第八章(1)
それでもわたしは着替えを済ませてルカさんの部屋へと向かった。
昨日は行かなかったから、今日は行かないと。前回ルカさんに宿題を出すのを忘れてしまったし……。きっとルカさんはわたしの異変なんて気にもかけていないだろうから、気まずいなんて思うだけ無駄である。いつものようにフラっと入り込めばいいだけだ。
この日もランディスさまは来られなかったのだろう。チョークの粉は舞っていなかったものの、今度は真っ黒になった紙が床一面に散らばっていた。この人、一体何時間机に向かっているのかしら。わたしは一枚を手に取り、ほとんど白い所が見えないくらい真っ黒なことを確認して思った。……うん。間違いなくほぼ一日中、休みなく書き続けているわね。
もちろん普通の人間なら、指の皮がむけ、指の関節が固まるほどの拷問だろうけど、ルカさんの場合は違う。彼の指がボロボロになっているところなんて見たことがないもの。皮が剥けるより前に元に戻ってしまうんだわ。
背後で音がすることに気が付いたのか、ルカさんが振り返ってきた。
「わからないところがあるんだ」
「どこですか?」
「この本の、この文字はなんて読むんだ?」
「ああ、これは旧字体ですが、"古代"という文字です……」
ルカさんの部屋には意外とたくさんの本があり、この間の幼児向けの本で自信を付けたルカさんは、どんどん難しいものに手を付けているようだった。
床一面のエガキの書き取り以外にも、読書までしているなんて。一体どれほど勉強が好きなの、この人。呆れ返りつつも、わたしは彼の話に耳を傾けた。
「旧字体とかいうのは厄介だな。新字体と全然違う形じゃねえか」
「そうですね。エガキの旧字体は、神さまの言葉から変化した文字と言われています。だから複雑で難読です。印刷もしにくいので、今では古い本にしか使われていません」
「神さまの言葉から変化?」
「はい、そうです。わたしたちの文字は、″古代文字″とも言われる神さまの文字から、人にも読めるように変形されることにより作られました。藍猫さまから文字を学んだ神官さまが、人にも読めるようにと工夫されて作ったのが今の″旧字体″と呼ばれる『エガキ』です。
さらにアピスでは印刷技術の進歩と共に、その旧字体を簡素にし、どんどん印刷しやすい形に改良しています。それがいわゆる″新字体″ですね」
「ふーん……」
ルカさんは手元の本に目を落とし、何かを考えていた。わたしは背表紙を覗き込んで気が付いたのだけど、彼の読んでいる本は、かなり難しい語学の本だった。『文字の成り立ち』と題されたその本は、確か修道院で推薦されている補助教本のリストに並んでいたはずだ。わたしは特に語学に興味があるわけではなかったのでまだ読んだことはないけど、そもそも補助教本というのはやたらと学術的で難しく、使われている旧字体の数も多い。少なくとも、おとといまで幼児向け絵本を読んでいた人が軽い気持ちで読めるような本ではない。
ルカさんはしばらく本の文字を追っていたのだけど、思い立ったように黒板を引っ張り出し、そこに何かを書きつけた。そしてわたしにそれを見せて、こう問いかける。
「これはなんて読む?」
「″藍猫″ですね」
ルカさんはその下にもう一つ単語を書いて、わたしに見せてきた。
「じゃあこれは?」
「"白"ですね。白子の白」
ルカさんはその右にもう一つ何かを書いて、再び黒板を翳す。
「これは?」
「ごめんなさい。読めません」
最後の文字は、いわゆる神さまの文字のようで、わたしの目にはぼんやりとしか映らなかった。
「ふーん……」
「なんですか? 一人で納得しないでくださいよ!」
わたしの抗議に、ルカさんは黒板を手元に戻す。そして各々の単語の横に、ツヅリでなにやら書きつけた。
「最初の文字は、″ランビョウ″。これはお前の言った通り。次の文字は″ハク″。確かに白子の白と同じものだが、読み方が違う。そして最後の文字は″――″」
「え? なんですか?」
「″――″。そうだな、こっちの言葉で言うと、″かみさま″ってところかな」
「はあ……そうなんですか」
わたしはルカさんが何を確認しているのかが分からずに、気のない返事をしてしまう。だけど、相手はルカさんである。次の瞬間にはとんでもない事を口走り、わたしの度肝を抜いてきた。
「この文字は全部『神さまの文字』で書いた。"藍猫"、"白"というのは古代文字から変化していないんだな」
「えっ?!」
わたしは再び黒板を見る。何度目をこすってみても、その字は″藍猫″であり、″白″である。そして最後の文字は読めない。
「"藍猫"そして白子の"白"は確かに旧字体です。というか、神事に関係する単語のいくつかには新字体が存在しません。神聖な文字ですから、旧字体をそのまま使っています」
「旧字体じゃない、これは古代文字だ」
「……そうなんですか」
「そうみたいだな」
確かに、神聖な文字というのは旧字体の中でも特に古くから使われていると聞いたことがある。古代文字と変わっていなくてもそれほど驚くことでもないのかな?
わたしの驚きのハードルは、ルカさんと接しているうちに随分と上がってしまったらしい。わたしはその新事実を淡々と受け止め、続く言葉を見失った。
ルカさんはしばらく興味深そうに本を読んでいたけど、妙に静かなわたしに気が付いたのか、ちらりとこちらを見て呟く。
「どうした? 今日は嫌に静かだな。腹でも痛いのか」
「いえ……別に、そうではないんですけど」
「…………」
「…………」
沈黙が耳に痛い。マイペースに本を読んでいるように思えていたルカさんだけど、どうやらそうでもないらしい。ページを捲ろうと構えた指を遂に本から離して、こちらに上体を向けて言った。
「どうした、何か話せよ。静かだとなんか気持ち悪いだろうが」
「気持ち悪いって……」
もしかしてルカさん。勉強のやりすぎで、ついに飽きてしまったのかしら。
勝手な人だわ。わたしに興味を持ってみたり、突き放したり。どうせまた話の途中で飽きて投げ出して、読書に戻ってしまうんでしょう? そうは思ったものの、変な空気を醸し続けるのも本意ではないので、わたしは昨晩から頭の中を渦巻いている悩み事を口にした。
「実は、昨晩主教さまがわたしの部屋に来て、母さまに会わせてくれると言ってきたんです。おととい話したじゃないですか、わたしの人間の母のイリアさま。彼女に明後日会うことになったんです」
「良かったじゃねえか。好きだったんだろ? 人間の母ちゃん」
「はい、もちろん嬉しくて、わたし、何か贈るものを用意しようと今日は一日中街を探して歩いたんです。でも……」
「でも?」
わたしは目を伏せて、浮かんできた涙を長い前髪で隠しながら、続きの言葉を絞り出す。
「見つからなかったんです。何を贈っていいか分からなくて」
鼻の奥がツンとして、我慢していた何かが溢れてくる。わたしの目からはポロポロと水滴が零れてきて、もはや誤魔化しようもなくわたしの膝を濡らしていった。
「わたしね、母さまに会いたくて会いたくて。八歳の時にこの白子の部屋に住まわされてから一度も会っていなくて、会いたいって言ったら叱られて。ずっとずっと我慢してきたんです」
「…………」
「急に会ってもいいと言われて戸惑って、でも会えるならと喜びでいっぱいだったんですけど、もしかしたら次に会うのが最後かもしれない。それに、八歳の頃から一度も会っていないんです。母さまはすっかり変わってしまっているんじゃないかという不安もあって、色々なことがぐちゃぐちゃになってわけがわからなくなっているんです」
「………………」
「それでも良い贈り物が見つかったら、自然と不安もなくなるんじゃないかと期待して……今日一日街を回りましたが結局見つからなかった。却って不安は大きくなるばっかりで、もう、わたし、どうしたらいいか」
わたしの口は堤防が決壊したように不安の言葉を噴出する。ルカさんが何も言わないものだから、わたしはどんどん制御が効かなくなっていった。こんなことを聞かされてもルカさんは困ってしまうだろう。だけど、一旦流れ出てしまったものはもう元に戻らない。
「ごめんなさい。わたし、その、こんなつもりじゃなくて。あの、大丈夫です、まだ明日があるから、明日どうにかすればいいから……」
笑顔を浮かべようとして上手くいかなくて、わたしはぐしゃぐしゃになった顔をルカさんに晒してしまった。涙で霞んだ視界では、彼の顔は確認できなかったけど、きっと困惑しているだろう。
駄目だ、今日はもう帰ろう。部屋で落ち着いて考えよう。わたしが席を立とうとしたとき、ルカさんはぼそりとこう言った。
「……そんなに心配しなくても、大丈夫だろ」
「…………?」
ルカさんは、近くにあったシーツをわたしの胸に押し付ける。涙を拭けということかしら。わたしは遠慮なくそれで顔を覆って、散らかった顔を整える努力をした。
その間も、ルカさんは静かに話を続ける。
「別に贈り物なんてなくても、相手は何も思わねぇよ。お前がどうしても贈りたいんなら、贈れば良いと思うが……」
「…………」
「泣くんじゃねぇよ。母親ってやつは頑丈なんだ。何も心配しなくても大丈夫だ!」
もしかしてルカさん、わたしを励まそうとしてくれている? 彼の話は断片的すぎてよくわからなかったけど、わたしの不安を取り除こうと尽力してくれているのはわかった。その気持ちが嬉しくて、わたしの心はじんわりと暖かくなる。
「あの、ありがとうございます……。なんだかちょっと落ち着いてきました」
「そうか。良かった」
ルカさんは一瞬だけ笑顔を見せて、再び机に視線を戻した。
ルカさんってよくわからない。冷たい人なのか、優しい人なのか。わたしがぼんやりと彼の背中を眺めていると、彼は本の頁を捲りながらこんなことを呟いた。
「何を贈れば良いかなんて、わかんねぇのが当たり前だよ。だから、何を贈れば良いかじゃなくて……"何を贈ったら良い思い出になるか″を考えたらどうだ?」
「良い思い出……」
それはさんざん考えていた。イリアさまの記憶に残るように。イリアさまに良い思い出を残してもらえるように。わたしはイリアさまのことばかり考えて贈り物を選んでいた。
だけど、ルカさんが言いたいのはそういうことではないらしい。
「相手のことなんてどうでもいいんだよ。大事なのは、自分がどう思うか。″自分の記憶に良い感情を残せるか″だ」
「わたしの記憶……ですか?」
「お前の記憶、だよ」
きっぱりとそう言われて、わたしは目から鱗が落ちるような心持ちがした。
今日一日わたしはイリアさまのことばかり考えて、自分のことなんてほとんど考えていなかった。"わたしの思い出にする″という観点では選んでいなかった。
「人がどう思うかなんて、いくら考えたってわかんねぇよ。自分がどう感じるかを考えて、物を選んだ方がまだマシだ」
「確かにそうかもしれません……」
わたしが、イリアさまにあげたいもの。イリアさまと分かち合いたいもの。そういうものを選べば良かったのかしら。そういう視点なら、良いものが見つかるかもしれない。もう一度商店街を散策すれば、素敵なものに巡り会えるかもしれない。
だけど……。わたしは目線を落とす。
そのアドバイスは、わたしには遅すぎた。わたしはもう、商店街に行く機会がないだろう。明日はククルもお仕事だと言っていたし、今から誘える人は他にはいない……。
「………………」
再び沈黙に包まれる室内。ルカさんはわたしの様子が気になるようで、何度かこちらを振り返った。なかなか調子が戻らないわたしにしびれを切らし、再び声を掛けてくる。
「まだ不安なのか?」
「いえ……そういうわけじゃないんです。ただ……」
「ただ?」
わたしは僅かにためらったあとに、口を開いた。
「わたし、明日はお祭りに行けないんです。プレゼントを買いに行きたくても、行けないんです。誰にも誘われていないですから……」
「一人で買いに行けないんだったか」
「はい。わたしは教会区の外には一人では出られないんです。一緒に行ってくれる人がいないと無理で……」
「ふーん……その祭りって、夜はやっていないのか?」
「やっていますよ。ほとんどのお店は深夜まで営業しているみたいですね。わたしは日没が門限なので、夜祭には行ったことがないんですけど」
ルカさんは少し考えるように天井を見上げると、何気なくこんなことを言った。
「じゃあ、これから行くか?」
「え?」
あまりにも何気なく言ったので、わたしは素頓狂に聞き返してしまう。
「今、何て……?」
「これから、その夜祭ってやつに行こう。お前の母ちゃんへの贈り物を買いに行こう」
「…………」
わたしは自分の耳が信じられなくて、思い切り耳たぶを引っ張った。痛い。ついでに頬もつねってみた。痛い。
「なんだよ、俺と行くのが嫌なのかよ」
「そ、そんなことはありません! で、でも、どうやって……」
わたしは自分がルカさんと同じことを言ってしまっていることに気が付いた。なによ、わたしは自分が傷ついた言葉をルカさんに言ってしまうわけ? 両頬を叩いて自分を戒める。
当然だけど、ルカさんは特に傷ついた風もない。彼はあまりにも淡々と、妙案を提示してきた。
「テオドアが通った抜け道が、本当に使えるのか試してみてもいいんじゃねえか?」
「……地下の正教会から裏庭に出る道ですか?」
「そうだ」
わたしは頭の中でルートを思い浮かべる。あの裏庭は、お城の裏側にある。お昼間は裏庭から前庭へ抜ける門が開かれているけど、その門は夜間には封鎖される。門を抜けるとマーリン自慢の薔薇園があるけど、夜間は真っ暗なので人通りはほとんどないだろう。
お祭りの期間中は、前庭は特に施錠されず一般都民向けに開放されているので、裏庭の門をひとつ乗り越えることさえできれば、夜祭会場へは問題なく行けそうだ。
「わかりました、その道を使ってみましょう。でもちょっと待ってください! 今のわたしの顔は酷いし、服だってこんなので、耳も尻尾もありません」
「顔? 別に普通だろ。服も適当でいいだろ、夜だし」
「夜と言っても明るいんですよ。導きの水をたっぷり使ってライトアップされていますから。とりあえずお金さえあればなんとかなるかな……」
「金?」
「ええ。お財布を取ってきます。下の部屋で待っていてください! すぐにわたしも向かいます!」
わたしはそう捲し立てて、慌てて部屋まで舞い戻る。鏡の前で髪の毛を直し、最低限の身だしなみを整え、貨幣の詰まった革袋を掴んで再び穴に飛び込んだ。




