第二十章(4)
出発前にわたしはファイさんから、たくさんの神樹の実を食べることを勧められた。
「もうご存知のこととは思いますが、司彩は楔樹からのエネルギーで彩謌を撃てます。しかし、それはあまりやらない方が良い」
楔樹からのエネルギーは、それぞれの司彩に特有ものなのだそうだ。
藍猫の樹は青いエネルギーを、橙戌の樹は橙のエネルギーを、それぞれ供給する。楔樹からの距離に左右されるけど、司彩に憑かれた白子は樹からエネルギーを吸い上げることができる。
傷を治したり、若い体を維持する程度であれば、この世界の何処にいても楔樹からのエネルギーでなんとかなるようだ。
「仕都は楔樹に比較的近いですから、送られてくるエネルギー量が他の土地よりは多いです。無限に彩謌が撃てるほどではありませんが、楔樹の影響を比較的受けやすいと言えます。だからカノンさんはアピスヘイルへ到着する前に、先んじて神樹のエネルギーでタンクを満たしておいた方が良いでしょう」
神樹のエネルギーは全てを満遍なく含む白色のエネルギー。特定の司彩に偏らないでいられるから、司彩に乗っ取られたくなければ、できる限り永続的に神樹のエネルギーを摂取していたほうが良い。
そうファイさんは優しく教えてくれた。
「食べもので人の体は作られます。何を食べて生きるかは、常に意識しておかねばならないことです。特にあなた方は。どうか、頭の片隅に置いておいてください」
「わかりました。ありがとうございます」
船上で風に吹かれながら、わたしはもらった神樹の実にそのままかぶりつく。今でも不味いとは思うけど、最初と比べたら随分と抵抗がなくなってしまった。
司彩は楔樹の近くにいれば無限に彩謌が撃てる。ほぼ無敵な状態でいられるから、橙戌や金凰はわたしたちをすんなりと司彩の都に招き入れた。彼らはその油断で頭を討たれてしまったとも言える。
兎緋は寂しさゆえに仕都まで出てきてしまっていた。仕都だからまだ大丈夫との油断もあっただろう。結局、神樹の力を溜め込んで万全の状態だったわたしたちに力負けしてしまった。
スイさんがラピスからアンバスに向かうとき、途中にあったはずのフロイトに近付こうともしなかったのは、理由があってのことだったんだなと思う。虎白さまも司彩になってから、ガルドやカーネリアに行こうともしない。彼らは意図的に楔樹から距離を置き、神樹に身を寄せている。
わたしも、仕都や司彩の都との付き合い方を考えておかないといけないのかしら。移り行く景色を眺めながら、わたしはぼんやりと考える。
アピスヘイルとラピスを責任持って支配するか、徹底的に距離をとるか。距離をとるのなら、わたしもスイさんや虎白さまのように神樹の実を食べ続けないといけない。これからも生き延びたいのであれば、どうやらその二つしか選択肢が存在しないらしい。どちらかを決めないと、これからもたくさんの人に迷惑をかけてしまう。
川を下り、段々とアピスに近付いている。雨が降り始め、船の揺れが激しくなってきた。
マグノリア。どうしてアピスは天候が荒れているの? 藍猫は怒っていないのでしょう? わたしはふと浮かんだ疑問を、頭の中の彼女に投げかける。
藍猫はあなたなんだから、藍猫が怒っているのなら、あなたが怒っているということでしょう? どうしてあなたは雨を降らせているの?
『違うわよ。わたしはなにもしていない。アピスヘイルの辺りは、元々雨が降りやすい土地なの。一年の半分くらいは雨が降るのが普通なのよ』
え? そんなはずがない。アピスの雨季はひと月だけだし、衰退の節に入るまでこんなにも雨が降り続いたことはなかった。
マグノリアは短いため息を吐いてこう言った。
『仕都というのは、元々そういうものなの。楔樹の影響で、極端な環境を持つものなのよ。だけどそれじゃあ人が住みにくいから、住みやすいように彩謌で気候をねじ曲げていたの。それがなくなったから、今まで塞き止めていたものが溢れてしまっているのよ』
元に戻ろうとしているだけよ、アピスヘイルもハルムヘイルも。マグノリアは冷たくそう言った。
元に戻ろうとしているだけ……。それは要するに、再び彩謌で塞き止めないと元のアピスヘイルには戻らないということ?
ラピスから楔樹の力を使ってアピスヘイルを肥沃な土地にしていたのはエリファレットさまで、わたしも同じことをし続けないとアピスヘイルに平穏は訪れない。
救援に向かったところでわたしたちは一時凌ぎのことしかできないの? アピスヘイルは人が住めない土地になってしまうの?
「我々の最終的な目的は、アピスヘイルから住人を全員隣街へ移すことだ。もちろん希望者がいれば別の土地に送っても良いし、ハクトに居住地をあてがっても良い」
わたしが虎白さまに疑問をぶつけてみると、さも当然のようにこんな回答が返ってきた。
「アピスヘイルは元には戻らん。もっと住み良い土地を開拓したほうが良い。ランディスともそういう話でまとまっている」
「ランディスさまは真実を知っていらっしゃるんですか? その、わたしが……」
「お前が藍猫であることは言っていない。言えば奴はお前にひれ伏して頼み込むぞ。アピスヘイルを管理してくれと」
わたしは尻込みしてしまった。
そんな自分に嫌気が差してしまう。わたしは結局、アピスヘイルを救いたいと言いながら何の覚悟もしていないのだ。
「クラウディアヘイルはほとんど森だったろう? あれでも獣人は住みよく暮らしている。獣人は人間と違って軟弱でないからな。放置していても大丈夫だ。しかしイグニアヘイルは駄目だ。管理を止めると灼熱の地になってしまう。再建すると言いながらも、行く行くはアピスヘイルと同様に民を移住させるだろう」
虎白さまはゆるゆると首を振って、ため息混じりに言った。
「神の力なんぞで無理矢理に自然をねじ曲げるのがいかんのだ。ハクトも難儀な土地だったが、コツコツと人の力で変えていった。目の前の苦労から逃げてもどうせいつかは帳尻を合わせねばならなくなる。アピスヘイルは今までのツケを清算するときが来ただけだ」
『元に戻ろうとしているだけよ』。先ほど聞いた、マグノリアの言葉が重なった。
きっとそれは正しいんだと思う。アピスヘイルを助けても、問題を先送りにするだけだということはわかる。
だけどわたしは、二人ほど冷徹になれそうもない。わたしはアピスヘイルが好きだった。四季や雨季、季節と共に移り変わる街並みが好きだった。歌や絵画、古くから伝わる物語が好きだった。
一番好きだったのは行事だ。毎週のお葬式や年四回の正礼拝はうんざりしてしまっていたけど、朝の礼拝と季節のお祭りは好きだった。
エリファレットさまは、エリスフェスタのことをとても気にしていた。もしかしたらエリファレットさまは、アピスヘイルの文化を守ることを生き甲斐にしていたのかもしれない。
わたしが責任を放棄し、虎白さまのもとでぬくぬくと暮らすことを選択したら、わたしは二度とエリスフェスタに参加することができなくなる。
わたしは胸元をギュッと握りしめる。そこにはパルフィートと、スイさんからもらった首飾りがぶら下がっていた。
そしてポケットには未だに懐中時計が入っている。オズワルドくんにもらった時計だ。
わたしは、荒れる青の道を眺めながら思った。
そういえばわたしは、ルカさんだけじゃなく、オズワルドくんともキャンドルの終わりを見ることができていない。当然イリア姉さまとも、シノン姉さまとも見ていない。
わたしは誰とも永遠の絆を約束されていない。わたしの胸に、急に不安な気持ちが湧き上がってきた。
キィン、と石の砕ける音がする。
もう三度目になるかしら、虎白さまが『陽光』の音を出している。
虎白さまは司彩になってから、ダェグの基準律にまつわる彩謌を石でしか出さなくなった。
もしかしたら司彩になると、自分の喉からはその司彩に割り当てられた調律の音しか出せなくなるのかもしれない。
兎緋が文句を言っていたものね。金鳳には『縮地』は使えないはずだと。『縮地』は金鳳の音階である″フェオの基準律″では出せない和音だ。『陽光』は天気を晴れにする彩謌なのだけど、ダェグの基準律だから白子にしか使えないのかもしれない。
「だったら藍猫は、どうやって天候を操作していたのかしら。雨を降らすことしかできないのに」
何気なくぼやくと、マグノリアから回答が返ってきた。
『藍猫は水を移動させる彩謌を得意とするわ。雨が降りそうになれば、雨雲ごとどこかにやってしまうのよ。エリファレットがアピスを広く治めていたときは、遠い異国がアピスの代わりに雨害に遭っていたのでしょうね』
なるほど。だからマグノリアはアピスヘイルを救おうとしないのね。
アピスヘイルに降る雨を、綺麗さっぱり消すことはできない。あるものをないことにするのは、神さまの力を持っても無理なんだ。
神さまにできるのは、苦しみをどこか他所に移してしまうことだけ。神さまにとって都合の良いように。自分を敬う人間に施しを、そうでないものに災いを。そういう都合の良いことをしてしまえるのが、神さまなのだ。
『わたしは神さまにはなれない。わたしのせいで不幸になる人がいるなんて、考えたくもないわ。わたしはなにもしたくないの。人を幸福にも、不幸にもしたくない』
わかるわ、マグノリア。
だけどわたしは。大切な人を幸せにしたい。そのために知らない誰かが不幸になったとしても、それでも幸せにしたい。
『わからなくもないわ。だけどね、カノン。あなたはちっぽけな存在なのよ。あなた自身を幸福にすることすらできていない、ちっぽけな存在なのよ……。
あなた自身の幸福を考えて欲しいの。他人じゃなく、あなた自身の。あなたを幸福にできるのはあなただけだし、他の人たちも皆そうであるべきなのよ』
わかっているわマグノリア。でもわたしは、わたしにできることをしたいのよ。だから……。
わたしはそう答えかけて、彼女の話から意識をそらした。
目の前に懐かしい景色が見えてきたからだ。
アピスヘイル。上流から眺めるのは初めてだけど、すぐにわかった。
『陽光』によって分厚い雲の隙間から照らされたわたしの故郷。
シンボルである二本の長塔は中腹でポキリと折れてしまっている。貴族区と市民区を隔てる外城壁もボロボロになっていて、土砂を住宅街に撒き散らしていた。
「ああ、なんてことだ……」
いつの間にか甲板に出てきていたランディスさまが絶望の声をあげる。
オルドさまも、他のアルベルト派の従者たちも、みんな手を合わせて祈っていた。
「藍猫様、どうしてこのような惨いことを……」
「お許しください。我々をお許しください……」
わたしは早くも後悔に身を焼かれていた。
想像と現実は、こんなにも違うものなの? 船が『旅立ちの岸』に近付くにつれ、恐怖で足がすくむのを感じた。
その足のすくみは、想像を絶するものだった。
わたしはここに来るべきではなかったのかもしれない。真実を知るべきではなかったのかもしれない。
ハクトに籠って故郷の夢を見続けていれば、こんな絶望に襲われることはなかったのに。
わたしはどうして、いつも余計なことをしてしまうのかしら。
アピスヘイルを取り巻く痛みは、わたしに抱えきれるはずもないものだと、今更になってわたしは理解した。