洞窟から出ることすらできない」
「ルカさんは、どうやって船から離れて島に上陸したんですか?」
「簡単な筏を作って、島の外側に沿って漕いでいったんだが、あのときは流れが穏やかだったからな。この荒れた海じゃすぐ転覆するぞ」
「そうですよね……」
一応ルカさんが上陸したという場所に向かってみたけども、荒れ狂う波が激しい音を立てて打ち上げていて、とても近付くことができなかった。
「どうしてこれほどに海が荒れているんでしょう」
「嵐が来てるのかもしれねぇな。あっちのほう、黒い雲が見えるだろ?」
ルカさんが指差す方向には、確かに分厚い雲があり、その一帯は夜になっているかのごとく真っ暗闇に閉ざされている。
「あの方向、アピスヘイルじゃないですか?」
「そうかもしれない」
「アピスヘイルが……一体どうしたんでしょう」
わたしの心は、不安に満たされた。まさかわたしが白子の審判を失敗してしまったから? 藍猫さまがお怒りになって、アピスヘイルに嵐を起こしているの?
わたしの様子に気付いたのか、ルカさんが心配そうにこちらを窺う。
「大丈夫か? あんまり気にすんなよ。お前のせいじゃないんだし……」
「きっとわたしのせいです。わたしが白子の審判に失敗してしまったから……」
「違うだろ。お前のせいじゃない。言ってたじゃねぇか、変な金髪のガキがエリファレットを襲ったんだろ?」
「はい、でも、わたしがモタモタしていなければ、エリファレットさまは不意を突かれることはなかったかも」
そうよ、エリファレットさまは言っていた。藍猫さまのお加減が悪いから、わたしの血を必要としていると。わたしが早く心臓の血を捧げていれば、こんなことにはならなかったんじゃないの?
「わたしのせい……?」
「ちょっと、休もう。疲れただろ?」
呆然とするわたしの手を引き、ルカさんは洞窟の中に戻っていく。
「少し待ってろ。なんか食べる物でも探してくる……」
わたしを岩場に座らせ、ルカさんは波打ち際へと駆けていった。わたしはなんだか、なにかを考えることが怖くて、その姿をただぼんやりと眺めていた。
次第に日が傾いていく。段々と辺りが暗くなっていく中、ルカさんが腕いっぱいに何かを抱えて帰ってきた。
「水に浸かったものは、何故だかボロボロになってた……。これくらいしか残ってなかった、すまねぇな」
「ありがとうございます……」
ルカさんからリンゴをふたつ受け取るわたし。彼は持っていた水袋と真っ黒になった銀の器を地面に置き、見覚えのある黒い布をわたしに掛けてくれた。
わたしはリンゴをぼんやりと見る。お腹はかなり減っているような気がするけど、食欲はない。これは貢ぎ物のリンゴなのかしら。貢ぎ物を食べるのは、どうしても気が引けるわ。




