第八章(2)
わたしは、何がなんだかわからない心境になっていた。
何度も頬をつねる。痛い。夢じゃない。夢でも良い。覚めないでくれるなら、夢でも良い。
そう思っていたのだけど、その願いに反して、どんどん状況は現実味を増していく。
ルカさんは例の鉄扉の前で待っていてくれた。
明るいこの部屋で見ると、だいぶ酷い格好だ。着崩れた白いシャツにはインク染みができているし、髪の毛はぼさぼさで、せっかくの端正な顔立ちが台無しである。
「ルカさん、着替えとかはないんですか?」
「ない」
「うーん……まあいいや。後で何とかしましょう」
あまりくどくど言って、ルカさんの気が変わってしまってはたまらない。わたしは、とにかく街に出ることを優先することにした。夢から覚める前に、なんとしても悲願を成就させたい。夜祭をルカさんと回りたい。
「じゃあ、扉を開けるぞ」
ルカさんは、神さまの言葉が書いてある仕掛け扉を慣れた手つきで開く。猫が通るような小さな抜け穴を潜り、わたしたちは忍び足で正教会の正面扉へと向かった。
冷たい鉄扉に耳を押し当て、耳を澄ませる。近くに虫の声、遠くに祭りの歓声が聞こえる。
「大丈夫そうですね」
「開けるぞ」
ルカさんが鉄扉をゆっくり押した。鍵は特に掛かっていないらしく、錆びたそれはひどい金属音を立てながら開いていく。
再び聞き耳を立ててみたけれど、相変わらず虫の声ばかりが聞こえた。辺りに異変はなさそうだったので、わたしたちは階段を登り、地上に頭を出す。
裏庭は真っ暗で、月明かりだけが辺りの輪郭を浮かび上がらせていた。わたしたちは闇に目を慣らすため、あえてランタンを正教会に残して外に出る。通い慣れた道だから、明かりがなくても迷わない自信があった。
短く刈られた雑草に紛れた石畳を辿り、わたしたちは裏庭をそろそろと進む。幽霊男のベンチに繋がる小道の手前で右に曲がり、大きく禾穂側へ回る。その道の突き当たりに長く連なる石垣があり、いつも通り抜ける小さな鉄の門が固く閉じられていた。
ここまでは想定どおり。わたしたちは石垣に身を隠し、門の格子の間から前庭の様子を窺った。
門のすぐ内側にはマーリンの薔薇園があるのだけれど、昼間と違ってそこは真っ暗で閑散としている。せっかくの薔薇園なのだから夜間も楽しみたいという声もなくはなかったけれど、薔薇が傷むからライトアップはやめてほしいとマーリンが嘆願したとかで、その計画は進まなかった。
そのおかげで、わたしたちはこっそり抜け出すことが出来るわけで、マーリンには感謝の気持ちでいっぱいだ。
正教会と同じく古めかしい石垣は、頭ほどの大きさの石が積み上げられただけの簡素なもので、登るための足掛かりもたくさんあるし、何より高さがあまりない。ただの邪魔な障害物といった感じで、これを乗り越えることに些かの不安も感じなかった。
まずはルカさんが壁に登り、向こう側を窺う。大丈夫だという合図を受けてから、わたしも軽々とそこを乗り越えた。
中に入っても薔薇園の様子は変わらず、昼間には多くの人を惹き付けていただろう見事な薔薇のゲートも、寂しそうにぽっかりと口を開けているだけだった。
きっと昼間に訪れたら、いい雰囲気で散策ができただろうに。ルカさんが薔薇に興味を持つとは思えないけれど、そんなルカさんに愚痴を言いながら歩くのでも、きっと楽しいだろう。
真っ暗な中をこそこそ通り抜けるなんて、まるで盗人のようだ。ふたりきりの散策としては、流石に物足りなさすぎて溜め息が出る。
だけど、王城の左塔の角を曲がり、正門が目に入るところまで来ると、わたしの憂いの気持ちなんて、あっという間に霧散してしまった。
光の群れが、わたしの目を刺す。
あまりの眩しさに目を細めたわたしは、おぼつかない足取りのまま開かれた正門へ向かう。
正門にはふたりの衛兵が立っていたけれど、彼らは人形のように微動だにせず、目の前の白猫の群れを羨ましそうに眺めていた。
わたしたちは僅かな人通りに紛れて正門を抜ける。薔薇園以外にも散策スポットはあるので、この門はフリーパスなのだ。衛兵も面倒なので、いちいちすべての人の身分を確認したりしない。
あまりにも都合の良い状況が重なった旅路だった。もしかしたら、このデートは藍猫さまに許されているのかもしれない。そんなことを考えながら、わたしはついに念願の夜祭の地に降り立った。
正門の先、緩やかに坂を下った場所にあるのは大教会前広場。普段は何もない広場なのだけれど、祭りの時には沢山の露店が並び、沢山の人たちが行き交っている。
飲食用に設けられた簡易のテーブル席で宴会をする猫たち。開けたスペースで踊りや音楽に興じる猫たち。露店に群がる猫たちに、商機を逃すまいと声を張り上げる売り子の猫たち。
ロープに結われたランプが街灯から無数に垂れ下がり、あたりはまるで光の雨が降っているように幻想的だった。
「きれい……」
教会のてっぺんから見下ろす夜景も素敵だったけれど、こうやって下から見上げる夜景はさらに魅力的だ。わたしはついうっとりとしてしまったけれど、街路の真ん中で立ち止まっていたら行き交う猫たちの邪魔になる。
「ルカさん、あっちへ行きましょう、あっち」
わたしはルカさんのシャツの袖を引いて、大教会前広場を抜けていった。坂道をさらに下ると貴族区前広場があり、再び露店と白猫たちがたむろしている。
わたしは禾穂側の貴族区正門前へと向かった。確かあのあたりには、お忍びで出かける貴族たちを対象にした貸衣装の露店が並んでいたはずだ。
わたしは顔見知りがいないことを確認してから、あまり客のいなさそうな店を選んで入った。
「あの、すみません。猫の耳と尻尾を借りたいんですけど」
「いらっしゃい。好きなのを選んでいってよ!」
暗幕で仕切られた店内には、天井からさまざまな模様や形の猫の耳がぶら下がっていた。じっくり吟味したいのは山々だったのだけど、あまり長居すると店員さんに怪しまれてしまう。わたしは近くにあった、シルバータビーの標準的な形のものを選び、ルカさんの頭にのせた。
「か、可愛いですよ! ルカさん!」
「なんだこれ……こんなの被らないといけないのか?」
「被らないといけないんです。この尻尾も付けないといけないんです!」
「…………」
「わー! 可愛い!!」
心底嫌そうなルカさんには悪いけど、目の前に現れた不機嫌そうな白猫に、わたしは黄色い声を上げてしまった。
わたしも目の前にあった、綿毛のようにふわふわな純白の耳を手に取り、頭に差し込む。
「これにします。二組でおいくらですか?」
「一日レンタルなら二シウスだよ」
「購入ならおいくらですか?」
「一グリスだね」
わたしは返却のために再来店するのが不安で、購入することを選んだ。革袋から銀貨を一枚取り出し、店員に渡した。
「まいどあり。ところでお客さんたち、耳はないのに立派なカツラを付けているんだね……」
「はい! 我が家に代々伝わる秘伝のカツラなんです! ねえ、お兄ちゃん!」
わたしは適当なことを口走り、怪訝な店員さんの視線を振り切るようにして店を飛び出した。
「本当は服も着替えたかったんですけど、仕方ないですね」
「なあ、この耳と尻尾、絶対に必要なのか……?」
「必要です! これがないと、お祭りで浮いちゃうんですよ」
わたしが断言すると、ルカさんは渋々ながらも耳を弄るのをやめた。
お祭りでは、耳と尻尾、白いカツラを付けていない人はほとんどいないけど、服に関しては多種多様だ。さきほどすれ違った仮装の集団なんか、継ぎ接ぎのシャツに赤い染みを付けていたりしたし、わたしたちのこのラフすぎる格好も、きっと仮装か何かだと思ってもらえるだろう。
「ルカさん、お腹とかすいていませんか? わたしは夕餉が豪勢だったので全然平気なんですけど」
「別に、すいてない」
「お金ならたくさん持っていますから、好きなものがあったら遠慮なく言ってくださいね! 奢りますから」
「今夜は、お前の母ちゃんへの贈り物を探しに来たんだろ?」
そうなんだけど。せっかくだから、ルカさんにもお祭りを楽しんでもらいたかった。
広場と広場を繋ぐ大通りだけでなく、今わたしたちが歩くこの小さな通りですら、惜しみなく降り注ぐ光の雨。昼にも劣らず活気のある商店街に、駆け回る子猫たち。
ルカさんは、この光景にワクワクしないのだろうか。
わたしの一番古い記憶のひとつに、エリスフェスタにまつわるものがある。母さまと姉さまに手を引かれて露店を回ったわたしは、「一つだけ好きなものを買ってあげる」という母さまの提案に、ひどく頭を悩ませたのだった。そのとき何を選んだのかはよく覚えていないけど、ずいぶん姉さまに笑われたことだけは覚えている。
それから毎年、わたしは姉さまや他の誰かとお祭りに繰り出した。毎年毎年、大きく内容が異なるわけでもないのに、何度参加しようと胸がうきうきするのが、このお祭りだ。
何事にも無関心なルカさんだけど、さすがにこの光景を目の当たりにすれば、心を動かしてくれるんじゃないかと思っていた。思っていたのだけど。
「もしかしてルカさんは、お祭りに参加するのは初めてじゃないんですか?」
未だに浮かない顔の彼に、わたしはそう尋ねた。
一度だけ一緒にお祭りを回ってくれたばあやが、ちょうどこんな顔をしていたのを思い出したのだ。
彼女はその時、「さすがに飽きてしまったのです」とこぼしていた。
もしかしたらルカさんも、飽きるほどお祭りに参加した経験があるのかも? もちろんエリスフェスタではないだろうけど。
わたしの問いにルカさんは、黒い瞳にいくつかの光を映して、ぼそりと呟いた。
「“ルカは”、初めてだろうな」
「“ルカは”? 」
奇妙な言い回しだ。ルカさんが初めてなら、普通に初めてだと言えばいいのに。その答えはわたしの心に引っかかったけど、彼が変わったことを言うのは、今に始まったことじゃない。
「初めてなら、ぜひとも体験してほしいことがあります!」
気を取り直したわたしはそう宣言して、無理やりルカさんを一軒の露店の前に引きずっていった。
「これです! これ、不思議でしょう? 綿みたいにふわふわなんですけど、お菓子なんですよ、これ」
昼間にローダさまも驚いていた、コットンキャンディのお店だ。数年前に旅の菓子職人さんが店を開いてから瞬く間に話題となり、今ではお祭りの定番ともなったお菓子だ。
夜にもかかわらず店の前には大勢の子どもたちが群がっていて、店員さんが木の棒に雲を作っていく様子を珍しそうに眺めている。
「あれ、何でできていると思います? なんとですね~」
「知ってる。飴だろ?」
「え? どうして知っているんですか?」
「似たようなものを見たことがある」
そっか。わたしはしょんぼりした。アピスヘイルでは珍しいけど、都の外ではそれほど珍しいものでもないのかもしれない。
それなら、とわたしは数軒向こうにあったホッピング・コーンの店を指さして言った。
「じゃあ、あれはどうでしょう。不思議でしょう? フライパンの上で飛び跳ねているあれは、普段わたしたちが食べている穀物なんですよ!」
「コーンだろ。知ってるよ。ポップコーン」
「ホッピング・コーンですよ」
わたしはがっかりした。ローダさまのようにルカさんがはしゃいでくれることを、わずかながら期待していたからだ。依然としてルカさんは、不機嫌そうに食べ物の露店から目を逸らしている。
そのとき、わたしははっとした。自分が愚かな振る舞いをしていることに気が付いたのだ。立ち並ぶ露店を横目にゆっくりと歩きながら、わたしは反省の言葉を口にする。
「ごめんなさい。わたし、初めての夜祭だったから、ついはしゃいでしまって」
しかも隣にいるのは格好良い男の子だ。夢にまで見た光景に、気分が高揚してしまうのは仕方がないことだと思う。
でもルカさんにしてみれば、母さまの贈り物を選びたい一心で夜祭に降り立ったはずのわたしが、目的を忘れて露店遊びをし始めたように映る。わけがわからなくて、ひどく困惑したことだろう。
ルカさんは、肩を落とすわたしを気遣うように言った。
「別にはしゃいでくれるのはいいんだが。今夜はもう、あまり時間がないだろ?」
「そうですね……」
わたしは夜景にぼんやりと浮かび上がる長塔の永久時計を見た。すでに夜の九時を回っている。お祭り自体は一晩中やっているけど、露店のほとんどは十二時を過ぎると閉まってしまう。深夜にも店を開けているのは一部の飲食店だけだ。
「どんなものがいいでしょう。申し訳ないんですが、わたし、まだあまり狙いが定まっていないんです」
頭を垂れて、わたしは正直に事実を述べた。呆れられるかと思ったけど、今日のルカさんは妙に優しい。腕を組み、思案するように顎に手を当て、こう尋ねてきた。
「大体でいいんだが、どんなものをイメージしているんだ? 例えば、形に残るものがいいのか、残らないものがいいのか」
「そうですね。本当は形に残るものがいいんですけど、取り上げられてしまうかもしれないから……」
「取り上げられる?」
「はい。以前お話ししましたよね? この国には前の白子の記録が残っていないと。恐らく白子が旅立った後、白子にまつわるものはすべて捨てられてしまうのだと思います」
「なんだそりゃ」
「多分ですけど、神官になった白子を崇めないようにしているんだと思います。藍猫さまだけを信仰しないといけないわたしたちが、神の仲間入りを果たしたサリーさまたちを崇めてしまうと、色々問題があるのでしょう」
ルカさんはわたしの意見を聞き、眉をひそめた。
「随分勝手な話だな。お前たちはこの国の奴らのために藍の都とかいう所に行くんじゃないのか? お前のものを全部捨てるなんて、恩知らずが過ぎるんじゃねぇか」
「仕方がないですよ。そう決められているんですから。わたしはその事は特に気にしません」
「…………」
ルカさんは不満そうだったけど、わたしは構わず話を続ける。
「もし形のあるものを渡して、主教さまに取り上げられてしまったら母さまは悲しんでしまうかもしれません。そうでなくても、これから数十年の年月の間に、それを無くしたり壊したりした場合に彼女が傷つくことになったら嫌なので、形に残らないものの方がいいのかもしれません」
「そうか。なら、すぐに消費してなくなるものか、そもそも形のないものがいいんだな?」
「そうですね。そういうことになります」
ルカさんは周囲の露店を見回し、すぐに一方を指さした。
「あれはどうだ? 消費してなくなるものと言えば、食べ物だな。食べ物はどうなんだ?」
「そうですね……」
彼の指さす方向には、わたしが昼間買おうか悩んでいた猫のアイシングクッキーの露店も見えた。
「食べ物はイメージと違います。あまりにもすぐに無くなってしまうし、味もそれほど記憶には残らないでしょう。露店に並ぶような食べ物は、出来立てを食べないとそれほど美味しくありませんからね」
「なるほど。形が無くなっても相手の記憶に強く残せるようなものがいいんだな」
「はい。できれば非常に良い印象を残せるものがいいですね」
ルカさんは真剣な様子で露店を見て回る。わたしは申し訳なさを感じながらも、彼にすっかり頼り切ってしまっていた。ルカさんなら良いものを思いついてくれると、信じてしまっていた。
「あれはどうだ? 食べ物ほどすぐには無くならない」
ルカさんが次に指さしたのは、お花屋さんだった。小ぶりのブーケを売っているお店で、一つ一つグラスに差されたそれが机を埋め尽くし、お花畑のようになっていた。
「可愛いですね。確かに生花なら、手頃でいいかもしれません」
重たすぎる思いを差し出されたら、母さまは受け止めきれずに困ってしまうかもしれない。花束はその見た目の豪華さに反して、伝わる思いはふわりと軽く、受け取る側に負担を与えづらい。
だけど、わたしは首をひねった。
「でも、お花もやっぱりすぐに忘れられてしまうんじゃないですかね。枯れたものを処分するときに、悲しい気持ちになってしまうかもしれませんし」
「何か花にまつわる思い出はないのか? 母ちゃんが好きな花とか、お前が覚えていることをアピールしたら、印象的な伝わり方をするんじゃないのか」
「なるほど……」
その発想はなかった。母さまのことをわたしが今でも大切に思っていることが伝えられたなら、きっと母さまはわたしに良い印象を抱いてくれるだろう。
「残念ですけど、母さまの好きな花は覚えていません。だけど香りなら……。確か、エーデルリウスの香りが好きだと言っていたような気がします」
姉さまと生家の庭で遊んでいた時に、姉さまがエーデルリウスの花を見かけてそう言っていた。ふたりで花を集めて乾燥させ、香り袋を作って母さまにプレゼントしたこともあった。母さまがそのことを覚えているかはわからないけど、覚えてくれていたらすごく嬉しい。
わたしの言葉を受けて、ルカさんは一緒にエーデルリウスの花を探してくれた。だけど、この花はいわゆる雑草である。お花屋さんで見つかるわけもなかった。
それならばと、お香や香り袋、紅茶など関連のものを探したけど、やはりない。似たような匂いのものはあっても、記憶にあるあの匂いとはまったくの別物だった。
「五感に訴えるのはいいかもしれないな。他に何か覚えてないのか? 匂いじゃなけりゃ、触ったものとか、聞いたものとか」
「触ったもの……聞いたもの……」
わたしは必死で記憶をたどりながら、露店をさまよい歩いた。
――ルカさんが良い贈り物を考えてくれる。
そんなふうに他人事のように思っていた、つい先ほどまでの自分を叱り飛ばす。
贈り物をするのはわたし。いい思い出を作りたいと思っているのも、わたしなのよ。
なにかいいアイデアはないの?
塔の時計が十一時を指す。もはや一刻の猶予もない。
そのとき、わたしの目は、とある露店の商品に釘付けになった。
「どうした?」
「いえ、ちょっと……見覚えのあるものが目についたので……」
わたしが手に取ったのは、木彫りのひよこがついた子供用の笛だった。
どこかで見たことがあるなあと記憶をたどると、すぐに姉さまの、いじわるな笑顔が思い起こされた。
『カノンったら、こんなおもちゃを買うの? やめておきなさいよ』
『やだ、カノン、これがいい!』
『こんなの、すぐ壊れてしまうわよ。こっちの髪飾りの方が可愛いわ』
『やだやだ、ひよこさんがいい!』
そうだ。初めてのお祭りで、「ひとつだけ好きなものを買ってもらえる」と聞いたわたしが選んだのは、これだった。
姉さまにさんざん馬鹿にされながらも、握りしめて離さなかったひよこさんの笛。
その笛はちゃちな作りだったからすぐに壊れてしまったけれど、とても綺麗な音がしていたことを思い出した。
「これ、わたしが初めてお祭りに出かけたときに、母さまが買ってくれた笛に似ています」
わたしがそれを見つめていると、店員さんが嬉しそうに話しかけてくる。
「お嬢ちゃん、それは小さな子供用の笛だからね。お嬢ちゃんにはこっちが良いよ」
そう言って、彼は首にかけていた手のひらサイズの笛を吹き鳴らした。
澄んだ音に、心が洗われるような気分になる。
「とても良い音ですね! それはなんという笛ですか?」
「パルフィートっていうんだ。外国の工芸品でさ、黄木っていう高価な木から作られてるんだ」
その笛は、穴の開いた長さの違う木の筒が数本並んだ形をしており、平らにそろった片側から空気を吹き入れて音を奏でるものらしい。
「わたしにも吹けますかね?」
「コツさえつかめば簡単だよ。吹いてみるかい?」
「はい!」
お兄さんに教えてもらって数分練習しただけで、わたしの手元からも涼やかな音色が響き渡った。
「お嬢ちゃん、上手いねぇ」
「上手じゃねえか」
「えへへ。ありがとうございます」
二人に褒めてもらい、わたしは上機嫌になる。
ついでに、ごく簡単な曲を演奏してみた。
「いい曲だねぇ。何て曲だい?」
「わたしの家に伝わる子守唄です。『ゆりかごの歌』というんですよ」
「へえ。素敵だねぇ。お母さんに歌ってもらっていたのかい?」
「はい、そうなんです。思い出の歌です」
わたしはもう一度笛を吹いて、その音色を体に染み込ませる。
この小さな笛だと音階が足らず、思い出の曲のごく一部しか演奏できない。けれど、わたしの心はもう決まっていた。
これだ。きっとこれなら、いい思い出が作れそうだ。
「ルカさん、わたしこの笛にします!」
「よかったな、良いのがあって」
「はい! ありがとうございます!」
わたしはその笛の値段――二アリス――に仰天したのだけど、この素晴らしい音なら仕方ないと思って、迷わず袋をひっくり返した。
「母さまのところじゃなくて、わたしの手元に遺せばいいんです。きっと主教さまも、わたしの持ち物まで取り上げたりはしないでしょう」
明日一日練習して、もっと上手くなってから母さまに聞かせよう。
ついでに、ひよこの笛の話もしよう。
母さま、覚えてくれているかしら。




