第二十四話 もう一つのミッドウェー
お待たせしました、いよいよ第二章最終回です。
ふいに切れるマストのワイヤー、黒く染まった髪を撫でるどこか寂しげな風、突如襲う、胸が締め付けられるような切なさに、ヨークタウンはバイソンの身に何かが起こったことを知る。
「バイソンさん」
多数の航空機の交錯する戦場の空を見上げたまま、彼女はもはや持ち上げられない左手の代わり、傷の少ない右手をその胸にあて、戦場のど真ん中、必殺の刃を抱いた爆撃機が目前に迫るその場所、その状況で、ほんの一瞬、瞳を閉じる。そうして暗転した視界に浮かぶのは、つい先ほどヨークタウンを飛び立つ前、最後に彼の見せた笑顔。
大丈夫、なんて気休めは言えない。現実はそんなに甘くない。相手のいることだから。だが、死なないように、全力を尽くす。だから、その涙は帰ってきたときのために、とっておいてくれ。
次の一瞬、ヨークタウンは再び目を開け、迫りくる敵機を睨む。
今はただ信じる。そして自分の全てを、今この一瞬、彼のために。
「面舵一杯!」
叫びと共に一杯に切られる舵。その直後、視線の先で急降下を開始する敵機。元が数万トンの巨体の上、数千トンに及ぶ浸水でさらに鈍重となったその身では、いくら彼女が力を振り絞っても本来の速力を発揮することはかなわず、進路も容易に変わらない。必死に撃ちあげられる機銃の閃光が急降下する機体のうち一つを捉え火を噴かせる。が、後続する機体は撃ちあげられる閃光を逃れ、あるいは被弾に耐え、本来爆弾を切り離すべき高度のさらに低空より、必中を期して刃を放つ。
何度聞いても耳からはなれない、甲高い死神の囁きが空を穿つ。直前になってようやく進路を変え始めた彼女の巨体のすぐ左脇を必殺の刃が掠め、小さな水柱を上げ海面に突き刺さった後、海中にて巨大な爆発を巻き起こす。真っ黒な海原が突如盛り上がった後、水柱を上げ、巻き起こったうねりと衝撃が、金属でできた彼女の横腹を殴打する。その瞬間、金属の外板がアルミ缶のようにたやすく陥没し、生じた隙間から海水が侵入し、いっそう隙間を裂き広げ、瞬く間に区画から空気を追い出し空間を満たしていく。
左わき腹に新たに走る激痛、それと共に先ほどにもまして重くなる体。新たに溢れ出す黒いしみを抑えることもできないでいるうち、さらに左わき、先ほどよりさらに接近した位置に再び上がる水柱。立て続けに走る激痛と衝撃に息を詰まらせながら、それでも彼女は傷口を抑えることすらせず、迫る敵機を睨み、閃光を撃ちあげ続ける。徐々に接近しつつある至近弾の爆音が、そのまま自身に歩み寄る死神の足音だと知っているから。
次はない。そう撃ちあげられる閃光は、急降下する敵機を捉え、火を噴かせる。だが敵機は上昇も、爆弾を切り離すこともせず、そのまま彼女にむかって、ただまっすぐ突っ込んでくる。その瞬間彼女の脳裏によぎるあの日の光景。魚雷を切り離したのち、まっすぐ彼女の艦橋に突っ込んできた敵機の姿。
次の一瞬、火だるまの火球と化した敵機は、それでも爆弾を腹に抱えたまま彼女の柔らかい甲板を貫き、その数万トンの巨体の奥深くまで大事に抱えてきた刃を叩き込む。その一拍の後、敵機の突入で小さな炎の上がった甲板を、内部から黒煙と火柱が吹き飛ばす。それと同時、ヨークタウンの両膝に激痛が走ると、次の瞬間には立っていられなくなり、受け身を取ることもままならないまま、床に強かに体を打つ。
衝撃と激痛に一瞬真っ白になる意識。だが次の瞬間には状況を把握せねばと自身の両膝を見る。だが痛みという感覚すら鈍くなりつつあるその足は、膝から下があらぬ方向に曲がり、もはやつながっているだけで自身の体の一部とすら呼べないほど、ままならなくなっている。同時に肺の辺りにも激しい圧迫感と痛みが走り、大きく息を吸おうとすれば逆にむせ返って貴重な空気を失ってしまう、生命活動を維持するだけの呼吸すら精一杯という状態に追い込まれていた。もともとがオーバーヒート寸前まで酷使されていた機関。装甲で守られていても、直撃の衝撃に耐えられなかったのだ。
機関がやられた、もう動けない。それを理解していながら、それでも彼女は必死に、動け、動けと足と機関に力を入れようとする。だがどう力を入れようとしても、動くのは膝から上のみ、機関も一部がわずかに稼働するが、とても浸水で重くなった巨体を動かすような推進力は生まれない。そのうち、続けて降下してきた敵機の放った爆弾が至近弾となって再び彼女の脇腹を殴打すると、そのわずかな推進すらもままならなくなる。
程なくすべてのスクリューが止まり、それまで度重なる大損害にも足を止めなかった彼女の巨体が、ついに敵前で制止する。あとは残り少ない対空砲で悪あがきをするか、期待薄ながら機関の回復に努めるほかない。敵の手に落ちる前に自沈することも有力な選択肢となってくる。
それでも彼女は、まだかろうじて動く右手と両膝で重油に黒く染まった床を捉えると、両膝に走る激痛をこらえ、重油に手を滑らせ一度床に体を打ちながら、再び床に手を突き直し、何とか身を起こし、壁に背中を預け上体だけでも起こした状態にする。迫る敵機をその目で睨むために。
そんな彼女の霞む視界の中、新たに3つの機影が連なるように彼女に対し急降下を開始する。機影に対し機銃を撃ちあげようと右手に力を込めるが、それまで動いていた右手すらも、今や持ち上げることができない。生き残っていた右舷の対空砲も、先ほどの至近弾でほぼ壊滅状態となっていた。
もはや睨み、祈ることしかできない。全身から鈍く伝わる激痛、朦朧とする意識、力の抜けていく体。その感覚は、あの日、最後に潜水艦の魚雷を受けたあの時に似て、だからこそ、
「まだ……まだ」
もはや呼吸することもままならない身で、それでも生きる力を振り絞って、残り少ない息と引き換えに、気力を声ととも振り絞る。
「私は……死なない」
息も絶え絶え吐き出す彼女、そのぼやけた視界一杯に大きく映し出される敵機。高度もあとわずか。それでも彼女は息をするのも忘れ、あらんかぎりの力を振り絞った。
「死ねない!」
その時、文字通り目前まで迫った敵機に、突如もう一つの機影が横合いから突っ込むと、オレンジの閃光を放ってすれ違う。その次の一瞬、目前まで迫っていた森羅軍機は猛烈な火を噴き空中で分解し、その機に続いていた敵機も、本来爆弾を切り離すべき高度よりはるか高い位置から爆弾を切り離し、そのままなにかから逃れるように上昇を開始する。が、次の一瞬には別の機影が横合いから突っ込み閃光を浴びせ、こちらも煙を吐く。
本来より高い高度から切り離された爆弾は精度を欠き、至近弾とも呼べないような位置に水柱を上げる。そんな中、敵機に横合いから襲い掛かり、ヨークタウンを救ってすれ違った機影はそのまま、低空から接近しつつある敵雷撃機に向かっていく。ぼやける視界に映し出されるその機影は、ヨークタウンの戦闘機とまったく同じ外見で、だがそれが自身の搭載機でないこと、そしてそれが誰の搭載機か、一目で彼女は理解した。
「まったく、待ちくたびれたわ。でも、ちゃんと間に合ってくれた。ありがとう」
あつくなる目じりからあふれ出す何かにさらにぼやけていく視界の中、後続して彼女の上空を通り過ぎていく機影の中の一つが、発光信号を放つ。
遅れてごめん。 エンタープライズ。
「あなたがきてくれたなら、もう大丈夫」
腕を持ち上げ、ぼやけた目をこすることすらままならない身で、それでも彼女は微笑みを浮かべて見せる。だが間に合ったことによって救われたのは彼女だけではない。そして間に合うだけでは足りない。本当の意味で彼女が救われなければ、救いに来た者もまた救われない。
20機以上はいようかという救援の戦闘機隊は逃げる敵機はおろか、護衛の戦闘機にすら目もくれず、低空からヨークタウンに迫る魚雷を抱いた攻撃機のみを狙い突撃を仕掛ける。森羅の戦闘機はこれを阻止しようと性能に劣る機体を駆り果敢に応戦するが、救援の戦闘機は機体性能と数にものをいわせ、多くが護衛の巧みな機動による反撃を強引に突破し、低空の攻撃機に肉薄する。森羅軍攻撃機も海面すれすれの超低空飛行と旋回機銃によって健気に対抗するが、いかに彼らの熟練の技量をもってしても、生きた本物の戦闘機の追撃を重い魚雷を抱えたまま逃れるのは至難だ。ましてこの攻撃の中、満足な雷撃隊形を構築することなどできるはずがない。
この頃、バイソン機に向かっていたエース機の一機、三日月と狼のエンブレムの機体はバイソン機への攻撃を切り上げ、攻撃機の護衛にあたっていた。だが護衛が突破され、攻撃機隊は編隊を乱し各個逃げ回る現状では、編隊を組んでの雷撃はおろか魚雷の発射地点まで到達させることも難しい。これではいかに目標が動きを止めているとはいっても、攻撃の成功は期待できない。それを瞬時に判断すると、エース機は無暗に敵機に突進せず、近くにいた森羅軍上官機の脇によって身振りで撤退を進言する。
上官機もまた同様のことを考えていたのだろう。事ここに至り、これ以上の攻撃は無謀でしかない。帰還後の非難は甘んじて受け入れる。上官はそんなことを言いたげな表情を浮かべると、積極的な護衛を諦め近くにいた残存機をまとめ、退避を開始させる。一方で自身は退避していく味方を見送ると、味方機を護衛しきれなかった責任を取るかのように、戦闘を継続している味方を支援すべく戦場に引き返す。それを見たエース機もまた、敵機の追撃を阻むべく戦場に引き返す。だが彼に死ぬつもりは毛頭ない。敵機の追撃を阻み、必ず戦場に戻ってくる。その精神こそが、彼をエースたらしめているものだった。
低空を突進し続けていた森羅軍攻撃機も、一機、また一機と撃墜され、あるいは被弾し攻撃を諦め、魚雷を投棄し退避を開始する。中には魚雷発射地点に到達する前に苦し紛れで魚雷を発射する機もあったが、そんな攻撃が命中するはずもなく、雷跡は明後日の方角を駆け抜ける。そうして退避する攻撃機を、ヨークタウンと援軍の戦闘機は当然追撃しようとしたが、戦闘においてもっとも損害が出るのが追撃であることを知る森羅軍戦闘機は、戦場に残ってこれを阻んだ。
さらにこの時、もう一機の森羅軍戦闘機が戦場に戻り、攻撃機を追従しつつあったヨークタウン側の戦闘機に対し、低空から上昇しつつすれ違いざま一連射を射掛け、煙を噴かせる。それはほかでもない、バイソン機を攻撃したもう1機のエースだった。2機のエースが戻った時、森羅側の戦闘機隊は息を吹き返し、戦場に残ったわずかな機数ながら、無線を用いない以心伝心の連携にて逆襲する。ヨークタウンと援軍の戦闘機は数と機体性能で勝っていたが、敵の護衛を無視しての強行突撃で意外にも損害を出しており、戦場に残った森羅側戦闘機の勇者の奮闘を突破することができなかった。
程なくヨークタウンと援軍の戦闘機は追撃を中止して戦闘機を呼び戻し、森羅側もわずかな生き残りをまとめ退避する。森羅側は攻撃が失敗したにもかかわらず、退避の決断が速かったことと、戦場に残った戦闘機隊が追撃を阻止したことにより、損害は意外にも最小限に抑えられた。一方でヨークタウン側は援軍の戦闘機隊の到着により圧倒的有利に立ちながら、敵の護衛を無視しての突撃が響き、艦載機の損害は大きかった。だがヨークタウンの受けた損害は爆弾を抱えた一機の体当たりのみで、魚雷はついに一本も命中せず、首の皮一枚で森羅軍艦載機の攻撃を退けることに成功した。
夕日が水平線に沈もうとする頃、救援の戦闘機隊と、わずかに生き残った自身の艦載機が上空に戻ってくる。だがもはや1ノットの速力を発揮することもかなわない彼女では、彼らを着艦させるさせることはできない。それでも彼女はぼやけた目を凝らし、帰ってきた機体の中に必死に彼を探し求める。
見つけるのができないのはそこに彼がいないからではない。視界がかすんでいるから、暗くなる景色にシルエットになってよく見えないから。動かないこの手を持ち上げて目をこすることさえできれば。そこにきっと彼はいるから。そう自分に言い聞かせながら、しかしもう一人の自分は冷静に、冷徹に、答えを導いていた。
いかに視界がかすんでいても、シルエットになっていたとしても、自身の艦載機を見分けられないような私ではない。彼の機体を見つけることができないのは、そこに彼の機がいないからだ。
理解している。それでも必死に、瞬きもせず目を見開いて、唯一動かすことのできる瞳を、必死に上下左右に動かす。そのうち目じりが熱くなって、ぼやけた視界が一層溢れ出すそれに霞んで、ついにぼやけた夕闇のかすかな光を映し出すのみとなった時、彼女の耳に、これまで何度も耳にした死の足音が再び響き始める。ヨークタウン上空にて旋回していた戦闘機隊があわただしく動き始め、そのうち一機が発光信号にて、ヨークタウンに迫る危機を伝える。
左舷に潜水艦。
信号より先、ヨークタウンはその接近を察知していた。察知していても、いまや指一本動かすこともままならない彼女の体では、必殺の間合いに迫りつつある潜水艦から逃れるすべはなく、左舷の対空砲も全滅しており、もはや悪あがきすることすらできなかった。
潜水艦の魚雷。それはくしくも、前世で彼女が沈んだ時と同じ状況。唯一違うのは、隣にハムマンがいないこと。
これでよかったのかもしれない。
耳元に死の足音が迫る中、彼女はぼんやりと思う。あの時は彼を道ずれにしてしまった。今はそこに彼はいない。生きている確証はないが、もしかしたら不時着して助かっているかもしれない。少なくともあの時と同じように私の道ずれになれば、確実に助からないのだ。それよりはましだ。
ああ、今度は死ねる。誰も道ずれにせず、一人きりで。助けに来てくれたエンタープライズはついに救えなかったけれど、それでも、あの時よりは……
だがそう思ったその時、不意に思い出される彼の姿。飛び立つ前、最後に見せた笑顔。あの日最後に魚雷を受けた時、隣で真っ二つとなり沈んでいきながら、それでも言ってくれた言葉。
生きて。
「……ね……い」
もはや言葉にもなっていない、ただかすれた息を吐き出しながら、力の入らない全身に、心の底から湧き上がる熱い何かをみなぎらせる。
「……ね……ない」
あの日、そんな言葉を聞いて、それでもあきらめてしまった自分への怒り。世界を飛び越え、それでも自分を救いに来てくれた妹、エンタープライズへの感謝。何より、生きる意味をくれた彼のために。
「死ねない!」
足が動かないなら、這えばいい。それもだめなら、転がってでも、体を震わせるだけでもいい。醜くていい、かっこ悪くていい、恥ずかしくていい。最後の一瞬まで己の全てを、いや最後の一瞬など来ない。成し遂げられないのは諦めるからだ。必ず生き残る。そう、湧き上がる精神力だけで、沈黙した機関に再び負荷をかけようとした。
その時、それまで彼女の耳元に迫っていた死の足音をかき消すように、低空から別の音が響き始める。その音は上空を旋回する戦闘機のものとは異なり弱弱しく、だが確実に耳元に近づいてくる。思わず目を見開けば、ぼやけたままの視界に、しかし確かにそれは映し出される。
彼女、ヨークタウンがこの世界に再び生を受けた意味が、確かにそこにあった。
鮮血に赤く染まった風防越し、夕日の沈んだ薄暗い海面に、確かにバイソンは目標を捉える。
「しつこい奴ら、め……」
わずかに呟くうち、走る激痛。12.7ミリ弾を被弾した際、飛び散った破片が体中に突き刺さり、左足に至っては破片が完全に貫通し感覚すらなくなっていた。だがこの被弾でエンジンをやられたおかげで、敵のエースはバイソンを無力化したとみなし、見逃してくれた。試合に勝って勝負に負ける。エンジンをやられた時点で、空戦の勝負としては負けだ。だがそれはあくまで空戦として、エース対決としての話だ。そして空戦が終わっても、試合はまだ終わっていない。
バイソンの視線の先で潜水艦が潜望鏡を上げ、動きを止めたヨークタウンの横腹に狙いを定める。上空を舞う戦闘機や対空砲をやられたヨークタウンは、もはやそれを眺めることしかできない。潜水艦への攻撃手段がないのだからしょうがないのだが、バイソンはただ黙って眺めているつもりなど毛頭ない。
機銃掃射では十分な損害を与えられない。そう判断すると、敵艦の位置と自機の進路を正確に判断し、脳内で簡単な計算まで行い、機体の進路を調整する。満足に動かすこともままならない体でなんとか機体を操り、進路の調整を終えると、進路がずれないよう細心の注意を払いながら落下傘の準備をし、風防を開ける。二兎を追っていることは理解していた。それでも彼女のために、死ぬという選択肢は最初から彼の中にはなかった。
機体は消耗品。口ではそう言いながら、これまでどれだけ被弾しても一度も手放さなかった愛機。
「ありがとう。さようなら」
猛烈な風が吹き込む中、満足に動かない体で、力いっぱい操縦席を蹴る。そんな彼に、離れていくエンジン音が別れを告げているようだった。
空中で錐もみになる中、慌てて落下傘を広げると、急激に肉体に襲い掛かる、海面に体を引こうとする重力と、それに反発する浮力。だがそれもほんのわずかの間で、すぐさまその肉体は海面に叩きつけられる。脱出した高度が低すぎたのだ。
海面に激突した勢いのまま、水中に引き込まれる体。全身襲う激痛。瞬く間に水を吸い、重くなる衣類。それでもバイソンは暗い海中で歯を食いしばると、残された力でまだ動く体を必死に動かし、海面を目指す。その速度はじれったいほど鈍かったが、バイソンはついに最後まであきらめなかった。
しばらくの後、彼がうねる海面に顔を出すと、その視線の先の海面で炎が上がっているのが見える。それはちょうど、潜水艦が潜望鏡を上げていたあたり。バイソンは機を脱出しつつ、敵潜水艦に機体をぶつけようとしたのだ。
その結果がどうなったのかはわからない。だが彼の見つめる先、燃え上がる炎に照らされる海面を白い4本の雷跡が走り、動きを止めたままのヨークタウンに向かう。例え機関が復旧したとしても、もはや今からでは間に合わないだろう。
ヨークタウンに迫る雷跡を、バイソンはただ見つめ続ける。上空を舞う戦闘機が数機、上空から降下し機銃を射掛けるが、雷跡は止まらず、そのままヨークタウンの横腹に向かう。その吐き出す白い泡の筋の先端が、彼女の横腹に達するまで、あと数秒。
バイソンはその瞬間も、最後までそのおだやかな微笑みを絶やすことなく、彼女を見つめ続けた。
そして4本の死の槍が、彼女の巨体と交錯する。
うねりが彼を再び海中へ飲み込む。左足の動かない体では海面に浮かび上がるのも至難だが、彼はものともせず、手を伸ばす死の手中から逃れ、再び顔を海面に出す。海水にぼやけた視界、夕闇に染まった景色。その中でシルエットと化しながら、しかし彼女はその数万トンの巨体と共に、そこにたたずみ続けていた。
バイソンには最初から勝算があった。潜水艦が潜望鏡を出したその位置は、ヨークタウンの横腹という絶好の位置に見えて、実際には間合いが近すぎたのだ。もしバイソンが何もせず、潜水艦側が冷静に間合いを取り直していたなら、攻撃は成功していただろう。だがバイソンの攻撃で潜望鏡、あるいは船体の一部にダメージを受けたか、そうでなくとも冷静さを欠いたか、いずれにしても潜水艦は間合いを取り直すことなく雷撃を強行し、その結果魚雷はヨークタウンの艦底を潜り抜けた。
そして程なく、それまで動きを止めていた数万トンの巨体は唸りを上げ、ゆっくり、だが確かに海水を蹴り、うねる海原を切り裂き驀進を始める。こうなれば潜水艦に再攻撃の余裕はない。それは単なる幸運によるものではなく、最後まであきらめなかった彼の執念がもたらした勝利だった。
「攻撃隊より入電。敵空母に対し爆弾2命中ほぼ確実。魚雷命中と思しき火柱を見とむ。その他至近弾多数を確認し、戦闘機多数を撃墜せしものの敵艦の撃沈は確認できず」
「索敵機より報告。敵艦隊は正体不明空母に向け南下、北上した我が水上部隊の進路を阻むような航路を取っており、このままだと夜戦の公算大とのこと」
空母霊岳にもたらされた報告に河合は瞳を閉じる。森羅側はこの時点で空母月狼が大破航行不能、天狼も自力航行は可能だが戦力としては期待できず、生き残った霊岳、雲岳も船体はほぼ無傷ながら艦載機の損害は甚大であり、事実上空母戦力は残っていなかった。
索敵によれば敵はいまだ空母一隻を温存しており、基地航空隊も徐々に復旧を始めている。戦艦を中核とした水上戦力は無傷であり夜戦なら勝機は十分だが、朝になって敵の航空攻撃が開始されれば、基地航空隊の支援を受けたとしても、満足な活動はできない。当然上陸作戦など夢のまた夢だ。むしろ今夜のうちに艦隊を撤収させねば、さらなる損害は免れない。
河合は現状を正しく、冷静に把握すると、黙ったまま首を横に振る。それを見た幕僚達もまたその意図を察知すると、悔しげな表情を浮かべながらもそれぞれの行動を開始する。
その夜、森羅側は多数の水上艦艇を無傷で温存しながら積極的に夜戦を仕掛けることなく、傷ついた空母を戦艦で牽引し、かばうようにして撤退を開始。メーム側もこれを追撃しなかったため夜戦は発生しなかった。翌日も互いの基地航空隊による小規模な交戦があったものの大規模な戦闘には至らなかった。
この決戦にて森羅側は多数の水上艦艇を無傷で温存しながら、中核である空母のうち2隻が大破。残る2隻も艦載機に甚大な損害を受け戦闘力を失い、世界最強を誇った機動部隊は事実上壊滅した。一方で撤退が迅速であったことと、メーム側が積極的追撃を実施しなかったことにより、誘爆大破した月狼を含め全ての艦が撤退に成功した。
一方のメーム側は駆逐艦一隻が轟沈したほか、軽空母、重巡洋艦各1隻が雷撃処分。他に多数の損傷艦を出したうえ、空母、基地共に航空隊の損害は甚大であった。喪失した艦の数からいうならメーム側の方が損害は大きかったが、レベイル島防衛という戦略目的を達成し、戦術的にも世界最強を誇った敵機動部隊を無力化したことで、海戦の総合的軍配はメーム側に上がった。
両軍とも多数の死傷者を出す一大決戦となりながら、沈没した艦艇はごく少数のみ。森羅側に至っては海戦に敗れたにもかかわらず喪失艦は1隻もないという稀有な結果に終わったこの海戦は、のちに第三次レベイル沖海戦と呼称されるようになる。
宙にかかる小さな月が、どこまでも果てしなく広がる闇の世界を、はるか永遠の彼方まで照らし出す。闇と月明かりに覆われた世界の中、吹き抜ける海風とうねる波の音が、傷ついた彼女の甲板を優しく撫でる。
「ヨークタウン」
動かない左足の代わり、カッターのオールを杖代わりにし、バイソンは艦橋からヨークタウンの甲板に出、その名を呼ぶ。着水の後、ヨークタウンから出された小型艇に乗って帰還した彼は、動かない左足を引きずり、艦内を半ば這うようにしてそこにたどり着いた。
月明かりに浮かびあがる影の世界。あちこちめくれ、あるいは落ちれば二度と戻れないような暗い大穴を穿たれた甲板。傷つき、荒れ果てたその世界を見渡た後、彼はふと、つい今しがた自身が通ったばかりの出入り口の方を振り返る。
果たしてその出入口の脇、艦橋側面の壁に背中を預け、彼女は月のかかった宙を眺めていた。
「ヨークタウン」
身に着けた衣類はズタズタのボロボロ。全身隙間なく傷だらけで、蒼と白だった衣類、金の髪、透き通るような白い肌、そのすべてが、赤い血の代わり流れ出る黒い重油に染まる。左目はひどいやけどに覆われ、足に至っては膝から下があらぬ方向に曲がってしまっていた。
それでも彼女はまだ開く右目を見開き、宙にかかる月を穏やかな表情で眺める。
「最後の晩の月も、こんな風だった。でもあの時と同じ月なのに、なぜだか今日の月は、あの時よりも暖かくて、愛おしい」
そう呟いて、彼女はゆっくり瞳を閉じる。その目じりから透き通った滴があふれ出、青白い月の光にほのかに照らされた白い肌を、最初はゆっくり、だがやがて速度を増し、一気に流れ下った。
バイソンはその場に膝をつくと、人とまったく同じ外見ながら、全く人と異質な冷たく重い金属質の感触を持つ彼女の上体を、その太い筋肉質の腕でぐっと抱き寄せる。身長190センチ弱という長身の彼女も、今は傷つき、弱り切った、一人のか弱い少女に過ぎない。抱き寄せたその体の感触は、やはり銅像を抱きしめているかのように無機質なようで、しかし彼はその感触の中に、確かに彼女の鼓動を感じたような気がした。
「……痛い」
耳元で呟かれる言葉に、バイソンはどきりとして抱きしめた腕を緩める。もとより傷ついた彼女をさらに苦しめるのは本意ではない。だが傷ついた彼女の姿を見、湧き上がるあまりの愛おしさに、そうせずにはいられなかったのだ。
だが腕を緩めた彼の見つめる先、彼女は開く片目でじっとり彼を睨めつける。
「見かけによらず大胆ね」
かけられる言葉に心の内から熱いものがこみ上げ、体がどんどん火照るのを感じる。それは感動とかそういうものではなく、単に羞恥心からくるもの。
「いや、あの、これはその……」
ほんの数秒の内、気温によるものとは違う、脳の内から湧き出す溶けるような暑さに、頭の中は真っ白、ろれつはまわらず、体中から戦闘中のものとは違う汗が吹き出す。そうして回らなくなる思考の中、あの日初めて出会った時の彼女のようだなどと、どうでもいい感想が脳裏を巡り、懐かしさが彼に再び微笑を呼び戻す。
「……でも、帰ってきてくれて、ありがとう」
その時、傷だらけで上げることもできなかったはずの彼女の右腕が彼の背中に回され、どこに残されていたのかもわからない力で、その襟元をぐっとつかむ。
「でも痛かったから……、これはお返しね」
その一瞬、彼女はどこかいたずらっぽい、もっとも彼女らしい笑顔を浮かべる。
そして直後、回された腕に力を込めると、バイソンに反応する間すら与えずその体を引き寄せ、その唇を奪って見せた。
夜の闇が昼の喧騒を退け、波の音だけが真っ白となった意識の中を流れていく。
身じろぎすることもできなかった。彼はただ世界で一番熱くて甘い、その一瞬を感じ、受け入れた。
程なく、だが永遠にも似たその一瞬の後、彼女は離れ、もう一度彼を見つめる。
「全く、いい年して、いいガタイして、大の大人の軍人がこんな小娘の奇襲を受けてるようじゃあだめ。これは私のもとで修業が必要ね。
いい、あなたが一人前になるまで、私を降りることは許さない。いや、一瞬でも私から離れちゃあだめ。いついかなる時も、私の隣にいて、歴戦にして不死身の空母たる私の戦いを見て学ぶこと。でも見てるだけじゃダメ。軍人として、紳士として、人間として、か弱い少女を最後までエスコートすること。そして時にはかっこいいところを見せて、心をわしづかみにすること」
そう、全身傷だらけで動くのも精一杯の身とはとても思えない、自信と力に満ちた表情と声で言って、しかしそこで言葉を止めると、そんな自信に満ちた表情を崩し、傷ついたか弱い少女の表情を浮かべ、潤んだ瞳を上目づかいに尋ねる。
「できますか?」
その言葉は、内容と裏腹に願いに似て、だからこそ彼は、きっと一生彼女には敵わないだろうと思った。
「ああ、必ず」
そう、月明かりを写しだす彼女の蒼い瞳に視線を注ぎ、再びだらりと落ちた彼女の右手を強く握りしめる。戦いで傷ついた彼女の姿はともすれば化け物のようですらあったが、彼にとってはだからこそ、この世にたった一つ、かけがえのない存在だった。
ご愛読ありがとうございました。 極東の海の女王はこれで大きく一区切りとなります。他作品執筆のため、続きは最短でも1年以上書くことができないと思います。続きの構想は一応あるため完結とはしません。再開の見通しが立った場合、この場で報告させていただきます。
極東の海の女王は私が小説家になろうに投稿した二つ目の作品で、最初はもっと短い作品とする予定でした。一年以上をかけた長編となったのは、書きたい物語がたくさん頭に浮かんできたこと、そして何より、みなさんが作品を読んでくださり、総合評価が上がっていくのがうれしかったからです。でもそれが原因で、少し寄り道しすぎてしまった部分もあります。ですからまだ描き切れていない物語がたくさんありますが、今はあえて一旦筆をおきたいと思います。
今までつたない文章表現、作者の都合による投稿間隔のずれ、延長、度重なる文章修正に付き合い、これまで極東の海の女王を愛読してくださった皆さん、本当にありがとうございました。
2017年10月24日。新作できました。ジャンルもストリーの方向性も違いますが、よろしければご覧ください。https://ncode.syosetu.com/n5480ei/




