第七章(1)
エリスフェスタは盛大で、神聖なお祭りだ。藍猫さまも開催を楽しみにしているんだろう、毎年この時期になると嘘のように雨が止んでしまう。
それは衰退の節でも例外ではないようで、エリスフェスタの前夜祭がある今日、空は雲一つない快晴。久しぶりに吹くさわやかな風に、主教さまは気持ちよさそうに大きく深呼吸をした。
「主教さま、明日からエリスフェスタですね。準備の方は、いかがですか」
今日は七月一日、夏季初めのラピス・ユニアン。正礼拝のためにわたしは正装をまとい、オズワルドさまと王城の裏庭へ向かっていた。
「雨の影響で青の道が増水していまして、船の運行に障害が出ています。物資がいくつか届いていないのと、来賓の方が数人到着されていませんが、大した問題はないでしょう。中央広場に若干の水たまりができてしまっているので、″白猫たちの演舞″を二日目に移動させようと思っています。今のところ、トラブルはそのくらいですよ」
「そうですか。大きな問題はないみたいで、良かったです」
主教さまはお忙しい。エリスフェスタのような古くからある特別な神事は、大教会秘蔵の『ラウドさまの指示書』に則って執り行われるそうなので、メインのプログラムの進行、会場の設営などは主教さまが直接指示・監督しないといけない。
オズワルドさまが主教になられてから、もう十数年が経つ。エリスフェスタを指揮されるのも十数回に及ぶため、少々のトラブルには慣れておられるだろうけど……。
今回は衰退の節に入ってから初めてのエリスフェスタ。さすがに長雨の影響によるトラブルはあまり経験がないから、これからきっと目が回るほどの忙しさになるだろう。
心なしかふらつく足取りの主教さまの背中に、わたしはおずおずと声をかけた。
「オズワルドさま。あの、一つお伺いしたいんですけど」
「なんですか? カノン」
主教さまは普段と同じ柔らかい笑顔を浮かべている。これなら大丈夫かもと思い、わたしは思い切って訊ねてみた。
「姉さ……いえ、シノンさんのご様子はいかがなのでしょうか。その、ずっと修道院を休まれているので、心配で……」
主教さまは、わたしがシノンのことを"姉さま"と呼ぶのを嫌う。慌てて言い直したけど、一瞬彼が眉を顰めたのが容易に見て取れた。
「シノンはまだ元気がないですね。ですが、婚約者のイザク君のお陰で少しずつ元気を取り戻しているようです」
「そうですか」
姉さまがアピスヘイルに戻っていることは確かなようだけど、わたしはまだ会いに行けないでいた。姉さまは修道院の寄宿舎には帰ってこず、貴族区にあるアピスリム家のお屋敷に引きこもっていたからだ。
アピスリム家はわたしの生家だけど、わたしは生家と関りを持つことは禁止されている。家の周りをうろついているのがバレたら、ばあやから大目玉を食らってしまう。
「シノンの体調不良はどうやら身体的なものではなく、精神的なもののようです。カノンは彼女から何か聞いていませんか?」
わたしはぎくりとしたけど、努めて冷静を装って答えた。
「いえ、何も……」
「……そうですか」
主教さまはそれ以上詮索はせずに、無言で足を進める。わたしは後に続きながら、考えた。
姉さまにテオドアの手紙を渡すつもりだったけど、もし姉さまがこのままイザクさまの励ましで元気を取り戻すのなら、渡さないほうが良いんじゃないかしら。テオドアの想いが籠ったあの手紙を読めば、姉さまは彼への気持ちを思い出し再び元気をなくしてしまう。
テオドアはこれ以上、普通の人間である姉さまに干渉すべきではない。
正教会へ続く階段を降り、わたしたちが到着したことを告げると、内側から重たい鉄扉が開かれる。天井から垂れ下がる燭台しか明かりのない室内は、相変わらず薄暗く、不気味だ。
先に到着していたアルベルト派の面々の横を通り過ぎるとき、わたしはちらりとルカさんの方を見た。相変わらず顔を見せず、俯いたままだ。前回と同じで、ランディスさまに睨まれたわたしは慌てて目を逸らす。
……わたしは、この人がテオドアではないことを知っているんだけどね。心の中でぺろりと舌を出し、自分の席に座った。今回はわたしたちの後から王さまが入室され、慌てた様子で席に着かれた。
「皆様お揃いになりましたので、これより夏季の正礼拝を開始いたします……」
いつものように左大臣ユジンさまの進行で正礼拝が始まる。正礼拝は王さま、禾穂の主教さま、羊角の主教さまの順に祈りの言葉を述べる。四季の正礼拝で若干の差はあるけれど、基本的には同じ構成だ。だらだらと長く、正直つまらない。わたしはいつも、眠気を我慢するのに苦労している。
わたしはご神体の周りに目を向けた。ご神体は半円状のくぼみの中心に置かれ、周囲には暗幕が垂れている。あの後ろに隠し通路があることを、この中のどのくらいの人が知っているのだろう。
オズワルドさまはサリーとあの部屋へ行ったことがあるらしいけれど、どこから入ったのかしら。サリーの部屋から入ったのだとすると、″白子と主教さましか入ってはいけない″という規則を主教さま自らが破ったことになる。
サリーがいた頃、オズワルドさまはまだ主教ではなかったはずだもの。
いずれ自分が主教になると知っていたからできたのかしら。それにしても、今の主教さまでは考えられないくらい軽率な行動よね。
主教さまはまだ、姉さまがテオドアと恋仲であることをご存じない。でももし知ってしまったら、どんな思いをされるのかしら。"血は争えない"と思われるのかしら。
主教さまとサリーの関係はわからないけれど、少なくともサリーは主教さまのことを好いていた。主教さまも、一緒に規則を破ろうと思えるくらい、サリーに気持ちを寄せていたのは間違いない。
……まさか、主教さまご自身のことを棚に上げて、姉さまを罰したりはしないわよね?
わたしが意地悪な想像に耽っていると、いつの間にか宣誓の時間が訪れていた。わたしが前に出ると、ランディスさまがまた不平を口にする。
「テオドアの病は、まだ完治しておらん」
主教さまは軽くため息を吐き、面倒そうに言った。
「わかっています。宣誓はカノンだけで結構です」
前から思っていたけれど、ここにいるみんな、テオドアが違う人に変わっていることを知っているかのような落ち着きようだ。
わたしは居心地の悪さに戸惑いながら、ルカさんと並んでご神体の前に立つ。そしていつものように羊皮紙を広げ、宣誓の詞を読むために口を開いた。
「宣誓、アピス国の白子、カノンとテオドアは…………」
わたしは神さまの文字を見つめ、言葉に詰まる。神さまの文字は相変わらず読めず、ツヅリの読み仮名を頼りにしているのに、喉は発声を躊躇ってしまう。
「……?」
後ろの方で、声にならない戸惑いの声が聞こえた気がした。恐らく顔を伏せたユジンさまが、進行の不手際に不安を覚え、出してしまったものだろう。
わたしはなおも声を出そうとしたけれど、ツヅリが頭に入ってこない。頭の中には、ルカさんが話してくれた翻訳文がぼんやりと蘇っていた。
『あなたにこの心臓を捧げ、あなたの人形となることを誓います』
わたしは目の前の無機質な猫の瞳に恐れを抱いた。水晶でできたその深いブルーの瞳は、まっすぐわたしを見下ろし、宣誓の詞を待っている。
言わなくちゃ。早く詞を言わなくちゃ。
「あー、――、――――?」
焦れば焦るほど、舌が回らず、変な発音が口から飛び出す。わたしは半べそをかきながら必死に発音を続け、どうにかその時間を終わらせた。
わたしが詞を読み終えたように振る舞い、ご神体に深々と礼をするのを見て、主教さまは唖然としていた。奇妙な沈黙がしばらく流れる。主教さまも礼を返し、席に戻ろうと足を踏み出す。
「そ、それでは次の、神酒による神器のお清めを――」
ユジンさまは狼狽しながら進行を再開した。
いけない、やってしまったわ。わたしは自責の念に苛まれ、あとの進行はまったく頭に入ってこなかった。最後まで落ち着かないまま、礼拝は進み、閉会の詞で場は閉じられた。
「申し訳ありませんでした、主教さま」
わたしは教会への帰り道で、謝罪の言葉を口にする。
「わたしも少し、喉の調子がおかしいのかな~って」
わたしはアハハと笑い、主教さまの様子を窺ったけど……彼の顔は、全く笑っていなかった。
「…………」
主教さまは深刻そうにしばらくわたしを眺めた後、踵を返して早足で立ち去る。残されたわたしは、その場に呆然と立ち尽くした。
怒られもしないし、許されもしない。こんな扱いは初めてで、どうしてよいか分からなかった。とぼとぼと教会に戻り、着替えのために待っていてくれたばあやにその事をぼやくと、彼女も険しい顔でわたしを見つめてきた。
「少し手間取っただけよ。ちゃんと言葉は言えたんだから!」
その反応が恐ろしくて、わたしはつい嘘を吐いてしまう。今思えば全然言えていなかった気がするのだけど。わたしの狼狽ぶりに気が付いたのか、ばあやは気まずそうにこう述べた。
「ばあやには難しいことは解りませんが、問題があれば主教さまは何か仰いますでしょうし、問題がなければ何も仰らないでしょう。カノン様は、あまり気にされなくてもよろしいのではないかと」
「うん……そうする」
「それよりも、明日からエリスフェスタですね、カノン様。どなたとお出かけになられるか、お決まりになっておりますか?」
ばあやは無理矢理笑顔を張り付かせて、明るい話題を振ってきた。
「えっと、多分、ククルと回ることになると思う」
「ククルですか?」
ばあやは意外そうな声を出す。
「どうしてまた、このような貴重な機会に侍女などと……」
「いいの! 今年はわたし、ククルと食べ歩きするんだもん。彼女、美味しいお店をいっぱい知っているのよ」
わたしはまだ彼女に約束を取り付けていなかったけど、半ば自棄になって言った。その様子にばあやは何か不満があるのか、口をへの字に曲げる。
「カノン様。大変失礼なことを申し上げますが……」
「え、なあに?」
ばあやは言いにくそうにしばらく口を閉ざした後、意を決したように口を開いた。
「もしかして、カノンさまはシノンと仲違いをされたのですか?」
「え? どうして?」
そんなことを聞かれるとは思わず、わたしはキョトンとする。
「今年のお祭りにシノンと行かないのは、シノンとイザクさまのお時間を邪魔しないようにするためよ?」
「それは承知しております。シノンが体調を崩していることも存じております」
「じゃあ、どうして?」
ばあやはしばらく逡巡した後に、徐に口を開いた。
「近頃カノンさまは、シノンの名前をまったく口になさいません。ごく最近まで、あなたはどこへ行くにも何をするにも姉さま姉さまと仰っていたではありませんか。シノンの体調が悪いことをあなたが心配なされていないのが、ばあやにはどうにも気になって仕方がありません」
「そ、それは……」
わたしは姉さまのお加減が悪い理由を知っている。それはもはやわたしにはどうしようもないもので、姉さま自身が解決するしかないことなのだ。
でもそのことをばあやもみんなも知らない。ばあやたちから見たら、わたしの態度はひどく薄情なものに映ったことだろう。
わたしは秘密を共有するルカさんとの時間を大切にしすぎるあまりに、そのことに気が付いていなかった。
絶句するわたしに、ばあやは静かに語りかける。
「シノンは今、大変つらい時間を過ごしています。そして彼女の周りにいる人間も、同様につらい思いをしております。あなたまでもが落ち込まれることを、わたくしたちは望んでいるわけではないのですが、あなたのあまりにも無関心な様子に首を捻っている者もおります。
ひとりの老婆の勝手なお願いなのですが、どうかシノンのことをもっと気にかけていただきたいのです。彼女を慕うお心を忘れず、お優しいカノン様のままでいらしてくださいませ……」
わたしは着替えが終わってから、お庭の花壇の隅に座って俯いた。ばあやに諭された内容が、胸に深く刺さったままだった。
「わたしが元気でいることを、みんな喜んでくれていると思っていたのになぁ……」
確かにわたしが姉さまのことを全く気にかけていないのは、おかしいわよね。気にかけてないわけじゃないんだけど、あんまり喋ると、言ってはいけないことを言ってしまいそうで怖かったんだよなぁ。
「だけどそれならアイリスやリリムだって、普段はあんなに仲良くしているのに、薄情なんじゃないかしら」
彼女たちは婚約者と楽しいお祭りを過ごす。最愛のテオドアと過ごせない姉さまを放っておいて、彼女たちは幸せな時間を過ごすのよ。
「わたしなんか誰にもお祭りに誘われず、同情してくれた優しい二人の厚意に甘えるだけなんだから。全然薄情なんかじゃないわ。わたしの方が可哀想なんだから、もっとみんな優しくしてくれてもいいじゃない……」
そう吠えてみたけど、分かっている。わたしは薄情な妹だ。そして姉さまを放置してしまったせいで、今自分が寂しい思いをしている。自業自得なのだ。
わたしは大きなため息を吐いた。だけどため息ばかりついていても仕方がない。どう足掻こうとも明日からのスケジュールが変わるわけもなく、薄情な妹のレッテルを剥がせるわけもない。
わたしはローダさまとククルのために、目一杯お祭りを楽しまなきゃならない。それが彼女らの優しさに報いるたったひとつの方法だ。
姉さまの件はまた、お祭りが終わってから考えればいいの。そうでしょう、カノン?
わたしは立ち上がり、ククルの姿を求めて大教会をさ迷った。お庭で洗濯をしていた彼女は、わたしの申し出を快く承諾してくれた。彼女は鼻息を荒くして、「明日の衣装を用意しないと」と意気込んだのだった。




