第三章(1)
四月一日、春季初めのラピス・ユニアンの朝。わたしはオズワルドさまに連れられ、お城の裏にある正教会への道を辿っていた。
この日のわたしは、普段とは違う。銀の飾りがジャラジャラと揺れる藍色の正装をまとい、道行く人々は足を止めて、神妙な表情でわたしを見つめる。
教会区の正門を抜け、大通りの坂道を登り、山頂へ向かう。幽霊男のベンチに通じる近道は庭師にしか使えないため、通常はお城の裏庭を経由して行く。
正門で門番に頭を下げたあと、裏庭へと向かう道すがら、わたしは主教さまに声をかけた。
「あのう、主教さま」
「なんですか、カノン」
「今日って、テオドアさんはいらっしゃいますよね」
おずおずと口にした質問に、主教さまは不思議そうな表情を浮かべる。
「正礼拝ですから、来られるでしょう。どうしました?」
「いえ……それなら、いいんです」
わたしは苦笑して誤魔化し、その後は主教さまの背中に隠れて歩くことに専念した。
先日、姉さまにとんでもないことを頼まれたわたし。正装のひらひらしたケープの裏に忍ばせた桃色の封筒を、ぎゅっと握りしめる。
羊角の白子と、禾穂の主教の娘の逢瀬。前代未聞のとんでもない事件に、わたしの心臓は縮む思いだった。
白子は教典で述べられる通り、神聖で不可侵な存在。親兄弟や友人のような関係すら公的に認められていないのに、恋人なんて以ての外だ。
ちらりと主教さまの横顔を覗く。頬はこけ、目の下にはうっすら隈が浮かぶ。現在はアリアト派が政権を握っているため、オズワルドさまの仕事は想像以上に激務だと聞く。
オズワルドさまはアドルフ国王陛下の弟君で、国王から最大の信頼を受け、国の重要な仕事のほとんどを任されている。国王陛下がやや頼りないこともあり、実質的な国のリーダーはオズワルドさまと左大臣ユジンさまだという声もあるほどだ。
毎日お忙しいオズワルドさまに、こんな話を聞かせるわけにはいかない。自慢の娘が神聖な教典の言葉を踏みにじり、皆からの信頼を裏切っていると知ったら……きっと倒れてしまうだろう。
わたしは溜息をつく。姉さまがオズワルドさまを良く思っていないことは知っている。わたしが白子として扱われはじめた時、強硬なオズワルドさまの姿勢に反発してくれたのは、姉さまだけだったのだ。
姉さまは規則を破ってわたしと会い、妹と呼び続けてくれた。だからこそ、テオドアに対しても同じ考えに至ったのだろう。「白子だから恋人が作れないのはおかしい」と。
わたしは姉さまに感謝している。もしかしたら、姉さまは孤独なテオドアを救いたかったのかもしれない。テオドアも、そんな姉さまに惹かれているのかもしれない……。
そう考えると、わたしは自然と、二人の関係を応援したくなる。
オズワルドさまに知られず、上手く仲を取り持てるのは、恐らくわたししかいないのだ。
「禾穂の大教会のオズワルド・アピスリムと白子カノン、到着いたしました」
主教さまの声に応え、正教会の扉が開く。アピスヘイルで最も古いと言われる建物は軋む音が大きく、修道院とは比べものにならない。
窓のない室内は薄暗く、外の光に慣れた目では中の様子はほとんど見えない。次第に視力が慣れてくると、黒ずんだ木の壁、長椅子、最前列に座る数人の人影、高い天井から吊るされた燭台、質素な教壇、そして最奥に鎮座する巨大な猫の像がぼんやりと浮かび上がる。
すでに全員が揃っているようだった。教壇から見て、最前列の右側にはアルベルト派、左側にはアリアト派。わたしたちが向かう左側の席には王様と左大臣がおり、神妙な顔で姿勢を正していた。
わたしは彼らの横の空席に腰掛け、そっと反対側を見渡す。いつも怖い顔のランディスさまと右大臣オルドさまに挟まれ、藍色の衣装をまとった細身の少年が目に入った。
「?」
あれ……? 違和感を覚えて、わたしは顔を上げる。
「どうしました? カノン」
「いえ……」
隣の主教さまに怪訝そうな顔をされ、慌てて前を向く。視界の端でランディスさまの鋭い瞳がこちらを射抜いたように感じ、わたしは主教さまの影に隠れて縮こまる。
「皆様お揃いになりましたので、これより春季の正礼拝を開始いたします……」
進行は左大臣のユジンさま。姉さまの婚約者イザクさまのお父さまで、姉さまの未来のお義父さまに当たる方だ。
姉さまの一件は、オズワルドさまよりもユジンさまを傷付けるかもしれない。わたしは胸が締め付けられる思いで、その声を聞き流す。
もう一度、テオドアの方に視線を向ける。細身の少年は、わたしと同じ素材の衣装を着ていた。男性用のデザインで、ジャラジャラと銀の飾りがついた藍色のケープは同じだけど、下の銀色ニットは女性用より短く、ボトムスは黒いタイツではなく黒いスラックスだ。
しかし、わたしが違和感を覚えたのは、その着用方法だった。ケープの大きな襟をフードのように目深に被り、ニットのハイネックも口元を覆うように引き上げている。
変だ。明らかに、変だ。
周りを見渡すが、テオドアの様子を窺っている者は誰もいない。暗い室内で顔を完全に覆われると、唯一わかるのはフードからわずかに覗く銀色の髪だけだ。これで彼がテオドアだと予想できる。
「ーーでは、これより白子の宣誓を……」
あ。わたしの出番だ。ユジンさまの声で我に返り、立ち上がろうとしたそのとき。
「白子の宣誓は、省略させてもらってもよろしいか。テオドアの病気がまだ完治しておりませんゆえ」
野太い声が響き、牽制するように宣言する。
「ええとーー」
ユジンさまは動揺し、オズワルドさまに視線を向ける。目を伏せ、ため息をつく主教さま。
「ランディス。白子の宣誓は重要な神事です。続けて二度も省略することはできません」
「しかし、テオドアは重い病で喉が焼けておる。声を出すと病状が悪化する」
「ならば、カノンのみで宣誓を行います。それでよいでしょう?」
「片側の白子を贔屓することは許されぬ」
「ではテオドアくんは、カノンの横で口を合わせて動かしていればよいのでは」
ランディスさまは不服そうだが、仕方ないと言わんばかりに鼻を鳴らし、テオドアの背中を押して立たせる。
良かった。わたしは安堵の息を漏らす。もし手紙を渡すなら、最大のチャンスはこの宣誓の瞬間だからだ。
正礼拝は厳かな神事で、一から十まで行動が決められている。話しかける余裕も、勝手に近づくこともできない。宣誓の間だけ、教壇前で横並びになる。両側に両主教さまが立ち、長椅子に座る人々は目を伏せるのが決まりだ。
宣誓が終わればすぐに帰路につくため、このときが手紙を渡す唯一のチャンス。
わたしは宣誓の詞が書かれた羊皮紙を懐から取り出し、仕込んでいた手紙をそっとその下に滑り込ませる。
じわりと汗ばむ手。小刻みに震えるのを抑えながら、ぎゅっと握りしめる。
教壇前で左側にテオドアが立つ気配。怪しまれないため横は見ないけど、十分な近さだ。これなら手が届く。
「宣誓ーー」
できるだけ平静を装い、いつもの詞を口にする。
「アピス国の白子、カノンとテオドアは――」
白子の宣誓は呪文のようなもので、難しい発音が多く、紙を見ながらでないと発声できない。
普段から暗記が得意なわたしでも、この詞はどれだけ練習しても完璧には覚えられなかった。主教さまもそれを承知しており、紙を取り上げることはしなかった。
「――――、――――――、――――――――――……」
書かれた通りに発音しているつもりだけど、合っているか自信はない。読んだ端から忘れてしまう、不思議な文章だ。
しかし今日は不思議がっている場合ではない。宣誓が終わり紙を畳む直前、その一瞬の隙に、わたしは手紙を握った左手を、テオドアのスラックスのポケットにねじ込んだ。
やったわ。手を素早く抜き、羊皮紙に戻す。驚いたテオドアが一瞬こちらを向き、目が合った。
あれ……? わたしはさらに違和感を覚える。
いえ、勘違いよね。わたしはテオドアのことをよく知らない。年に数回しか顔を合わせないし、自由に観察できる神事も少ない。顔の隅々まで覚えている自信はない。
わたしは何も気づかなかった振りをして踵を返し、悠々と自席に戻った。
やったよ、姉さま。カノンは実に有能な妹だわ。
わたしの中に満足感がじわりと広がり、その後の礼拝の内容は見事に頭に入ってこなかった。でも、何も問題にならなかったのだから、礼拝は恙なく進行したのだろう。
「どうしたのですか? なにか良いことでもありましたか?」
「い、いいえ、主教さま。今回も宣誓が一度も詰まらずに言えたので、嬉しくて」
「そうですね。上手だったと思いますよ、カノン」
微笑む主教さま。どうやら、さっきの手紙のことはバレていないらしい。
わたしはへらへら笑いながら大教会まで戻り、主教さまと別れて着替えを済ませる。今日は特別な日だから葬儀はなく、一日まるまるお休みだ。
急いで、例の場所へと向かう。
「やったよ、姉さま!」
「えっ! 本当にやってくれたの?」
幽霊男のベンチで姉さまと落ち合う。彼女はキラキラした笑顔でわたしを迎えてくれた。
「うん。あまり隙がなくて、渡すことしかできなかったけれど。バッチリポケットにねじ込んでおいたから、絶対大丈夫よ」
「ありがとう!」
姉さまはギュッとわたしを抱きしめてくれた。でも、体が離れたあとには、なぜだか浮かない表情をしている。
「どうしたの?」
「テオさまのお加減は……どんなご様子だった? まだお元気にはなられていなかった?」
「ああ……そうね。風邪をずいぶん拗らせてしまったみたい。まだ声が出せないんだって」
「そう……。なら、お返事はすぐには無理ね」
そうか。わたしは手紙を渡すことで満足してしまったけれど、返事が来なければ姉さまの憂いは晴れない。
そして、憂いが晴れないということは……。
「ねえ、姉さま。お返事が来ないからって、早まった真似をしては駄目よ」
「えっ」
姉さまは、いたずらを咎められた子供のような表情でわたしを見る。
「でも、カノン。お返事が来ないってことは、私が嫌われてしまったか、テオさまのお加減がいつまでも良くならないか、どちらかよ。嫌われてしまったなら潔く身を引くけれど、もしテオさまがご病気で苦しんでおられるなら、私……」
やっぱり駄目だ。放っておくと、何かとんでもないことをしでかしそうだわ。わたしは疲労で横顔がくたびれたオズワルドさまを思い出す。
姉さまたちのことは絶対にバレてはいけない。だから、姉さまにはこれ以上危険な行動を取らせず、極力大人しくしてもらわなければならない。
「もう、仕方がないわね……」
わたしはため息をついた。関わってしまった以上、途中で投げ出すわけにはいかない。誰も不幸にしないためには、わたしがお節介を焼くしかない。
「お願いだから、姉さまは大人しく待っていて。返事はいつまでなら待てる? 待てなくなったらすぐに言って。わたしがなんとかするから」
姉さまにはできないアプローチが、白子であるわたしにはできる。
このとき、ひとつの名案がわたしの頭に浮かんでいた。そして、どうしてもその案を試してみたくて仕方がなかったのである。




