第三章(2)
もし正礼拝で手紙を渡すことができなかったら、正礼拝に代わるもう一つの方法として、わたしは"あること"を考えていた。
今から実行に移そうとしているのは他でもない、その方法だ。
「カノン、無茶をしないでね」
「わかっているわ。大丈夫よ」
だから大人しく待っていて。そう胸の内で姉さまに語りかけ、わたしは彼女に手を振って別れた。
結局あの後姉さまは、テオドアからの返事を三日も待てず、すぐにわたしに泣きついてきた。
確かに大切な人が病床で苦しんでいるのを知りながら、普段通りの日常生活は送れないわよね。わたしだってもしお母さま――イリアさまがご病気だと知らされたら、居ても立っても居られないだろう。
ローダさまが再び"ご休学"されてからしばらく経ち、わたしたちには表面上、いつもの日常が戻っていた。表面上と言ったのはもちろん、姉さまのことが尾を引いていたためである。姉さまは友人の前ではいつも通りの姿を演じていたけど、平日の放課後には毎日わたしと例の場所へ向かい、辛い心情を吐露していた。そんな状況が続いていたのだから、わたしとしても平常心でいられるわけがない。
姉さまが泣きついてきてから二日後の晴れの日の放課後に、わたしは計画を実行に移すことにした。これから大教会の裏の洗濯場の隅で待ち合わせをしている侍女から"あるもの"を受け取る。
「カノンさま。これでよろしいですか? 父が若い頃、お役人様に頂いた服なんですけど」
「わあ、素敵。イメージ通りよ、ありがとうククル」
彼女に頼んでいたのは、男物の衣装だ。できるだけ上質な素材で、高級感はあるけど地味な服と帽子。
さすがはククルだ。図書館の館長の娘である彼女は、貴族ではないながらも教養があり、長々と説明しなくともわたしの希望通りの仕事をこなしてくれる。
「こんなものを仕入れて、どんないたずらをなさるんですか?」
「えへへ、内緒!」
目をキラキラさせながら尋ねてくる彼女に、わたしは朗らかな笑みを返した。
「もう、カノンさまったら、いじわる」
「ごめんね。お礼は必ずするから」
「じゃあ私、修道院の調理師特製のバターケーキがいいです」
彼女は侍女の中では若く、わたしとそれほど歳も違わない。たしか姉さまと同じ十六歳と言っていたかな。数か月前にこの教会に奉公に来たばかりで、良くも悪くもまだ教会の色に染まっていない。
もしかしてあまり教典の内容を理解していないのかもしれない。最近の若い人にはそういう人が多いという。若い人ほどわたしに向かって笑顔で接してくれる割合が多く、そういう人でもしばらくすると急によそよそしくなってしまう。多分周りの大人に注意されたのだろう。わたしはいつもそうやって友人を無くしていったのだ。
「わかったわ。姉さまに頼んでみる。きっとリリムに頼んでワンホール用意してくれるわ」
「やったぁ。カノンさまったら太っ腹♡」
こういう侍女ばかりだったら毎日が楽しいだろうに。多分近いうちにククルとも疎遠な関係になってしまうだろう。侍女頭であるばあやの命令には誰も背けないんだから。
ククルに手伝ってもらい、わたしは男物の衣装に着替えた。革製のキャスケット帽に、お団子にまとめた髪を隠す。
「いやだ、カノンさま。とってもお似合いです」
「ありがとう」
近くにある池に、自分の姿を映してみる。これなら大丈夫。すれ違ったくらいなら、誰もが男と思うだろう。
「どこに行くのか存じませんが、気を付けてくださいね」
「うん。日没までには戻るから、着替えはそこに隠しておいてね」
ククルと別れ、わたしは園庭を突き進んだ。目指すは高々と聳え立つもう一つの長塔、羊角の大教会である。
わたしは不文律を犯して、あの大教会に侵入しようと決意した。
もちろん勝算があってのことである。わたしなら、誰にもバレずにあそこに侵入できるだろうと思っての行動だ。
わたしはひとまず道を逸れ、いつものベンチへのルートに足を進めた。園庭の迷路を抜け向こう側に出る道もあるそうだけど、わたしはその道は使わない。逢瀬を楽しむクラスメイトたちの現場に鉢合わせてしまっては気まずいからだ。
アピスヘイルは一つの山をまるまる切り開いて作られた都市だ。山頂にある王城区、そのすぐ下の教会区、貴族区、そしてそれらの下に広い平民区と生産区がある。全ての区画は王城を境に対称の形になるように作られていて、アリアト派とアルベルト派に二分されている。羊角と禾穂の大教会の周りは特に精密で、ほぼ鏡写しのような設計だと聞く。
わたしは幽霊男のベンチを通り過ぎ、王城区の境界づたいにずんずん進んだ。幸運にも誰ともすれ違わない。この道は使用人しか使わない脇道だから、庭師はあまり手入れに力を入れていないのだ。
この辺りまで来たことはないのだけど、確かに鏡写しのようにそっくりな景色が広がっている。わたしはいつも使っている細階段とそっくりな場所を見つけて慎重に下った。来た道を戻るように園庭を横切り、修道院を横目に過ぎ去り、緩やかな坂を登り、いつも見慣れた大教会に似た建物を見つける。
羊角の大教会だ。いつも見ている禾穂の大教会とは明らかに違う。門の柱の彫刻には、豊かに実った麦穂でなく立派な羊の巻き角が象られていた。
ここに至るまでに何人かとすれ違ったけど、特に注意は引かなかったようだ。髪の毛を隠していたから当然だ。私服に着替えた男子院生が、お庭を散歩しているとしか思われなかっただろう。
ここからが問題なのだ。わたしはしばらく大教会を眺め、人が少なくなるのを待った。
キャスケットからサイドの髪を出し、手櫛で整える。
わたしがこれからしようとしているのは、テオドアのフリをして大教会に潜入すること。聖堂の奥の階段を登った先にある白子の部屋は、白子と主教さましか入れない神聖な場所。扉には鍵がかかっているけど、わたしはこう推定していた。
「全てが鏡写しであるなら、鍵の開け方も鏡写しなのではないかしら?」
もし違ったらすぐに引き返す。わたしはイメージトレーニングを熱心に行ない、ついに覚悟を決めた。
大扉の前にいるおじさんが、立ち去った後に向かおう。誰の顔も見ずに、素知らぬ顔で通り抜けよう。
わたしは足を踏み出した。目線はやや下。少し早足。機嫌が悪そうなオーラを出しつつも、あまり足音を立てずに歩く。
幸運にも聖堂に人はおらず、いつもとは反対側にある階段に無事辿り着くことができた。階段の先の大広間にも召使いはおらず、わたしは急いで奥の階段を駆け上がった。
想像通りの扉を見つけてホッとする。不思議な形の閂を握りしめ、わたしは深呼吸を一つした。
大丈夫。きっと開く。わたしは右手首を回し、三回音をさせてから左側を浮かせ、五回左右に動かした後に右側を浮かせた。この手順を一度でも間違うと、これ以上解錠は先に進まない。解き方を完全に理解していないと開けられないのが、この扉だ。
最後に閂の受け木の下にあるでっぱりを同時に押す。カチリ。軽い金属音が響いて閂が浮き上がる。
やった! わたしは満面に笑みが広がるのを抑えながら素早く扉を開き、中に滑り込んだ。
内側にも同じような閂があり、これを戻すと外の鍵が閉まる。要するに、わたしが入り込んだ形跡は完全に消えるということだ。
再度響いたカチリという音に、わたしは安堵の息を付き、ヘナヘナとその場にへたり込んだ。
やったよ姉さま。カノンは有能な妹よ……。
わたしはキャスケットを放り投げて自らを労った。髪の毛を解き、いつものように後ろで一つに縛る。
さて、これから……。…………これから……?
先のことを考えようとして、ふと気が付く。そういえば、これから先のことを何も想定していないわ。
わたしのイメージトレーニングは、いつもここまでで終了していた。ここへ侵入してからのことは、はっきり言って何も考えていない。
ど、ど、どうしよう。真っ白になった頭で考える。ここを上ればおそらくテオドアがいる。テオドアに端的に状況を説明するには……そうだ、こう言えばいい。
「ユノがテッドのことを心配しています。早くお返事をください」
ユノとテッドは、姉さまとテオドアが文通で使用しているらしい偽名だ。お互いの本名を知りながら、彼女たちは偽名を使ってやり取りを続けていた。いつベンチの下の手紙が見つかってもいいようにという考えからだった。
大丈夫。てっぺんまでの通路はこの階段しかないし、万が一テオドアが侵入者に驚いて逃げ出そうとしても、静止する猶予はあるはず。ここは白子と主教さましか入り込めない規則だから、テオドア以外の人はいない。ランディスさまもオズワルドさま程ではないにしろ毎日お忙しいはずだし、滅多にこんなところまでいらっしゃらないはずよ。
もしいらっしゃったときはその時だ。隠れるにしろ、シラを切るにしろ、その時考えればいいわ。
教会のてっぺんの部屋は、白子の部屋。白子しか入ってはいけないと言われているけど、どちらの白子しか、と指定されてはいない。屁理屈のようだけど、羊角の大教会の白子の部屋に、禾穂の大教会の白子が入ってはいけないとは言われていない。
わたしは何の規則も破っていない。そうよ、教典に明文化された規則はなにも破っていないもの。ローダさまだって謹慎で許されているのだから、わたしだってきっと許されるはずだわ。
わたしは自分で自分を鼓舞し、石階段を登り始めた。登るたびに心拍数の上がる心臓を抱えながら、わたしはこんなことを考えていた。
わたしとテオドアは、同じアピスの白子として生まれ、同じように育てられてきたのだけど、互いに顔を合わせるのは年数回。雑談をしたこともなく、互いの性格も好みも知らないままにここまで成長してしまった。
だけど、お互いに意識していたのだと思う。いつかは二人だけで藍猫さまのもとに向かい、神官となる。神官は永遠の命を与えられるから、わたしたちはいずれ誰よりも長く一緒にいることになる。
早く仲良くなって安心したいという思いと、どうせ飽きるほど一緒にいることになるんだから、今は話さなくていいという思いが同居していた。それがわたしたちの関係性だ。その関係が、まさかこんな形で終わりを迎えるなんて思ってもみなかった。
ついに階段の終わりが見える。高鳴る胸を抑え、息を整え、わたしは階上へと足を踏み出した。




