千円の値札と家庭訪問
僕とリナは、朝から二件の仕事を片付けて、予定より少し早く店に戻った。
「ちょっと早く帰れたし、片付け前に一息入れよう」
僕が声をかけると助手席のリナは微笑んで、「おう、そうだな。今日は忙しかったもんな」と言いながら、まごころ源号から降りる。
まごころ源号から降りると「たしかに、忙しかったな……リナのおかげで早く片付いたよ」と彼女をねぎらう。
チリンチリンと小気味いい音を奏でる扉を開くと、売り物の陳列が変わっているのが目に入った。「朝と違うな……」と見回すと、新品のようなジュースミキサーが陳列に加わっていた。
その時代を感じさせる花柄の本体を見て「これって、リサが修理してたやつだよな……」と手に取ろうとしたとき、背後から突然「そうです!」と聞こえてきて驚いた。
振り向くと、目の前にリサが立っている。しかし、近い……なんでそんなに近づいてから声をかけたんだ?固まった僕をおかしそうに見たリサは、ジュースミキサーを手に取り、渡してくれた。
「あの分解されていたやつが、こんなにきれいになるんだ。リサはすごいな……」
まじまじとジュースミキサーを見ている僕に、リサは「修理が終わりましたので販売を開始しました。どうせ客は来ませんけど……」と言い放つ。な、なんて、失礼な……年に五人くらいは来るんだ。
「でもさ……」そう言って僕は値札に視線を落とすと、「千円は安すぎないか?せっかくリサが修理したんだから、もう少し高くてもいいと思うけど」と続ける。
リサが首を傾げて「いくらくらいでしょうか?」と問いかけてきたので、「五千円とか一万円でもいいと思う」と答えると、彼女は悲しい目で僕を見て、「それでは売れません」とこぼし、寂しそうに顔を伏せた。
「売れなくてもいいんじゃない?リサが心を込めて修理したものを、僕は安売りしたくない。そんなことをするくらいなら、売れないほうがいいよ」
僕はジュースミキサーを陳列台に戻すと、その値札を剥がした。「マスター……いいのですか?」と戸惑うリサに剥がした値札を渡し、「いいよ……」とだけ答えると、リサが手にした値札をあごで指した。
「その値段では、リサの努力を安売りしているみたいで、僕の気分が悪い」
一瞬見開いたリサの目が、潤み始め、僕をじっと見つめた。
「マスターがそんなに私のことを大切に思ってくださっているなんて……」
「大切?たしかに大切だよ。でもそれは……」と言いかけた僕の唇をリサの指がそっと触れた。
「言わないでください……それ以上聞くと、私……いままでのことを後悔してしまいそうです」
リサの指が唇から頬へと、撫でるように移動した直後、両手を僕の頬に添え、彼女は小さく首を横に振る。
「わかったよ、リサ。でも一つだけ教えてくれないか?」僕が問いかけると、彼女は目をそらして「はい。一つだけなら……」とつぶやいた。
小さくうなずき、「リサが修理してくれた草刈機だけどさ……」と切り出したとき、リサが目を見開いた。きっと、今聞けばきっと正直に話してくれるはずだ。「グリップについている、あのボタンは?」僕が尋ねると、リサはゆっくりとまぶたを閉じて少しうつむいた。
「あれは……マスターモードの一時解除ボタンです」
リサの口から出たのは、予想の斜め上を行く言葉だった。
「マスターモード?」首を傾げる僕に一瞬視線を向けたリサは「はい……」と小さくうなずいた。
「マスターがついうっかり自分の首を刈ってしまわないように……ブレードの進行方向にある物を感知して回転を制御する機能です」
——ついうっかり刈ってしまうものが極端すぎる気もするが、まあ今は置いておこう。
「そんな機能がついていたんだ。ようやくあの草刈機のことを理解できた気がするよ」
妙に納得した僕の表情をリサは横目でうかがいながら口を開く。
「ですが……マスターモードのせいで刈れないものがあっては困ります」そう言ってリサは両手を僕の頬から離し、小さくため息をついた。「本当はつけたくなかったのですが、一時解除ボタンをつけました……ごめんなさい。マスター」
どんなにいい機能でも、解除ができないと困ることもあるのは当然だと思うが、なぜリサは謝ったんだろう?
「いいんだ、リサ。さっき、僕がリサのことを大切に思っているって言ったよね。それはリサも同じじゃないか。僕を大切に思っているからこそ、あの草刈機は高性能になったんだろ?」
僕に向いたリサの表情は少し明るさを取り戻していた。
「はい。マスターのことを思いながら、マスターモードを搭載しました」
はにかむように微笑んだリサに、「ありがとう。リサ……」と感謝の気持ちを伝えた。
「いえ……お礼なんて……でも、私のわがままを聞いてくださいませんか」そう言いながら、リサは輝きを取り戻した眩しい笑顔で僕を見つめてきた。
「僕にできることなら聞くよ」
「あの草刈機……いえ、あの子に名前をつけてください」
それには僕も賛成だ。あれだけ高性能なものには名を与えるべきだと思う。
「リサが考えている名前があるんじゃないか?」
「いいえ、マスターにつけてほしいです」
名前ね……頭をひねるが思いつかない……適当に言えばリサの腹案を出してくれるんじゃないかな?
「『仁』を『貴ぶ』で貴仁はどうだろう」
「貴仁……ああ……なんて素敵な響きなのでしょうか……ありがとうございます、マスター」
予想に反して草刈機は、機能にはまったく関係ない『貴仁』と命名されてしまった。刈太君のほうが良かったかな……と、少し後悔する僕の両手をリサが握る。
「貴仁はマスターと私の共同作業で生まれた……二人の愛の結晶です」
いや、僕は適当に名前をつけただけだし、なんなら少し後悔してしまったんだが……
「ま、まあ……そういえばそうだね……」苦し紛れの返答をした僕を、リサはキラキラとした瞳で見つめる。そんな目で見られると僕の罪悪感が増幅するのだが。
「はい、私たちの心が、意識の届かない深いところでつながっていることを知ることができてうれしいです」
何を言っているかよくわからないが、リサが喜んでくれると、適当な名前をつけてしまった僕も少し救われるような気がする。
「喜んでくれて、僕も安心したよ」ほっと撫で下ろした僕の胸に、リサは両手を当てて「マスター、愛してます……」と寄り添ってきた。なぜこうなったのか理解できないが、彼女の髪は相変わらずフローラルな優しい香りがする。
「なあ……なんで草刈機でそんなに盛り上がれるんだ?」
その声に視線を向けると、居間に腰を下ろしたリナがジュースを片手に、不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「リナ、邪魔しないでください。もう少しでマスターと私のウェディングベルが鳴るのです」
リサは何を言い出すんだ……念のため「鳴らないよ……」と否定したら、リサは突然僕を抱きしめて、「えーんえーん」とわざとらしい泣き声を上げ始める。まあ、ここはリサの下手な演技に付き合おうか。
「なあ、リサ、僕のために泣かないでくれよ」優しく声をかけると、リサは僕を抱きしめたまま、「じゃあ、キスしてください。リナばっかりずるいです」とか言い出した。
「リサ、あれは、不幸な事故のようなものだったんだ……」
「では、私とも事故を起こしてください。取り返しのつかないような大事故をお願いします」
いや、リサ……お願いされて起こすのは、もはや事故とは言わないだろ……
「なあ、親方……結衣を迎えに行かなくていいのか?」
リナの声にはっとして時計を見ると、思いのほか時間が過ぎてしまっていた……
「リサ、結衣ちゃんを迎えに行くから離してくれ」と僕が頼むと、リサは意外と素直に離してくれた。まあ、同居決定権を行使できる結衣ちゃんには敵わないのだろう。
慌てて部屋に戻り、私服に着替える。急いで店を出たとき、目に入ったまごころ源号を見て少し焦る。「しまった……片付けを忘れてた」とぼやいて店を振り返り、居間でジュースを飲んでいるリナに「リナ、悪いけど片付けをお願い!」と声をかけ、保育園へ出発した。
——保育室に入ると、友達と遊んでいた結衣ちゃんが僕に気づいて、駆け寄ってきた。
「結衣ちゃん、帰りの準備ができるまで、もう少し遊んでていいよ」と声をかけると、結衣ちゃんは友達のところに戻っていく。
「かわいらしいもんだな……」とつぶやき、棚に向かおうとする僕の手が、ふいに引かれた。
「おじさん、ちょっと待っていてください……」
僕の顔を見てそう言うと、三浦先生は保育室を出ていった。
「いったいなんだったんだろう?」と言葉にしてはみたが、気にしても仕方がないと結衣ちゃんの着替えを片付け始めたとき、ふいに後ろから肩をたたかれ、振り向くと三浦先生が僕に千円札を差し出してきた。
「これで、おじさんは私のものですね。受け取ってください」
「えっと、どういう意味ですか?」戸惑う僕の顔に三浦先生は手を伸ばすと、頬から何かを剥がした。
「いまさら、なかった話にしないでくださいね」
そう言って三浦先生が掲げて見せた手には、千円の値札がある。あれは、ジュースミキサーに貼ってあった値札じゃないか……
「そ、それは違うんです。店の商品に貼ってあった値札で……」
「おじさんに貼ってありましたので、私が買いました」
三浦先生は満面の笑みで嬉しそうに言ってのけたが、正気なのかこの人は?だいたい、ここは保育室だぞ……
「おじさん、どっちの家で暮らしますか?あっ、そうだ、結衣ちゃんにも『ママ』って呼んでもらわないといけませんね……どうしましょう、今日からママになるなんて夢のようです」
いや、夢とかじゃなくて、今は現実ですけど、どっちにしてもママはありえないだろ……などと意味のわからないことを考えながら、どう対応すべきか焦る僕を見て、三浦先生はポケットに千円札をしまい微笑んだ。
「冗談ですよ。おじさん……リサさんの仕業でしょう?」
「たぶん、そうだと思います……全然気づかなかったな……」
なぜかごまかさないといけないような気がして、値札が貼ってあった自分の頬を撫でる。
「仲が良さそうで羨ましいです」その言葉がいまいち理解できず、僕が「はい?」と聞き返すと、三浦先生は顔をそらして「いえ、なんでもないです」とつぶやいて、園児のところへ去っていった。
帰る準備ができて「結衣ちゃん、帰ろうか」と声をかけると、窓際で友達と遊んでいた結衣ちゃんが駆け寄ってきた。手をつないで保育室を後にしようとした背中に、三浦先生の声が届いた。
「あっ、おじさん。今日、家庭訪問に行きますね」
思わぬ言葉に、僕は「はいっ?」と変な声が出てしまった。この間の話は本気だったんだ……どうしよう、面倒だし断る理由を考えなきゃ。
そんな僕の焦りなど気にすることなく、結衣ちゃんが「まことせんせーくるの?」とキラキラとした瞳で三浦先生を見つめる。
「そうですよ、後でおうちに行くね」三浦先生の返事を聞いて、結衣ちゃんは軽く飛び跳ねて「やったー!」と喜んでいる。仕方がない、リサとリナには少しおとなしくするように頼もう。
——結衣ちゃんを抱き上げ、バッカル三号のチャイルドシートに乗せ、シートベルトを締めていたら、近い未来に訪れる面倒になりそうな事態から、なんとなく逃げ出したくなり、「結衣ちゃん、紅巴里に行こうか?」と無意識に声をかけてしまった。
「うん、いくー!」嬉しそうに声をあげる結衣ちゃんにヘルメットをかぶせて、紅巴里に向けて愛車を発進させた。
紅巴里に着くと、結衣ちゃんは店に駆け込んでしまった。僕はバッカル三号を端に停め直してから店に入る。
「こんにちは」と声をかけた僕を見るなり、巴里ママは、「なんだ、あんたも一緒かい……」と言い放つ。——何を言ってんだ、この婆さんは。結衣ちゃんを一人で来させるわけないだろう。
店を見回すと、結衣ちゃんは同じキャラメルを二つ手に取り、どちらを買うか悩んでいるようだ。かわいらしいもんだと、静かに見守っている僕に巴里ママが話しかけてきた。
「あんたも亀太郎のミニコミ誌に広告を出すんだってね」
浦島さんのことを亀太郎って呼んでるんだ……たしかに、外見的には巴里ママのほうが年上に見えるし、呼び捨ても納得できるな……
巴里ママは眉をひそめ僕を見ると、「あんた、余計なこと考えてただろ」と低い声で唸る。な、なんて鋭いんだ……女性はいくつになってもそういうところに敏感なんだな。
「広告は出すよ。なんか見開きしか空いてないとか言われて、無理やりだけどな」
適当に答えた僕を、巴里ママはいぶかしげな表情で見る。
「見開き?まだ六段が余ってるって、忠太郎のやつが昨日言ってたけどね」
何を言ってるんだ?僕が見開きしか空いてないって言われたのは、随分前の話だぞ。それなのに昨日の時点で六段が余ってる訳ないだろう……この婆さんは耄碌してしまったんじゃないか?
「は?昨日?そんな訳無いだろ。印刷屋の親父に言われたのは随分前だぞ」
「ああ、昨日だよ。うちにも広告出してくれって頼みに来たから、間違いないだろうさ」
そう言った巴里ママは、突然ケラケラ笑い出した。
「あんた、忠太郎のやつに騙されたんだよ。相変わらず間抜けだね」
あの印刷屋のオヤジ……どこまでせこいことしやがるんだ。ため息をつく僕に、結衣ちゃんが「おじちゃん、これー」と手に持ったキャラメルを見せてくれた。巴里ママから聞かされた嫌な話を一瞬で癒やしてしまう結衣ちゃんの笑顔……印刷屋の親父がせこいことなんかどうでもよくなった。「それでいいの?」僕が笑顔で問いかけると、結衣ちゃんは「うん!」とキャラメルを抱き締めた。
僕は巴里ママにお金を払い、この店で湧き上がったぶつけようのないもやもやした気持ちを、キャラメル一個で癒やしてくれた結衣ちゃんに感謝しながら、小さな手を引いて店を後にした。
「結衣ちゃんが唯一の癒やしだよな……」
——紅巴里からの帰り道、キャラメルを手にご機嫌な結衣ちゃんが、保育園であったことや友達と何をして遊んだかを話してくれた。正直、聞いても半分は理解できないけど、聞いているだけで現実から少し離れて、夢を見ているのではないかと思えるほど、癒やしに満たされた帰路を満喫した。
だが、店に帰り着くと現実が待ち構えていた。リナに片付けるように頼んでいた道具が、手をつけられないまま放置されている。
「なんだ、片付けしてないじゃないか……」とぼやきながらバッカル三号から結衣ちゃんを降ろして、「僕は片付けを済ませるから、先に行っててくれる?」と声をかけると、「はーい!」と元気に返事をして、結衣ちゃんは店の扉を開けた。
「ただいまー!」という声と同時に閉じた扉の向こうから「なに……この子……天使のように輝いてる……」とか聞こえたが、僕はどうせまたリサがふざけているんだろうと気に留めることなく、道具を片付ける。
片付けを済ませて店に入ると、そこには誰もいなかった。ジュースミキサーの値札を見ると、八千円という微妙な額が貼られていて、リサの意外な一面を見た気がした。でも、僕の頬に千円の値札を貼った件は後で注意しておこう。危うく三浦先生に買い取られそうになったんだ……
「しまった、今日は三浦先生が来るんだった。リサとリナに伝えておかないと」
逃避していた現実を思い出し、慌てて入った居間は、ものすごく違和感がある……ちゃぶ台の周りで、リサは紙で何かを作っていて、その隣ではリナが結衣ちゃんの話を聞いている。リナの隣にちょこんと座っている結衣ちゃんは、既に着替え終わって、うさぎのぬいぐるみを抱いてキャラメルのおまけをリナに見せている。
その結衣ちゃんの隣に、中学生くらいの背格好でゴスロリチックな服を着た女性が座り、結衣ちゃんとリナの会話を楽しそうに眺めている……この子は誰なんだ……
声をかけたいが気が引ける。なにせ、なんとなくだが、このちっこい子の正体は察しがついた。だが、それは同時に嫌な予感となり、的中していないことを願う気持ちが募る。
もしかすると、リサかリナの知り合いかもしれないよな……わずかな希望を自分に言い聞かせて、客に失礼のないよう、まずは着替えようと思い、居間を出ようとした僕に、リサが「マスター、先にお風呂を済ませてください」と声をかけてきた。
「客がいるのに風呂に入れとは言わないよな……」そうつぶやいて僕は風呂に向かった。
——風呂を済ませて居間に戻ると、やっぱりちっこい子が座っていた。僕もちゃぶ台の前に腰を下ろすが、さすがに五人が囲むと少し狭く感じる。というか、リサが近い……そうじゃない、何から話していいのかわからないが、まず、この和やかな雰囲気の空間に誰も何も言わないことについて聞くべきだろうか?
いや、待て……もしかしたら、僕が今まで気づいていなかっただけで、この和やかな空間はずっとあったのかもしれない。この空間を壊すような発言をすれば僕は天下の極悪人にされかねない。
もしかして……この子は女性にしか見えない存在ではないだろうか?魔女っ娘の才能に目覚め始めた僕の体に、娘成分的なにかが満ちはじめたせいで、見えるようになったのかもしれない。ここは慎重に切り出さなければ……
「あのさ……」と意を決した僕の声に全員が一斉に振り向いた。えー、なんか悪いことした?少したじろぎながらも僕は話を続ける。
「あ、あのさ……なんか一人増えてるような気がするんだけど、き、気のせいかな……」
隣に座っているリサが、僕の額に手を当てて心配そうな表情で見つめてきた。えっ、もしかしてみんなには見えていないの?と得体の知れない不安に駆られる僕を、気の毒な表情で見たリサが深くため息をついて、「増えている気がするのではなく、一人増えています」と教えてくれた。
はからずも僕の隣に座る形となったちっこい子が「我の名は『リゼ』……さっきまで『リサ』と名乗っていたが、そのままでは卑猥な名を与えられると聞き、自ら名を変えた……」と、ぼそっとつぶやいた。もし、今の言葉を僕に言ったのなら、僕は他人に卑猥な名を与えたことなど一度もない、と声を大にして言いたい。
今の話で、リゼは僕が魔女っ娘の才能に目覚めたのは関係ないと理解したが、そのリゼは、左腕に包帯を巻き、右目に眼帯をしていて、見ているだけで痛々しい……
「なぜここに来たのか、なんとなく察しはつくけどさ……まずその怪我をした理由を教えてくれないかな?もし、痛むようなら休んだほうがいいと思うよ」と僕が気遣うと、リゼは「怪我などしていない……これは我の身に宿った闇の力の封印……それと、眼鏡がエロい……我に触れるな」と吐き捨てて顔をそむけた。
眼鏡がエロくて僕を嫌うのなら帰ればいいじゃないか、と出かかった言葉を飲み込み、「そうなんだ、ちっこいのに苦労しているんだな……」とつぶやいた僕を、リゼの左目が鋭く睨みつけた。
「小さいほうが高性能……無駄に胸の大きいリサは時代遅れのポンコツ……」
そうリゼが言い終わった瞬間、パン!——突然、乾いた音が響いて空気が震えた。見るとリサが構えた拳銃の銃口から煙がゆらりと立ちのぼっている。慌てて結衣ちゃんを確認すると、リナがしっかりと抱きしめていて、僕は胸を撫で下ろした。
リゼがリサに目を向け、「この距離で外すとは……やはりポンコツ……」と鼻で笑うと、リサは銃口をリゼに向けたまま、落ち着いた口調で、「今のは脅しです。次は当てます」と目を細める。
「ちょっとリサ、結衣ちゃんもいるんだし、そんな物騒なものを持ち出すなよ」
「あの不良品は抹殺すべきです……マスターはともかく私までこき下ろして……」
なんか言い方がおかしい気もするが、リサが本気で怒っているのは理解できた。
「結衣ちゃんが怖がるだろ……とりあえずしまってくれ」
そう言って結衣ちゃんを見ると、リナの膝の上で大きな瞳をキラキラと輝かせ、リサの手にある拳銃を見つめている。
「リサママ、それちょうだい!」と、広げた手を差し出す結衣ちゃんを、リナが「結衣、あれはダメだぞ……」と窘めるが、結衣ちゃんは「いやだ!あれがほしーのー!リサママちょうだい!」とだだをこね始めた……どうするんだよ、あんなにかわいい結衣ちゃんが、銃に興味を持ってしまったじゃないか……
リサは「結衣さん、これは大人にしか使えないので、今度、結衣さんでも使えるものを作ってあげますね」と言って拳銃をスカートの中にしまったが、結局渡すのは変わらないじゃないか……でも、「ほんと?」と結衣ちゃんが喜んでいるから、ギリギリセーフとしておこう。
「はい、本当です。ですから今日は我慢してください」と微笑んだリサに「うん、いーよー。リサママだいすき」と結衣ちゃんが抱きつく。リサは抱きとめた結衣ちゃんを撫でながら「ついでにマスターを私がもらってもいいですか?」と笑顔で問いかけた。何のついでか知らないが、どさくさに紛れて何を言ってるんだ……
「うん、いーよー」——千円の値札を剥がされた僕は、どうやら知らぬところで譲渡されてしまったようだ……
穏やかな笑顔で結衣ちゃんの様子を見ているリナに、僕は「リナ……」と呼びかけた。振り向いた彼女は小首を傾げているが、一瞬の判断で結衣ちゃんを守ろうとしてくれた彼女の行動に一言「ありがとう」と感謝を伝えた。
頬を染めたリナは「親方……」とつぶやくと、リサを押しのけて僕の隣に座り、「あたいと風呂に入ってくれ」と抱きついてきた。感謝の言葉を伝えただけなのに、なぜ一緒に風呂なのか?理解できずにいる僕の耳元で、「親方の背中を流してみたいんだ」とリナが囁いた。
なるほど、リナの意図はなんとなく理解できた。男女の特別な関係として一緒に風呂に入りたいのではなく、師弟として風呂で親交を深めることに憧れているのではないだろうか……それなら吝かではない……とは言えない。
「リナ、それはちょっと無理かな……」と言った瞬間、僕を抱きしめるリナの腕に力がこもる。「もう、鯖折りは勘弁してくれ」と頼むと、リナは「お、おう、これくらいならいいだろう?」と少し力を抜いてくれたが、抱きしめるのをやめるつもりはないようだ。
——さて、リゼだが、コイツはどう扱っていいのかわからない……掴みどころがないというか、今までの中で一番面倒そうな雰囲気を漂わせている。
僕が「リゼ……」と呼びかけると、彼女は僕を睨みつけて「我は結衣姫に仕える従者……エロ眼鏡に呼び捨てにされるのは心外……」と顔をそむけてしまった。そうなんだ、結衣ちゃんはいつの間にか姫となり従者を従えていたんだな。
「でもな……こんな中二野郎に結衣ちゃんを任せたら変なことを教えそうで嫌だな……」
「まったくです……マスターの姪御さんも、マスターの息子さんも私に任せてください」
リサは胸を張っているけど、銃を取り出したくせに、なぜ任せろなどと言えたのかわからない。でも、リナが言っていた『リサが僕の童貞を虎視眈々と狙っている』というのが本当だったことは理解できた。
「我は中二などではないし、野郎でもない……魔女っ娘になるなどと宣うエロ眼鏡のほうがよほど気が触れてる……」
鼻で笑うリゼを見て、僕は含んだ笑みを浮かべる。
「何も知らないくせによく言えたもんだな。僕が魔女っ娘になったら、結衣ちゃんと二人で全人類を影から支配するんだ。後で泣きついても仲間に入れてやらないからな」
そう言って僕が顔をそむけた拍子に、頬がリナの唇に触れた。
「にひひひ、また親方にチューしたぞ」
「リナ……私のマスターから離れなさい……」
まずい、別の争いが勃発しそうな空気になってきた……そんな二人を横目に見て、足音もなく近づいてきたリゼが、突然僕の膝に腰を下ろすと、「主様……我を下僕にせよ」とか言ってきた。下僕になりたいと言っている割に態度がでかくないか?
「下僕ってなんだよ」
「バカかお前は……我も支配者の仲間とせよと言っている。主様に拒否権はない……」
どうやら、僕の知っている下僕とは少し違うような気がする。
「主をバカ呼ばわりして、拒否権を与えない下僕なんて聞いたことがないぞ」と僕が抗議すると、リゼは再び鼻で笑った。
「我は下僕となり、エロ眼鏡を主様と呼び慕う……主様は我に十分な衣食住を提供し、我を心ゆくまでもてなし、我が寂しい夜には添い寝などをしなければならない……それが主と下僕の関係……そんなことも知らないとは、呆れたやつ……」
どうやら、僕の知っている下僕とはまったく別物のようだ……と、呆れる僕の体が急に後ろに引っ張られ、後頭部が柔らかいものに包み込まれた。
「二人とも、私のマスターから離れなさい」
背後から僕を抱きしめたリサもどうやら参戦するようだが、僕を挟んでこの争いをする必要はどこにもないはずだ。
「胸ばかり大きいポンコツリサが主様に話しかけるなど千年早い……まずは下僕である我に許しを求めるべき……」
あー、なるほど、リゼが下僕になるのは決定なんですね……
「あたいは親方と一緒に風呂に入るんだ。それまでは離さない」
リナ、僕はさっき風呂に入ったから、今日はもう入らないよ。
「いいえ、リナは私より先にマスターにキスをしました。ですから、残りカスは全部私のものです」
リサが何気に一番きつい言い方をするよな。ていうか、なんなんだこの状況は……
「あー!まことせんせー!」
突然響いた結衣ちゃんの声に、一瞬で現実に引き戻される。——しまった、家庭訪問を完全に忘れていた……
「おじさん……これはいったいどういうことですか」
冷たい……声が冷たい……三浦先生を見ると、恐ろしい形相で見開いた瞳に僕を映している……
「いや、三人の喧嘩の仲裁をしているだけです……」
「私には三人の女性と戯れているようにしか見えませんけど……」
まあ、そうだよな……なぜ、この状況を三浦先生に責められなければならないのか……とか考えるまでもなく、たしかに結衣ちゃんの教育にはよくない。
「それに、リサさんは知っていますし、リナさんのことは聞いていましたが、もう一人は誰ですか?もしかして……プロポーズした私に隠さないといけないような相手ですか?」
その相手って誰なんだよ。今日突然現れて、僕の膝に座って澄ましている、この中二病のことを言っているのか?それよりもだ……僕は三浦先生にプロポーズした覚えはない。
戸惑っていると、リサに「マスターは私のものです」と強く抱き寄せられた。リサ、ややこしくなるから今は黙っていようか……
三浦先生は無言で、居間にずかずかと上がり込んできた。ふいに結衣ちゃんに笑顔を向けると、「結衣ちゃん、ケーキ買ってきたよ」と箱をちゃぶ台に置く。やっぱり三浦先生は優しい……ほっとした僕に向けられた三浦先生の顔は、まるで鬼神のような形相に変わっていた。
僕を睨みつけながら、結衣ちゃんに「結衣ちゃん、先生、今日はお泊まりするね」と優しくかけた言葉に、思わず「ナニイッテンダ……」と初めて日本語を覚えた外国人のような口調になってしまった。
「泊まるのは勝手ですが、マスターは私のものです。あなたの出る幕はありません」
リサ……そっちを張り合わないで、泊まるとか言い出したのを何とかしたほうがいいんじゃないか?
「いいえ、このようなふしだらな環境は看過できません。おじさんと少しお話をします」
「あわよくば、親方と仲良くするつもりだろ」
リナ、面白がって口を挟むな……
「えー、そうですよ。プロポーズしたおじさんを、私にふさわしい人になるよう教育します。それのどこがいけないのですか!」
「お前のような女は主様にふさわしくない……まずは下僕である我に許可を求めよ」
リゼ、なんてことを言ってくれたんだ……
「げ、下僕……おじさん、なんてことをしているんですか!こんな子を下僕にするなんて、人としてどうなんですか。今日はゆっくりお話をさせてもらいますから」
——どうするんだよこれ……とりあえずなんとかしなきゃと、「あのさ……」と話しかけたら、三浦先生から睨みつけられた。
「おじさんは黙っていてください!だいたい、いつまで私の目の前でその三人といちゃついているんですか!」
いや、いちゃついてなんかいない……そんな下世話な揉め事に興じる大人をよそに、結衣ちゃんはケーキの箱を開けている。そして僕は現実逃避して、精神世界から光景を眺める。
「我は主様の下僕、かわいがられて当然……お前の居場所はない」
——おいしそうなケーキだな。三浦先生が結衣ちゃんのために選んでくれたんだろうな……
「私のマスターは童貞のくせに大きな胸がお好きなのです。これは仕方がありませんし、あなたには真似できないでしょう?」
——僕の目にはケーキにニンマリとする結衣ちゃんしか映らない。結衣ちゃんはいちごを先に食べる派なんだ。あれ、ちょっと顔をしかめたけど、酸っぱかったのかな?そんなところも、かわいいね……
「親方はあたいに二回もチューしたんだ。くっつきたくなっても仕方ないだろ」
「チューした……二回も……」三浦先生の低い声が重く部屋に響き渡り、僕は現実に引き戻された。
「おじさんの唇は私のものです……」
三浦先生は震える声で何か言っているが、僕にはもう訳がわからない……
「いいえ、私のものです。さっき結衣さんからまるごと譲り受けました」
リサの言っていることも意味がわからない。
「いいえ、おじさんは私がさっき千円で買いました!」
僕はその千円を受け取っていない。
なんかいろいろ終わったのはわかる。——どうにかしてこの場を脱出する方法を考えたほうがよさそうだ……
脱力する僕に、「おじちゃん、ケーキおいしいよ」と微笑んでくれる結衣ちゃんだけが、僕の味方のような気がしてきた。
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