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衰退世界の人形劇  作者: 小柚
上巻
2/125

プロローグ

 夜の闇に沈みそうな室内に、しとしとと外壁を打ち付ける雨の音が響く。ベッドの脇に置かれたランタンと暖炉の明かりが、慎ましやかに辺りの輪郭を照らし出している。

 そのときわたしの視界に映っていたのは、体を包み込む厚手のブランケット、わたしの腕よりも大きな本の少し黄ばんだページ、それを捲る白くて長い指。

 そしてすぐ背後で、女の人の柔らかくて優しい声がわたしの耳をくすぐった。

「わたしたちの神さま、藍猫さまは、美しい青色の毛並みをもつ大きなお猫さまなのよ」

「知っているよ。カノン、いつもお祈りをしているもの」

「そうね」

 声の主は、得意気なわたしに軽やかな微笑を被せてから、絵本の挿絵に白い指を這わせた。

「でもね、カノン。藍猫さまはね、普通のお猫さまじゃないの。教会にある青銀の像よりもずっとずっと体が大きくて、全身が水のように透き通っているのよ」

「ふうん」

 ランタンの光にぼんやりと浮かび上がる幻想的な水彩画。そこに描かれた美しい猫は、普段見ている教会の猫の像とは大分印象が違った。

「あ、このお猫さま、尻尾が二本あるよ!」

「そう。藍猫さまは尻尾が二本あるのよ。暗くてよく見えないけど、教会の像にもちゃんと二本あるわよ」

「そうなんだ」

 そういえば、以前他の誰かにも教えてもらった気がする。そんな記憶を掘り起こしながら、わたしは再び挿絵の猫に視線を向けた。

「お腹の中をお魚が泳いでいるよ」

「藍猫さまはとっても大きいからね、海も河も藍猫さまの一部なのよ」

「頭には雲が映っているね」

「お空も藍猫さまの一部なの。空も海も青いのはそのためよ」

「目の奥に街が見えるね。もしかして、どこかにカノンのおうちも映っているのかなぁ」

「そうかもしれないわ。藍猫さまはいつでもこの都を見守ってくださっているのだから」

 わたしはくまなく挿し絵を眺めながら、女の人と会話を続けた。他愛のない会話だったけど、とても楽しかったのを覚えている。

 幾晩も繰り返された幸せなひととき。眠りにつく前の絵本の時間。この時だけ彼女は、わたしだけを見、わたしだけに語りかけてくれた。

 わたしはこの日々がずっと続くのだと思っていた。けして取り上げられることはないとかたく信じていた。

 だけど、彼女が初めてこの藍猫さまの絵本を読んでくれた夜、それが間違いであったことを知らされる。

「あのね、カノン。母さまね、言わなければならないことがあって……」

「え、なあに?」

 無邪気な瞳で見上げたわたしの目に、きゅっと結ばれた唇が映った。わたしを抱き締める腕はにわかに震え初めて、わたしはとたんに不安に包まれる。

「母さまね、今まで母さまって呼んでもらっていたのだけど……カノンの本当の母さまは、私じゃないの」

「え?」

 意味がわからなかった。わたしはまだ小さかったから。

 母さまに本当も嘘もあるの? ぽかんとするわたしに、彼女は続けてこう言った。

「カノンの本当の母さまはね、藍猫さまなの。カノンは神さまの子供なのよ……」

 藍猫さまが? わたしの? 冗談を言っているのだと思った。

 だって、藍猫さまは神さまだし、お猫さまだ。カエルとかニワトリとか、両親と似ていない動物はたくさんいるけれど、猫やヒトは両親と似ている動物だと知っていたから。

「わたしは藍猫さまよりも母さまに似ているよ?」

 わたしはケラケラ笑ったけれど、お母さまはニコリともしなかった。

 とても悲しそうな声で、こう続けた。

「カノンはね、いつかは本当の母さまのところに帰らないといけないの。そして母さまを慰めないといけないのよ」

「慰める? ……藍猫さまは、泣いているの? 」

「泣いているわ、きっと。ほら今も、雨が降っているでしょう?」

 白い指が指し示す窓に目を向ける。分厚いガラス窓は真っ黒で、外の様子は全く見えなかったけど、そこに無数の雨筋が描かれているだろうことは想像できた。

 突然優しい感触が、わたしの頭に触れる。続けてポタポタと生温い液体が、わたしのうなじを濡らした。

「母さまはね、子供をとても愛しているものなの。だからきっと、藍猫さまもカノンに会いたくて仕方がないはずよ。だって、こんなに可愛いカノンを抱くことができないなんて寂しすぎるもの……」

 彼女が泣いているのだと気が付いて、わたしは沈黙する。

 どうして泣いているんだろう。泣き止んでもらうにはどうしたら良いんだろう。

 懸命に頭を働かせたけど何も思い浮かばず、ただ彼女の生温い涙をうなじに受け続けた。

「だからね、私のことは忘れて、これからは藍猫さまのことを考えて生きて」

「…………」

「それが私の、あなたの育ての母である母さまの、最後のお願いよ」

 わたしは何故かこのとき、黙り込んだまま雨の音を聴いていた。

 外壁を叩く音が、さっきよりも強くなっていた気がする。

 このとき何を思っていたのかはよく覚えていない。でも、こんなことを考えていたかもしれない、と思う。

 藍猫さまは本当に泣いていらっしゃるのかしら。

 だって。雨が降るとみんなは、『雨を降らせるのも止ませるのも、藍猫さまのお力』というけれど。笑っているから降るのという人もいれば、怒っているから降るという人もいる。うたた寝しているから降るんだという人までいるんだもの。

 どれが正解なんて、わたしたちには解りはしない。それなのに母さまは、何故泣いていると断言できるのだろう。

「眠りましょう。カノン。風邪を引いてしまうわ」

 横たえられ、布団を掛けられるわたし。隣には最愛の母さまがいて、彼女の温もりを感じる。

 幸せでいっぱいのはずのその時間は、微かに聴こえる嗚咽によって奇妙な時間に変貌していた。

 その声を聴きたくなくて、しとしとと降り続く雨音に耳を澄ませながら、わたしは考えた。

 もし藍猫さまが泣いていらっしゃるのだとしても。

 わたしが泣き止んでほしいのは、隣にいる母さまだ。

 本当の母さまでなくても、今、泣いているのは母さまだし、泣き止んで欲しいのも母さまだわ。


 --それから八年後。

 わたしの記憶のなかで彼女は、未だに泣き続けている。

 そして本当の母さまとだいう、主神、藍猫さまも、相変わらず気まぐれに雨を降らせている--


 

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