第二章(3)
ローダさまとの修道院生活が始まって一週間が経ち、新しい生活にも慣れ始めた頃。唐突に事件が起こった。
事件の舞台は神学の授業中だった。神学の先生は、フランシスカ=オルカという、オルカ家の分家の出身の女性だ。
オルカ家はアイリスとカーミィの家でもあり、フランシスカ先生は彼女らの遠縁に当たるわけだけど、そのことはこの件にちょっとだけ関係がある。
「みなさま、ごきげんよう。まずは出席を……ええ、ええ、大丈夫、みなさまお揃いのようね。ああ、主よ、わたくしの教え子達に健康を与えてくれましたことを感謝いたしますわ」
フランシスカ先生は、口数が多くて落ち着きがない。お祈りをしながらウロウロと教室を歩き回ったあと、教卓に戻りながらこう言った。
「先週お伝えした通り、二年生の神学では、我が国の聖なる教典『ラウドの書』の写本を一年かけて行いますわ。みなさん、白紙の本のご準備はできましたかしら」
ザワつく室内。みんなこの日のために自慢の本を準備していたのだから、浮ついた雰囲気になるのも無理はない。かくいうわたしも主教さまに用意していただいたピカピカの本を机に置き、ウットリと眺めていた。
艷やかな獣革の表紙に、二股に分かれた尾の猫のシルエットが型押しされている。他の子のように金銀で飾り付けされてはいないけど、このくらいの装丁のほうが荘厳な雰囲気で素敵だ。
ローダさまはどんな豪華な本を準備してきたのだろうと思い隣に視線を向ける。彼女の手には藍染めされた革の本が握られていたけど、その本は何故かすでに黒ずんでおり、王女が用意させたものにしてはみすぼらしいものだった。
「みなさまご存知と思いますが、ラウドの書の写本はとても貴重なものです。授業用に準備できたのはこちらの十冊だけですから、二人か三人で一冊を見ていただくことになります。ご自分で用意できる方は是非お家からお持ちになってくださいね」
わたしは鞄からもう一冊の本を取り出す。主教さまからいただいた写本だ。所々インクが滲んでいたり破れたりとかなり使用感のあるものだけど、大体のお話は暗記しているから問題ないと思う。
先生は写本を用意できない人を十のグループに分けて、全員が写本を参照できる環境を整える。
わたしはちらりとローダさまを見ると、彼女は黒ずんだ一冊の本を握ったまま先生の方を凝視していた。
ローダさまは写本を用意してこなかったのかしら。当然のように用意してくるだろうと思っていたので、わたしは困惑した。わたしの写本を二人で見ることになるのかしら。それは別に構わないのだけど、こんなボロボロの本を見せてローダさまは大丈夫かしら。
「さあ、用意ができた方から始めてください。序文からですよ。慌てないで、落ち着いて、一文字一文字丁寧に……」
「先生」
フランシスカ先生の言葉を遮ったのは他でもない、ローダさまだった。彼女はピシッと手を天井に向けて掲げ、先生をまっすぐに見ている。
「な、なにかしら。ローディア様……」
「質問があります、先生」
「質問……ですか」
先生は明らかに動揺していた。おそらく去年の事件を思い出していたのだろう。去年の神学の先生、クロエ先生の授業中に起こったあの事件。ローダさまが国の禁忌である"前回の白子"について質問をした件だ。
「はい。質問です。先生、お答えいただけますよね」
「も、もちろんですわ。何かしら、ローディア様」
クラスメイトたちは固唾をのんで見守っている。静まり返った室内に、ローダさまの美しい声が響き渡った。
「わたくし、数年前にすでに写本を終えてしまっていますの。まさかもう一度写本しなさいとはおっしゃいませんよね」
「ああ……そうなのですね、申し訳ありませんわ、ローディア様。まさかすでに終了されているなんて……流石はローディア様ですわ。もちろんもちろん、二冊目の写本をするかどうかはローディア様の意思にお任せしますわ」
フランシスカ先生は安堵の笑顔を浮かべた。なんだ、そんなことか……と言いたいのが透けて見える表情だった。
張り詰めていた空気も緩み、クスクスと笑い声が上がり始める。ローダさまが手にしている本が汚れていたのは、すでに手が加えられたものだったからなのね。そうわたしが納得していたとき、ローダさまがさらに言葉を紡いだ。
「わたくしの意思にお任せいただけるのでしたら、先生。わたくしはこの時間に、旧約の書の写本がしたいですわ」
一瞬で空気が凍った。フランシスカ先生は、真っ青な顔をして固まっている。ローダさまはとどめを刺すように、もう一度声を上げた。
「わたくし、旧約の書の写本がしたいのです。先生は、旧約の書の存在をご存知ですよね? わたくし、閲覧するだけでも構いませんの。先生の権限で、どうにかならないかしら」
ローダさまの侍女たちが慌てふためいている。話を制止したいのだろうけど、今回のローダさまは腕を伸ばすくらいで話を止めようとしない。彼女たちはローダさまに対し失礼に当たる行為はできないので、それ以上の干渉は無理なのである。
「ローディアさま、申し訳ありませんが……アピス国にはそのような書は存在しないのです」
「嘘です。お父様が仰っていたもの。旧約の書はただの噂話じゃない、現存しているのだと。先生はお父様がわたくしに嘘を教えたのだと仰りたいのですか」
ローダさまは意地悪である。そんなことを言ったら、先生は否定することができない。国王陛下を侮辱することになるのだから。
彼女は明らかに、泣きそうな顔になりながら言った。
「へ、陛下がそう仰られたのでしたら、そうなのかもしれません。ですが、わたくしはただの一教員……そのような国家機密にあたるお話は存じ上げません……」
「修道院で神学の教鞭をとる先生は、いずれ大司教様となられる立場の方だと大臣から伺いました。民間に流布する禁書の管理に関してはお父様よりお詳しいのではありませんか?」
確かにカーミィたちの属するオルカ家は、リリムのサナトリム家と並ぶアピス国の名家である。先生は分家出身とはいえその身分は凄まじく高いだろうと推測できるので、大司教レベルになれてもおかしくはないと思う。
クラスメイトたちの好奇心が、一気に湧き上がった。みんながワクワクした表情で成り行きを注視している。
この『旧約の書』については昔から噂話が絶えず、修道院の生徒で耳にしたことがない人はいないのではないかと思うくらい有名だ。有名になりすぎて、主教さまが噂にするのを強く禁じた頃にはすべての人が知るものとなってしまっていた。
『旧約の書』とは、現在のアピス国神教の教典『ラウドの書』が書かれるより前に、この土地で信じられていた神さまの書のことである。
その書の存在は、ラウドの書の第一章『黎明』にも記されている。アピス国ができる前、この地はアシュリーという名前の国だったのだけど、その国では『アルスの預言書』という名の教典が存在した。人々がこの書の教えに背いたためにアシュリーは滅びたというのが黎明の章の概要だった。
おそらくこの『アルスの預言書』が、『旧約の書』として禁書指定されているという書なのだろうというのが、修道院に蔓延っている噂の本筋だ。
「わたくしはどうしても納得がいきませんの。ラウドの書にも書かれている、"主との古き約束の書"がどうして禁書呼ばわりされているのかと。ラウドさまもこの書の教えを守ることで主に認められたのだと主張しておられますよね」
「わたくしには分かりかねます……」
「お父様が仰ってましたが、アルスの預言書はアピス建国の際に焚書を命じられたためにアピスに存在しないことになっているのですよね。一体なぜそうなったのでしょう。いくら古い約束だといえ、神聖なる神さまの書を焚書するだなんて」
「わたくしには分かりかねます…………」
「それを拒否した神民が未だに隠し持っているものが旧約の書と呼ばれる禁書だという噂は本当なのでしょうか。どうして教会はそのことを隠すのでしょう」
「わたくしには……」
「でもラウドさまは、神官でありながらアピス建国の父でもありますよね。彼が許さなければ国は焚書などできないはず……。ラウドさまはどうしてそんなことを許可されたのでしょう」
「…………」
先生はついに耐えられなくなり、蒼白の表情のまま教室を駆け出てしまった。おそらく大教会に報告に行くのだろう。大変な騒ぎになりそうだ。
全く、国王陛下のお口の軽さには困ったものよね。
先生がいなくなったことで教室内は活気づき、クラスメイトたちはそこかしこで旧約の書の話に花を咲かせていた。
「ねぇねぇ、ローディア様。さっきの話ってホント? 旧約の書って実在するの?」
背後から聞こえた声に驚く。この声はリリムだ。珍しくリリムがローダさまに向けて話しかけている。
ローダさまは嬉しそうに笑って言った。
「本当よ。お父様が教えてくださったの。写本が完成したご褒美にと、わたくしにだけ特別に教えてくださったのよ」
「へー。さすがお姫様ねぇ……」
「ふふ。ありがとう、リリム」
リリムは少し含みのある言い方をしたけど、ローダさまは褒め言葉に受け取ったようだ。二人のやり取りは心臓に悪いので、できれば早く終わってほしい。
「それで、その書って国で保管しているの?」
「大教会のどこかにあると、お父様は仰っていたわ」
「へー、大教会……。大教会の偉い人なら読めるってこと?」
「わたくしはそう考えています」
「…………」
わたしは急に寒気に襲われた。リリムの視線がわたしに注がれる。それにつられて、クラスメイトもローダさまもこちらに目を向ける。
「カノンって白子よね。白子って大教会ではかなり偉い立場なんじゃないの?」
「確かにそうですわ。カノンなら読めてもおかしくはないです。ラウドさまと同じ白子なのですから」
ざわ、ざわ……。教室内がざわめきに満たされる。しかもその中心にいるのはわたしである。非常に嫌な雰囲気だ。わたしは脂汗をかいていた。
「カノン。あなたは旧約の書を読んだことはある? 主教さまはその書のことをなんと仰っているの?」
「えっと、その……」
「カノンなら知らないはずはないわよね。いずれ神官になる身ですもの。アルスの預言書を嗜んでおいて悪いはずがありませんわ」
「いえ、その……」
「迷えるわたくしたちを導いてくださいまし。カノン」
「…………」
この空気はまずいのではないかと、思う。
正直なところ、わたしは旧約の書というものを知らない。噂になっているのは知っているけど、知っているのはそれだけだ。そしてその噂を主教さまがよく思われていないことも知っているし、話題にすることを禁じていることも把握している。
みんな勘違いしているようだけど、わたしは主教さまに"普通の子供"として扱われている。むしろ普通の子供よりも普通の子供でなければならない。普通の子供と同じく旧約の書の噂話をしてはいけないし、その真偽を確かめようなんて行動を起こしてはいけない。そしてクラスメイトたちに、このように注目を受けてもいけない。
うまく言葉を発せられないわたしに、さらなる好奇の視線が突き刺さる。わたしの舌はもつれ、余計に言葉が出てこない。
どうしたらいいの。わたしはパニックを起こしていた。とにかくみんなを落ち着けて、わたしから興味を逸らさなければ……。
「みんな、落ち着いてよ。カノンが知るはずないでしょう?」
教室に響き渡ったのは、わたしの声ではなく、リリムの声でも、ローダさまの声でもない。
「よく考えてよ。黄昏の章に書いてあるでしょう? カノンは普通の子供なの。貴族の子供よりも普通に育てられなきゃならないの。旧約の書なんて読めるわけがないでしょう!」
立ち上がってクラスメイトの視線を浴びていたのは、わたしに良く似た少女、シノン姉さまだった。
「お父様は今までカノンを特別扱いしたことはないわ。私のほうが可愛がられているくらいよ! だからもし大教会に旧約の書があったとしても、カノンが特別に読ませてもられるわけがないわ。お父様はそういうところ、すごく厳しいから」
姉さまの話には説得力があり、みんなすぐにわたしから興味を無くした。
姉さまが大教会のトップであるオズワルド主教さまの娘であることは、誰もが知る事実である。だから彼女の話を信じない人は、この場に誰もいなかった。ローダさますらわたしに向けて謝ってくれ、教室内はすぐに穏やかさを取り戻した。
わたしは安堵して、姉さまの方を見た。彼女はわたしにウインクを送り、すぐにリリムとアイリスとの雑談に戻った。
わたしの心は幸せで一杯だった。わたしが困ったとき、いつも姉さまは颯爽と助け舟を出してくれる。ローダさまに捕まって離れ離れになっている今も、姉さまの気持ちは変わらない。わたしの姉さまは、ずっとわたしの姉さまなのだ。