第六章(5)
わたしは晩餐の食卓につき、ため息を吐いた。
食事の時間には大きなテーブルが大広間に設置され、たくさんの椅子が置かれるのだけど、食事するのはわたし一人。いつもわたしが食べ終わってから、使用人のみんなで食事を摂るのだと聞いているけど、その場面に出くわしたことはない。
いつも食事を持ってきてくれるのはばあやで、わたしが食事の間は終始彼女が監視をしている。わたしにテーブルマナーを叩き込んだのはばあやで、不作法をするとカミソリのような鋭い目で睨まれる。
だけども今日の給仕はククルが担当だったので、わたしはつい食事中にため息をこぼしてしまった。
「どうしたんですか? カノン様、ため息なんてついて」
今晩はめずらしくばあやが出かけているらしい。食事中に雑談をしても目くじらを立てる人はいないので、わたしはフォークを持つ手を下ろして問いに答えた。
「もうじきエリスフェスタじゃない? でも今年は姉さまの体調が悪くて、一緒に回れないようなの」
「へえ。そうなんですか。なら、他のお方とご一緒すれば良いんじゃないですか?」
「それが、みんな婚約者と約束していて、誰も予定が空いていないのよ」
ククルは大きな茶色の瞳をぱちくりする。彼女はわたしが何を嘆いているのかわからない風に、あっけらかんとこう言った。
「カノン様から誘えば、みんな予定を変更してくれるんじゃないですか?」
「そんなこと出来ないわ……。もうお祭りの一週間前だし、急に予定が変更となったら、みんな困ってしまうでしょう?」
「そんなことありませんよ。困る人は困るとちゃんと言いますし。カノン様ってば気にしすぎですよ」
「そうかしら……」
なおも冴えない表情を浮かべるわたしに、ククルはニッコリと笑顔を向ける。
「どうしても誰も誘えないのなら、私を誘ってくださいよ。私は大した予定がないので、カノン様のためだったら何日でも空けますよ」
「本当? でも、ククルも恋人とか、友達とか、他に一緒に居たい人がいるんじゃない?」
「私はお昼間はいつも一人でフラフラしているんですよ。私は別に、ひとりでも出かけられますからね。恋人と出かけるなら、夜の方が雰囲気が出るんです。祭りは日没後も続いていますし?」
そっか。普通の女の子は、ひとりでお祭りに参加したり夜間にだけ参加したりという選択肢があるのか。わたしにはどちらも無理だから、全く考えもしていなかった。
本当に迷惑でないのなら、ククルを誘ってみようかしら。わたしは彼女を上目使いで見て言った。
「ありがとう。じゃあ、予定が埋まらなかったら本当に誘うからね? よろしくね」
「はい~! その代わり、おごってくださいね! 私、食べ物系の露店に辛口評価を付けて回るのが趣味なんです。後々、評価をまとめてグルメ本を出版しようと思っていまして~」
わたしは部屋に帰って貯金箱を逆さまにした。ククルは一体どれくらい食べるつもりなのかしら。わたしは貴族の友人たちと違ってそんなにお金持ちではないのだけど……。
ベッドに散らばった貨幣を色別に並べる。銀貨が十三枚、銅貨が十五枚。銀貨が十枚で金貨と交換できて、銅貨が十枚で銀貨と交換できる。金貨一枚が一アリス、銀貨一枚が一グリス、銅貨一枚が一シウスだから、わたしの手持ちは合計で、一アリス、四グリス、五シウス。
ばあやはいつもエリスフェスタの前に、二アリスと二グリスのお小遣いをくれる。それを入れたら合計で、三アリスと、六グリスと、五シウスになる。
これが多いのか少ないのかは良くわからないけど、確か一般的な露店の食べ物は一グリスもしないはずだわ。ククルがものすごく食欲旺盛な女の子でなければ、充分足りるはずだ。
わたしはジャラジャラと、硬貨をブリキの缶に戻しながら考える。
ククルも夜には恋人と出かけることを仄めかしていた。この国で、女性は大体二十歳くらいには結婚してしまう。早い人で十六歳。遅い人でも二十五歳までには家庭に入る。
ごく一部には、フランシスカ先生のような独身を貫いている女性もいるけれど、ほとんどの女の人は結婚をする。結婚をして、子供を産んで、子育てが終わった三十過ぎに再び奉公へ戻ってくる。だから十代半ばの女の子にはほとんどみんなに恋人がいて、年齢を重ねるにつれ、優先順位を恋人の方に傾けるようになる。
「なによ。去年までは女同士の方が気楽だよねって言っていたのに」
わたしは頬を膨らせた。エリスフェスタでは男も女も同じ猫の格好をして、一見どちらか分からない。異性と公共の場で会話することをはしたないとする貴族社会でも、エリスフェスタでは見て見ぬふりをされる。たとえ婚約者であっても、おおっぴらに出歩けるのはエリスフェスタの期間だけだから、彼女たちが男の子を優先するのは理解できる。理解はできるけど。
「わたしだって、お祭りを楽しみたいのに……」
わたしは惨めになってきた。こうなることは、ずっと前から予想していた。姉さまもアイリスも、わたしより年上の十六歳。リリムとカーミィは十八歳だから、結婚までもうすぐでしょう? いつまでもわたしと遊んでくれないことはわかっていた。
現に姉さまは去年、隙を見てテオドアと密会していたのだから、わたしはとっくに見放されていたのだ。
「……世の中は、なんて世知辛いのかしら」
「何か言ったか?」
「いえ、何でもありません」
わたしが掲げた本のイラストを見て、手元の黒板にたどたどしく『りんご』と書きつけるルカさん。
「正解です! もうツヅリは完璧ですね。次はエガキの勉強に移りましょう」
この国の文字には、『ツヅリ』という音を表す簡単な文字と、『エガキ』という意味を表す複雑な文字の二種類がある。ルカさんのような文字を学びたての人は、表音文字のツヅリをマスターするところから始める。
「エガキ……こっちの、線がたくさんある文字か?」
「はい、それは林檎という字です。それは難しいのでこちらの、数を表す文字から始めましょう」
「…………」
ルカさんは途方に暮れたように教科書を眺めている。確かに、エガキは数えきれないほどたくさんの種類があり、完璧にマスターするには途方もない時間がかかる。
しかも、国で使われているエガキとはまた別に″旧字体″と呼ばれる、百年ほど前に使用されていた難しいエガキがあり、一部の難しい文献を読むにはそちらの知識も必要となる。
八歳の頃から個人教師に指導されていたわたしですら、ほんの一部しか理解できていないのだから、文字の読み書きというのはとてつもなく難しい技術なのだ。
「大丈夫ですよ、ツヅリだけでも意味は通じますし、手紙くらいなら書けますよ」
「これだけじゃ、本は読めねえだろ……」
「まあ、そうですけど」
渋々と、一から十までのエガキの書き取りを始めるルカさんの横顔を見ながら、わたしは再びため息を吐いた。
「なんだよ、さっきから」
「いえ、なんでもありません……」
そう言いつつ、ため息が止まらないわたし。
アピスヘイルの中で最も、エリスフェスタに遠いのがこの部屋だろう。ルカさんは外の浮わつきを知っているのかいないのか、マイペースに今夜も国語の勉強をしている。
「なんだよ、気が散るだろ」
「すみません、そんなつもりじゃ……」
わたしは姿勢を正して、黒板の確認をする。
「上手いじゃないですか! さすがルカさん。じゃあ次はこっちの、大きい数字を」
「……何か悩みでもあるのか?」
わたしは目を瞬かせた。まさかルカさんの口からそんな質問が飛び出すとは、思ってもみなかった。
「えっとその、勉強には全く関係ない話なんで、ちょっと」
ルカさんは相変わらず、興味のない話にはほとんど反応を示してくれない。勉強の合間に雑談をしようとして何度も無視されていたわたしは、すっかり怖気づいてしまっていた。
「別に、関係なくてもいいだろ」
「……いいんですか? 本当に?」
「そんなにため息を吐かれたら、気になるだろ。話したくないならいいけどよ」
そこまで言ってくれるなら、話してみようじゃない。わたしは徐に口を開いた。
「ルカさん、ご存知ですか? 来週からエリスフェスタが始まるんですよ」
「エリスフェスタ?」
「アピスヘイルで一番大きなお祭りです。恵みの雨をもたらしてくださった藍猫さまに感謝を捧げて、都内だけじゃなく国中からたくさんの人が来て、おいしい食べ物や珍しい雑貨のお店が出て、食べて飲んで、歌って踊って楽しむんです」
「…………」
ルカさんは絶句していた。この顔は、完全に興味がない顔だわ。そう思ったけど、わたしは話を続ける。
「エリスフェスタの六日間だけは、″エリス″という藍猫さまの依り代として選ばれた女の子以外、身分の差別がなくみんなが白い猫に仮装して楽しむんです。わたしも毎年、姉さまたちと一緒に都中を回っていました」
「ふーん……」
「でも今年は姉さまが一緒に回ってくれそうもなくて、他の人を誘おうにも、みんな予定が決まっていて、どうしたらいいか途方に暮れていたんです」
「あ、そう……」
「ルカさん、真面目に聞いてくださいよ! ルカさんが話してもいいって言ったんですよ?」
わたしが責めるように言うと、流石に責任を感じたのか、ルカさんは絞り出すようにこう言った。
「別に、誰かを誘えばいいんじゃねえか? 誰かいるだろ、暇なやつが……」
「みんな恋人や婚約者と約束しているんです。そうじゃない人は実家のお手伝いなどで忙しいんです。暇な人なんていないんですよ。わたしが誘ったら、みんな困ってしまいます」
「じゃあ一人で行けばいいだろ」
「わたしはひとりでは平民区に降りられないんです。そうでなくても、ひとりでお祭りなんて寂しくて無理ですよ!」
わたしはそう訴えながら、目の端に涙を滲ませていた。今までは何の悩みもなく、姉さまに引っ張られるままに生活していた。だから今ひとりきりにされて、どうしていいか分からない。
これから長い現世が続いているみんなと、神官になるわたしとでは、住む世界が違う。みんなはこれからも親交を続けていくひととの関係を育むことに熱心で、そのうちここから旅立つわたしには興味をなくしていく。
悲しいけど、わかっている。そうあるべきなんだってわかっている。もう衰退の節に入ってしまったのだもの。わたしに残された時間は少ないのだ。
「テオドアさんもサリーさまも、親しい人との縁を捨てて旅立ったんです。わたしもいずれそうやって旅立つのですから、なるべく縁を手放しておかないと、お別れが悲しくなってしまいます」
わかっている。わかっているのよ。頭ではわかっているけど、わたしもお祭りに行きたい。みんなと同じように楽しみたい。できたら素敵な男の子と、夜の街を回ってみたい。でも、そんな低俗な考えを持っているなんて、白子らしくないでしょう? わたしが本気でそう思っていることを知られたら、みんなを不安にさせてしまう。
「わたしは白子ですから、こんな騒がしい行事には興味を持ってはいけないんです! ルカさんみたいに、粛々と勉学に励み、己を高めるべきでして……」
「でもその祭り、藍猫に捧げるものなんだろ? 依り代がいるっていうことは、藍猫もその騒ぎに寄って来るんだろ」
「そ、そうですけど……」
「ならお前が祭りに興味を持っても別にいいんじゃないか?」
違うの、ルカさん。そんなフォローは要らないの。わたしは強がりでそんなことを言ったのよ?誰にも誘われないわたしを正当化するために、強がりで言ったのよ。
わかってくれるなんて思っていなかったけど、本当に何一つ理解してくれていないのにはガッカリした。肩を落とすわたしを横目に、無情にもルカさんは数字の書き取りを再開してしまった。
ルカさん。ルカさん。違うのよ。わたしはあなたに言って欲しかった言葉があるの。ローダさまとククルはちゃんと言ってくれたのに、あなたは何も言ってくれないのね…….。
ローダさまとククルは言ってくれた。わたしに気を遣って、″一緒に行きましょう″と言ってくれた。
ひどいなぁ、ルカさん。いいえ、ルカさんだけじゃないのかも。
そもそも男の人の頭には、そんな気遣いは存在しないのかもしれないわ……。