第九章(2)
思えば初めから、おかしかったのよね。何年も会わせてくれなかった母さまに会わせてくれるなんて、おかしいと思わなきゃいけなかった。
日没とともに戻った部屋の中で、わたしは窓から夜祭を見下ろした。今日も変わらず、楽しげな音楽と笑い声、無数の明かりがきらきらと闇夜を照らし上げている。
主教さまは言った。アピスヘイルのこの繁栄は、白子の審判によって成り立っているのだと。今日という日も、何の不安もなく当然のように贅沢を享受している国民たち。けれど、その資本である導きの泉は、すでに枯れかけている。
彼らは、非常に危うい日常を生きているのだ。
わたしは主教さまに手渡されたものを振り返った。それは部屋の入口の小さなテーブルの上に、投げ置かれたままになっている。
わたしは主教さまに言われた言葉を反芻した。それは鋭く冷たい言葉で、思い出すたびにわたしを震え上がらせる。
『アルベルト派の白子を――殺しなさい』
殺すって何? わたしがルカさんを殺すの?
わたしは震えながらも、無理やり口の端を上げた。
「ルカさんが死ぬわけないじゃない。こんなちゃちな毒なんかで」
……そういうことじゃない。殺せるとか、殺せないとかいう話じゃない。わたしがショックを受けているのは。
「……神官になる者同士、わたしたちはお友達になれるんじゃなかったの?」
神官になるときは、誰も付いて来てくれない。姉さまも、ばあやも、ククルもブレンダもマーサも、付いてきてくれない。
一緒に行けるのは、アルベルト派の白子だけ。それはテオドアかルカさんか、どちらになるかはわからなかったけれど――それでも、わたしは一人ぼっちにはならないのだと信じていた。
なのに。
主教さまから告げられたのは、恐ろしい言葉だった。
――アリアト派の繁栄のために、アルベルト派の白子を殺せ。
しかもそれが、先代のサリーが望んだことだという。
この宣告のあと、主教さまはなにやら呟いていた。頭が痺れたようになって、あまり記憶に残っていないけれど、確かこんなことを言っていた。
「この数か月で、アルベルト派は白子を変えてきたようです。どういうつもりかは知りませんが。テオドアでは勝てないと踏んだのでしょうか?
まあ、どうでもいいんです。どんな白子をぶつけてこようと、藍猫さまの元に辿り着く前に『事故』に遭ってしまえばいい。不幸にも事故に遭ったアルベルト派の白子は、藍猫さまにお目にかかることなく、青の道へ沈むのです」
含み笑いをする主教さまは、およそ聖職者とは思えないほど醜悪な顔をしていた。
主教さまは、ルカさんのことを知っていたわけではない。はじめから、アルベルト派の白子そのものに興味がなかったのだ。
痺れた頭で、ぼんやりとそう思った。
こんなことも言っていた。
「シノンが昨日からわけのわからないことを喚いていました。カノンも何か聞いていますか? テオドアが消えたとか、どこかに隠されたとか、興奮して言うんです。羊角のことに首を突っ込むなといつも言っているのに。どうしてシノンがそんなことを知っているのでしょうね。
騒ぎが大きくなると面倒なので、旅立ちの儀が終わるまで部屋で謹慎させています。あなたの旅立ちには立ち会えませんが、仕方がないですね」
面倒。
面倒って何よ。
あなたがサリーを慕っていたように、姉さまもテオドアを慕っていたのよ?
どうしてそれがわからないの。
けれど、怒りの気持ちが湧いてくるほど、わたしに気力は残されていなかった。
わたしはいつもの隠し場所から、サリーの手記を取り出した。
今ならわかる。彼女が書き残したことのほとんどが、彼女の気持ちが。
『懲罰房に入るような不信心者でないと、詮索しようなんて思わないでしょう。よくもこんなものを作ったわね、どういうおつもりなのかしら、ラウドさま?
地下の真実に首を突っ込む愚者。そして賢者は暢気にお日様に焼かれるの。あっちの洟垂れは何も知らないんでしょうね。本当にご聡明であらせられますわ、お坊ちゃま。
逃げることもできるけど、わたしは八戒に殉じましょう。アピスの民と、オズワルド君のために。
あれを読めたのはわたしだけだったから、少し嘘を吐いてしまったわ。真実を曝け出せば、彼は泣いてしまうでしょう? 泣き虫で愚図のオズワルド君。サリーは、彼のことちょっぴり気に入ってたみたい。
わたしが重臣に選ばれれば、いずれ彼のお兄さまが国王になるんでしょう? おかしいわよね、全然想像できないわ!
勝つのはわたし。わたしが負けたら、次の人、よろしくね。
アリアトよ、永遠なれ!』
サリーは、とても意志の強い女の子だったようだ。アリアト派を勝利に導くために、手段を選ばなかった。彼女はどこからか毒物を手に入れ、それを隠し持って、藍の都へと旅立った。
彼女に『洟垂れ』と言われた羊角の白子は、哀れにも凶刃に倒れ、藍の都に辿り着く前に、青の道の底に沈んでしまった。
すべては、アリアト派のために。
″ちょっぴり気に入っていた″オズアルド君のために。
彼女は、それをやり遂げたのだ。
「サリー。あなたは立派だったわ。でも、十二章は守られていないわよ」
わたしは苦笑しながら、その本を破り捨てた。びりびりに破いて、窓の外へ放り投げる。
「『白子は八戒を遵守し、一人の平均的な子供として育てよ。けして特定の神民との縁を結ぶなかれ』」
たぶん、今でも主教さまはサリーを愛している。きっと、ばあやも同じだ。
二人はサリーを愛するあまり、彼女の遺したこのナイフに執着している。彼女のように、わたしが羊角の白子を殺し、再びアリアトに繁栄をもたらすことを望んでいる。
すべてはサリーのため。
彼らは未だ、サリーと共に生きているのだ。教典の教えを犯してまで、サリーを想っている。
わたしの胸は、嫉妬に焼かれていた。粉になるまで本を破り、力任せに外へ投げつける。
わたしには、そんな人はいない。
わたしを気にかけてくれる母さまは、彼らの手によって、わたしから遠ざけられた。
姉さまはテオドアに熱を上げていて、わたしのことなんか忘れている。
修道院の友達は、お祭りにすら誘ってくれなかったし、ククルもブレンダも、わたしとは距離を置いている。
ローダさまは、わたしじゃなく、白子という立場が好きなだけ。
わたしの傍にいてくれるのは、ルカさんだけだったのに。
ばあやと主教さまは、サリーを愛するあまり、わたしからルカさんまで奪おうとしている。
今頃、ルカさんにも旅立ちの宣告がされているかもしれない。ルカさんはランディスさまに、同じようなことを言われていないかしら。アルベルトに栄光をもたらすために、わたしを殺せと――そう言われていないかしら。
「ルカさん……ルカさんは、そんなことしないわよね?」
ルカさんは、わたしと違って、アルベルトの人たちになんの恩義もない。喋ったこともないような人たちのために、ここ数か月行動を共にしたわたしを殺そうとするかしら。
わたしの頭の中で、ルカさんが笑う。
『別に、俺は気にしねぇよ』
ルカさんなら、そう言ってくれるような気がした。
でも、ルカさんは理解できない行動もする。果たして全面的に彼を信用してもいいものか。だけど、わたしには、もはやルカさんしか頼れる人がいなかった。
今からルカさんのところへ行って、提案してみたらどうだろう。テオドアが通った抜け道を通って、二人で逃げてしまわないか。
お祭り二日目の晩餐で、料理人さんが言っていた。世界はすごく広くて、獣人のような変わった種族の人もいるって。髪の毛の白いわたしたちを変に思わない国も、きっとどこかにあるでしょう?
だけど、わたしの頭に主教さまの言葉が蘇る。
『あなたが旅立たねば、泉は枯れます。そして雨はやむことが無くなり、この都は「最期の審判」を迎えてしまうでしょう。――あなたの小さな肩に、アピス国民すべての命が乗っているのです』
わたしの脳裏に、楽しかった日々が浮かんできた。
リリムが冗談を言い、カーミィが眉を顰める。
アイリスが悲鳴を上げ、姉さまが笑う。
ローダさまが楽しそうに妄想を語る。
ククルがおまんじゅうを頬張って、幸せそうな顔をする。
マーサは恋人と幸せそうに暮らして、ブレンダは実家の手伝いに精を出す。
ばあやはみんなを怒鳴りながら教会を掃除し、フランシスカ先生はどもりながら聖書を朗読する。
ケインさんやリンゼイさんが早起きして、朝の礼拝に並ぶ。
そして来年も、そのまた来年も、エリスフェスタが開かれて、子供たちが舞い踊る。
キャンドルナイトで恋人たちが、川の光の途切れる時を待つ。
そして、とあるお屋敷の窓際で、母さまが――
母さまが、揺り椅子に体を預けて、微笑んでいる。
リズとルーシーが、その膝の上でにゃあと鳴くの。
もしわたしが、ルカさんと一緒に逃げてしまったら。
彼らはどう思うだろうか。
捕まって都に連れ戻されたとき、彼らはわたしに微笑むだろうか。
わたしに石を投げ、罵声を浴びせるのではないか。
もし醜く生き延びることができたとしても、わたしは二度と彼らと語らうことはできなくなってしまう。
一生恨まれて、蔑まれて、生きていかなければならない。
わたしは、愛されたい。
みんなから愛されたいの。
そして暖かい部屋で眠り、お腹いっぱいご飯を食べるの。
ゆりかごの歌のように。
安らかに。ゆらゆらと、誰かに守られて。
誰からも憎まれず、平和に、安寧に暮らしたいの。
わたしの心は、とっくの昔に決まっていた。
あの時ルカさんに、偉そうに言ったじゃない。忘れたとは言わせない。
「死ぬより怖いことって、たくさんあるのよ、カノン」




