第八章(5)
なかなか眠りにつけない夜を過ごしたわたしは、翌朝時間通りに起きられるはずもなく、すっかり日が高く昇ってしまってから寝ぼけ眼のまま階下に降りた。いつものようにばあやの怒号が飛んでくるかと思っていたのに、わたしを叱り飛ばしたのは侍女長補佐のターナというおばあちゃんだった。
「もう、私がミリア様に叱られるんですから、ちゃんとなさってください!」
彼女はプリプリと怒りながら、遅い朝餉の用意をてきぱきと済ませてくれた。
「ばあやはどうしたの? ここ数日姿を見ていないけど」
「ミリア様はお嬢様のところへ滞在されていると聞いております」
「お嬢様?」
ばあやの娘と言ったら、わたしの母さまであるイリアさまである。どうしたんだろう、母さまに何かあったのかしら? わたしは首からぶら下げたパルフィートを眺めつつ不安な気持ちになった。
「カノン様、昨晩はありがとうございました!」
今日は勤務日だったらしいブレンダが、わたしの着替えを手伝ってくれる。
「きっとカノン様、お寝坊されると思って。だから私、不安がるターナ様を宥めておいたんですよ」
「そうだったの。ありがとう」
彼女も昨晩は遅かっただろうに、疲れを感じさせない晴れやかな笑顔だ。彼女はククルと違い、わたしたちのことをそれほど掘り下げようとせず、話をあっさりと打ち切った。
彼女はクローゼットから白いワンピースを選び、頭に被せてくる。背中の紺色のリボンを結んでもらいつつ、今日はお出かけの予定はないことを伝えると、髪の毛は普段通りの一つ結びに整えてくれた。
「カノン様~どうしたんです? 今日はお祭り行かないんですか?」
部屋に戻ろうとしたわたしをエプロン姿のククルが目ざとく見つける。
「ええ。もうお祭りはお腹いっぱいなの。今日は部屋でゴロゴロして過ごすわ」
「そうなんですか? もったいない!」
ククルは大げさに驚いてみせて、それからこっそり耳打ちしてきた。
「例の彼とお出かけする予定はないんですか?」
「もういいのよ。すっぱり諦めたわ」
「ええ~! そんなぁ。みすみすこの絶好の機会を逃しちゃうんですか?」
「いいの。初めから無謀なことだったのよ」
わたしはそう語りつつ、ククルの様子を窺っていた。顔が広い彼女のこと、昨晩の事件を誰かかから聞きつけてはいないか不安だったのだ。
わたしの心配をよそに、彼女の言葉には何の含みも感じられない。ただひたすら、残念だ、もったいないという感情しか伝わってこなかった。
「じゃあね、ククル。お仕事頑張ってね」
「はーい! お任せください」
良かった。少なくともブレンダは、本当に口が堅いみたいね。わたしは緩く微笑んでククルに別れを告げた。
透き通った音色、まるで風が微笑んでいるみたいだわ。わたしはこの日一日、窓からエリスフェスタを眺めつつ、『ゆりかごの歌』の練習を繰り返した。数時間ほどの練習で、ほぼ間違えることが無くなり、音色も洗練されたものに変わっていた。
わたしが犯した大失敗なんてまるで無かったかのように、お祭りの様子は例年と変わらない。今日のメインイベントである大通りの大パレードが眼下に見える。
大パレードでは、貴族区と平民区のエリスがお城側と青の道側に分かれて大通りをゆっくりと進む。そのお神輿の周りを子供たちが年齢順に並んで舞い踊る。今日のためにたくさん練習したダンスや楽器を親たちに見せ、親たちがその立派な姿にむせび泣く。四日目の定番であるこの光景は、いつもわたしの胸にチクチクと痛みをもたらしていた。
だけど、今年は違う。わたしはクスリと笑った。だってわたしも母さまにお会いできるんだから。
明日に迫った約束の日。昨晩の出来事のせいで中止になってしまうことを恐れてはいるものの、今のところ何の知らせもない。いくら姉さまが主教さまの娘であっても、お祭りの期間中、とんでもなくお忙しい主教さまに告げ口をする時間はないだろう。
それにこのことを主教さまに知らせることは、姉さま自身の立場も危うくする。どうしてテオドアが居ないことを知っているのか、どうして三人目の白子のことを知っているのか、たぶん姉さまにはもっともらしい回答を用意できない。
イザクさまだって不用意な振る舞いはできないだろう。彼はルカさんがカツラでないことに気が付いてしまっただろうけど、それを公表することは姉さまだけでなく、お父様であるユジンさまの立場を怪しくしてしまいかねない。聡明な左大臣のご子息である彼は、きっと良識ある言動を取ってくれるはずだ。
わたしはそう判断して、なんの対策もなくのほほんとしている。それは危ういことなのかもしれないけど、他にどうすればいいのか分からなかったから仕方がない。
わたしは今日何度目になるか分からない、『ゆりかごの歌』を吹いた。
明日、母さまにどんな話をしよう。話したいことはたくさんあるはずなのに、何も浮かんでこない。とにかく『ゆりかごの歌』を吹いて、未だにわたしは母さまのことを母さまだと思っていることを伝えるのは絶対だ。他のことに関しては、話してみないと何とも言えない。母さまがわたしのことをどう思っているのか、未だに娘だと思ってくれているのか、話してみないと分からないのだもの。
どうしよう。明日のことだというのに、頭の中が真っ白で何もイメージが湧かない。こういうときは、そうだわ、ルカさんに相談に乗ってもらおう。まだ明るい時間だけど、わたしは着替えをして抜け穴に潜った。
ランディスさまがお忙しいこの期間中は、彼はほとんど牢屋に閉じ込められている状態だと推測できる。この時間に行ったってきっと夜と変わらない。マイペースにお勉強をしているのよ。きっとそうだ。わたしはそう信じこんで部屋へと向かった。
慣れた手つきで開錠し、入り口を塞ぐ石を少しだけ持ち上げる。万が一のことを想定して、わたしはそっと辺りを窺った。話し声や怪しげな物音はしない。だけど妙に暗いのが気になった。この部屋の光源は小さな天窓と松明とランプだけなので、昼も夜もあまり明るさは変わらない。でもいつもこんなに暗かったかしら。ルカさん、部屋のランプを付けていないのかな?
「ルカさーん?」
わたしは小さく声を出す。物音はしない。お出かけ中かな? わたしはそう思い、静かに部屋へと上がった。差し込んでくる天窓の明かりが、あたりの輪郭をぼんやりと浮き上がらせる。
「!」
わたしは息を呑んだ。立ち上がろうと床についた手が、なにか冷やりとしたものに触れた。なんだろうと目を凝らすと、それが鉄格子であることがわかった。
ぐにゃりと曲がった小さな鉄格子。これは牢屋の入口のものではない。この鉄格子は――わたしは天井を見上げた。
いつも奇妙にプラプラと垂れ下がっているはずのロープがない。ロープが結び付けられているはずの天窓の鉄格子がない。それはわたしの目の前で無残にひん曲がっていて、細かくちぎれたロープがそのまわりに散らかっている。
わたしは背筋が凍った。そうだ、ルカさんはこういう人だった。最近はすっかり普通の人になっていたから忘れていたけど、こういうことをする人だったんだ。
そのうちわたしは気が付いた。この部屋が昨日までと違って荒れ果てていることに。
絨毯は跳ね上がり、椅子は砕け、赤黒いシミがそこかしこに飛び散っている。
「何しに来た」
背後から声がした。わたしの心臓は縮み上がる。懐かしいこの感覚。この部屋に来るたびに感じていたぞわぞわするような恐怖。それが再び、わたしの足元に忍び寄っていた。
わたしは恐る恐る振り返る。
こんな思いを抱きたくなかった。二度とルカさんに対して、こんな感情を持ちたくなかった。
それなのに。
わたしの目に飛び込んできた彼の姿は、わたしを途方もない恐怖に引きずり込むのに十分なものだった。
「だ、駄目じゃないですかルカさん……どうしてこんな……」
わたしは悲鳴を飲み込んで、必死に声を出す。どんな姿であれ、目の前の彼は昨日までのルカさんと同じ存在だと信じたかったからだ。
だけどわたしの願いも空しく、ルカさんは手に持っていた何かを振り上げてわたしを威嚇した。
「うるさい……関係ないだろお前には! どうして勝手に入ってきたんだ!」
「だって、その、わたし……」
「なにも喋るな! なにも聞きたくない!」
ルカさんはそう喚くと、近くにあった何かを投げつける。それはわたしにぶつかりはしなかったけど、わたしの足元で派手な音を立てた。
「ひゃっ」
わたしは腰が抜けて、ぺたんとしりもちをつく。地面に張り付いたそれは、カンテラに照らされてこちらに背表紙を見せつけていた。
ページが引きちぎられてボロボロになっていたけど、それは昨日まで彼が懸命に読んでいた『文字の成り立ち』に間違いなかった。
わたしは次々に気付いていく。部屋に散らかるものたちは、昨日までルカさんが取り組んでいた書き取りの紙だったり、教本だったり、黒板だったりした。机すらも横倒しになり、あたりに木片をばらまいている。
どうしたんだろう。昨日までのルカさんは、どこに行ってしまったんだろう。目の前にいるのは、顔と服を血だらけにして、ギラギラした目でこちらを睨む獣のような人物だった。
彼は急に頭を抱えると、わけのわからないことを喚き始める。
「ああ、くそ、こんなに眠くなるなんて、最悪だ。昨日のアレのせいだ、畜生!」
ルカさんは手に持っていた真っ赤な棒状のものを、ひたすら首や頭に突き立てる。それを抜く度に大量の血が噴き出して、壁や床をべとべとに濡らした。
「や、やめてください。やめて!」
「うるさい! それどころじゃねぇんだよ! 出ていけ、早く出ていけ!」
再び何かが飛んできて、わたしの肩をかすめる。背後でぽすっと柔らかい音がしたので、それはクッションか何かのようだった。
こんな状態でも、ルカさんはわたしに敵意を持ってはいない。そう気が付いたけど、今はとても話ができる状況ではない。
わたしは慌てて抜け穴に飛び込み、石の蓋を閉じた。ドスンバタンと音がする。上で暴れまわっているらしい。わたしはその音を聞きたくない一心で、階段を飛び降りていく。
辿り着いた祭壇の部屋でわたしは力なく座り込み、ぼんやりと水路を見つめた。
「どうしたんだろう、ルカさん……」
最初に見た時よりも幾分か嵩が減っているように見える小川に、わたしはため息を落とす。
「昨日まで、あんなに楽しそうにしていたのに……」
懸命に読んでいたあの本も、びりびりに破いてしまった。この数か月一緒に頑張った勉強道具も滅茶苦茶になっていて、わたしは今までの日々が否定されたような気がしていた。
『こんなに眠くなるなんて……』
ルカさんが喚いていた言葉が思い起こされる。そういえば、眠りについては以前も言っていた。
『最近はなかなか成功しなかったから気が立ってたんだ』
″成功″とは、ルカさんによれば″熟睡すること″であり、″熟睡すること″はおそらく一般的に言うと″昏睡状態になること″に当たる。
どうやら″普通に眠ること″はルカさんに多大な悪影響を及ぼすらしい。
「そういえば、こうも言っていたわ」
『いらない。そんなの食ってると、眠くなるだろ』
確かそれは、わたしがクッキーを勧めようとしたときのこと。ルカさんはこう言って、わたしの厚意を退けたのだ。
「もしかして、もしかして、ルカさん」
わたしの頭の中で、いびつだったパズルのピースが次々とはまっていく。
もしかしてルカさんは、本当に″眠らなくても大丈夫な体″なのかもしれない。″食べなくても死なない体″である彼なら、あり得ない話じゃない。
だけどそれは完全でなく、たまに眠たくなり、普通の人のように眠ることもできる。普通に眠ると悪夢かなにかを見て、さっきみたいに頭がおかしくなってしまう……。悪夢を見ないためには、熟睡して頭をハッキリさせるしかないけど、熟睡するためには昏睡状態にならないといけない…………。だから彼は繰り返し繰り返し自傷して、″熟睡を成功″させようとするのかしら。
最近は眠くならないように勉強をしたり読書をしたりしていたけど、食べ物を食べると抗えないほどに眠たくなってしまうのかもしれない。だから彼はわたしからの食べ物を徹底して拒否していたのだ。
「ルカさん……どうして食べてしまったのかしら。こうなるとわかっていながら」
『昨日のアレ』とは、ブレンダのミートパイのことだろう。食べなくてもいいと念を押したのに、ルカさんは食べてしまった。美味しいと言いながら……。
あまつさえ、ブレンダに礼を言ってほしいとまで言った。ルカさんは食べ物をくれたブレンダに感謝していたのだ。
どうして? こうなると分かっていたのよね。どうしてそんなことをしたの、ルカさん。いくら考えても分からず、わたしはしょんぼりと帰途についた。
真っ赤に染まったルカさんの姿は、その後のわたしの元気を奪って有り余るもので、フルコースを感情なくつつくわたしを侍女たちはこぞって心配した。
誰かが明日のことを触れ回ったのだろう。みんなはわたしの元気がない原因が、母さまに会うことに緊張しているからだと思い込んでいるようで、微笑みながら見守ってくれた。
誰もわたしに声を掛けることなく、元気付けることもなく、わたしは湯浴びを終えて部屋に戻った。
あれほど楽しみにしていた母さまとの再会だけど、わたしは不安で溺れそうで、なかなか眠りにつけなかった。
こんなに孤独な夜は久しぶりだと思った。
この部屋に閉じ込められたばかりの頃は、姉さまがわたしを気にかけてくれた。ここでの生活に慣れてからは、ばあやが常に一緒に居てくれた。ここ最近は、ルカさんがわたしを励ましてくれた。だけど今、この不安な夜に、誰一人としてわたしに寄り添ってくれない。
おかしなわたし。明日は母さまに会えるのよ。最高に幸せな気分で眠りにつけるはずじゃない。
どうしてこんなに不安になっているの?
わたしは薄手の布団を被って、頭の中の何もかもを真っ暗闇に覆い隠してしまおうとした。
だけども結局、この胸騒ぎは一晩中わたしの精神を蝕み続け、翌日最悪な形で現実のものとなってしまうのだった。