第八章(3)
贈り物は決まったのだから、すぐに帰ろうと言われると思っていた。だけどルカさんは特にわたしを急かしたりせず、依然としてのんびりと通りを歩いていた。
時刻は十二時前。もうじき日付が変わろうとする中、露店の明かりが次々に消されていく。
「ルカさん、お腹すきませんか? 食べ物屋さんはまだやっているところもありますよ。お礼に奢りたいので、何か食べていきましょう」
わたしがそう提案すると、ルカさんの表情が思い切り歪んだ。
「どうしてお前は食い物にこだわるんだ? 散々いらねぇって言ってんのに」
「だって、食べ物が一番お手軽でわかりやすいじゃないですか。そうだ、わたし美味しいおまんじゅう屋さんを知っているんです。まだ開いているかなぁ?」
わたしが暢気にそう言うと、ルカさんは大げさなくらい大きなため息を吐いてこう言った。
「あのなぁお前。俺の話を聞いてるか? 前も言っただろ、俺は"何も食べない"って」
やたらと強調されたその言葉。確かに以前言っていた。クッキーを持って行った時だったかな?
「"何も食べない"って仰いますけど、そんなわけないですよね。人間、何か食べないと死んでしまいます。間食はしたくないということですか?」
「…………」
「では、飲み物なんてどうでしょう。わたし、美味しいミックスジュースのお店も知っていますよ」
「……お前なぁ。"死ぬ"って、誰に向かって言ってんだ?」
…………。ルカさんの心底呆れ返ったようなその言葉に、わたしの頭は一瞬固まった。
「もう一度聞きますけど、ルカさん。"何も食べない"わけがないですよね? 何か食べないと、いくらルカさんでもお腹がすきますよね?」
「お腹がすくかと言われたら、すくかもしれないが。別に"何も食べなくても"死なないんだよ、俺は」
…………。
「えっとその、人というのは、″食べないと死ぬ″から″お腹がすく"のであって……」
「それはお前の常識だろ。俺の常識とは違う」
「え、ちょっと待ってください。"食べなくても死なない"けど、"お腹はすく"んですか?」
「腹は減るが、別に何かを食う必要はないんだよ」
なんだか、頭が痛くなってきた。ええと、ルカさんの言っていることが本当だとすると。ルカさんは、何も食べなくても死なない。だから何も食べない。だけどお腹がすく。お腹がすくということは、何も食べられないというわけではない?
「…………」
よくわからないけど、よくわかった。ルカさんの常識というのは、わたしの常識とは大分違う。わたしは持ってきた食べ物を拒絶される度に、自分が拒絶されたように感じて傷ついていたのだけど、ルカさんにそんなつもりは毛頭なかったのだ。
むしろわたしの方が、ルカさんに自分の常識を執拗に押し付けて、ルカさんを傷つけていたんじゃないの? 食べない、いらないと言っているのに一向に理解しようとせず、何度も何度も食べ物を押し付けて勝手に不貞腐れて。
わたしは急に過去の自分の愚かな行いが思い出されて、後悔の念に苛まれる。
「すみませんでした、ルカさん」
「? 何で謝るんだ?」
「今までわたしは、自分は良いことをしているんだと思っていました。ルカさんに美味しいものを食べてもらうことが、あなたと仲良くなることだと思っていました」
「そうなのか……」
「でも違ったんですね。わたしはお腹がすいていないルカさんに、無理矢理何かを食べさせようとしていたんですね」
「まあ、そうかな……」
「すみませんでした」
「いや別に、謝るようなことじゃねえだろ」
深々と頭を下げるわたしに、ルカさんは困ったように頭を掻く。
「俺の方がおかしいってのは解ってるんだよ。だからあんまり気にすんな」
気にするなと言われても。知ってしまった以上、気にしてしまうのは当然のことだ。
これからは気を付けないと。不用意にルカさんに食事を勧めるようなことがないようにしないと。わたしがそう心に決めたとき、なんともタイミングの悪いことか、前方から聞き覚えのある声がした。
「あれ、カノン様? あ、やっぱりカノン様!」
わたしの思考は急停止する。夜祭に降り立ってから、顔見知りに鉢合わせないように細心の注意を払っていたのに。贈り物を見つけたことで、すっかり気が緩んでしまっていた。
わたしは操り人形のように、カクカクと頭を動かす。わたしの目に飛び込んできたのは、漂白した藁でできた簡易のカツラを被った女の子。くりくりとした緑色の瞳は、すぐさまわたしの頭に一人の人物の名前を思い出させた。
「ブレンダ! あー、ここがあなたの実家なの?」
「はい! そうです~。カノン様、いつ来られるのかとずっとお待ちしていたんです。まさかこんな夜半にお越しになるなんて!」
そうだ。わたし、ブレンダの実家の露店に伺うことを約束していたんだ。詳しい場所を聞いていなかったから今まで忘れてしまっていたのだけど、まさかこんなタイミングで前を通ってしまうなんて。
「あれ~? もしかして、カノン様……」
ブレンダはわたしの隣に佇む人物に気が付いて、好奇の視線をぶつけてくる。
「いや、その、これは、なんでもなくて」
「いやだ。あの噂、本当だったんですか? えー、ショックだわ!」
ブレンダは目を見開き、両手に頬を当てて大げさに驚きを表現した。
「ごめん、ブレンダ。このことは誰にも言わないで……」
「わかっていますよ。こんなことミリア様に知られたら、一体どうなってしまうか……! 侍女の首が二、三個飛んでしまうかもしれません」
彼女は自分の首を掻っ切るようなしぐさをして、苦しそうに舌を出して見せた。多分これは、彼女の精一杯の冗談だろう。おそらくわたしが夜に大教会を抜け出して知らない男の子と出歩いていることも、冗談ということにしてくれるというアピールだ。
「じゃあその代わりに、うちのパイを食べて行ってください。そして最高においしかったことを修道院のお友達に教えてあげてくださいね」
「ええ、わかったわ! 喜んでご馳走になるわ」
鼻歌を歌いながら露店に戻る彼女を見て、わたしはまずいことを言ったと思った。怪訝そうにこちらを窺うルカさんに、わたしは慌てて耳打ちする。
「彼女は、わたしの侍女です。ブレンダというのですが、とてもいい子なので大丈夫ですよ! 実家がレストランで、今年はウサギのミートパイを出品するって言ってまして、食べに行くことを約束していたんです。多分彼女のことだから、ルカさんの分も持ってくると思うのですけど、適当に誤魔化すので食べなくてもいいですからね!」
「ミートパイ……ウサギ……」
ルカさんはそう呟いて、露骨に嫌そうな顔をした。まずいわ。ものすごく嫌いな食べ物なのかもしれない。
「食べなくてもいいですからね!」
わたしはそう念を押して、駆け戻ってきたブレンダを出迎えた。
「焼き立てアツアツですよ! 冷めないうちにご賞味くださいね」
「ありがとう! わーいい匂い」
パイはこんがりときつね色をしていて、ウサギの形にくり抜かれた片側の生地からミンチ肉のフィリングが覗いている。口の中が唾液に満たされたわたしは、我慢できずにすぐさまかぶりついてしまった。
「あふいあふい! れも、おいしーい!」
少し口の中を火傷した。でもそんな小さな後悔なんて、吹っ飛んでしまうほどの美味しさだった。
「あはは、カノン様ったら、お行儀が悪いです。でも、嬉しいです!」
ブレンダは笑いながら、バスケットの中のもう一つのパイをルカさんに差し出す。慌てて止めようとしたわたしだったけど、口の中にパイがあって上手く喋れなかった。
もう、なにをやっているの、わたし。
「いつもカノン様をありがとうございます。これからもよろしくお願いしますね!」
「……」
ルカさんはブレンダのキラキラしたまなざしに圧倒されたのか、素直にそれを受け取った。そして信じられないことに、彼女の前でそれを頬張ってみせたのだった。
「うまい」
「お口に合って、良かったです!」
ブレンダは踊るような足取りでわたしのほうにやってきて、腕を引き寄せてくる。
「素敵な人じゃないですか。カノン様、頑張ってくださいね!」
「ち、ちがうのよブレンダ。その、あなたが思っているような関係ではなくて」
「カノン様、キャンドル・ナイトはご覧になりました? そろそろ終盤ですけど、このくらいの時間が実は穴場なんだって、義姉さんが言っていました。お勧めのスポットはここに書いてありますからね」
ブレンダはわたしの話にちっとも聞く耳を持たず、一枚のチラシを押し付けて去っていった。そろそろ店じまいの時間なのか、露店の片づけをしている家族の元へと駆け寄って、なにやら手伝いを始めてしまった。これ以上、わたしたちを気に掛ける余裕はなさそうだ。
「あ、あの、ルカさん……」
わたしは恐る恐る振り返る。上手く誤魔化すと宣言したにもかかわらず、何もできなかったわたしに怒っているんじゃないかしら。
脂汗をかくわたしとは裏腹に、目の前のルカさんは平然とした様子で咀嚼を続けており、なんとそのまますべてのパイを平らげてしまった。
「あの……ルカさん?」
「何だよ」
「何も食べないんじゃなかったんですか?」
「何も食べられないわけじゃない」
「もしかして、ミートパイ、お好きだったんですか?」
「……別に、嫌いじゃねえかな」
「…………」
わたしは頭を抱えた。やっとルカさんのことがわかりかけたような気がしたのに、一気に振り出しに戻された気分だ。
「どうした? 食べないのか? 冷めると不味くなるぞ」
「食べますよ、食べますったら!」
「一番旨いときに食べてやらねえと、ウサギが可哀想だろ」
「そうですね、可哀想ですね」
わたしのほうが可哀想じゃない? わたしは心の中で泣きながら、ミートパイを口に入れた。トマトソースの酸味が口の中にぶわっと広がり、思わず口角が上がる。
「美味しい~。ほっぺたが落っこちそうです」
「そうだな。すごく旨かった。次に会ったときに礼を言っといてくれ」
「はい! わかりました」
ルカさんの満足そうな笑顔を見て、わたしは細かいことを気にしないことにした。ルカさんとひと時でも、普通の仲間のように同じ価値観を共有できた。そのことはわたしにとって喜ばしいことであり、何も不満に思う必要のないことだったから。
「ルカさん。最後にちょっとだけ、いいですか?」
パイを食べ終えたわたしは、ルカさんを引っ張って大通りを上って行った。とても幸福な気分だったわたしはつい調子に乗って、これ以上の幸福を求めてしまった。今のルカさんとなら、もっといい思い出が作れるんじゃないかと期待してしまったのだ。
後になって考えたら……。この時部屋に戻っていたら、幸福なままこの夜を終えることができていたのにと思う。
しかし、後悔先に立たず。この時のわたしはさらなる幸福の存在を信じ込み、意気揚々とその場所に向かっていったのだった。




