草刈機と真新しいつなぎ
結衣ちゃんを保育園に送って、急いで帰ってきた僕は、浦島さんの家に向かうために準備をしていた。まごころ源号の荷台に草刈機、鎌、レーキ、その他の掃除道具一式を積み込み終わって「よし、これでいいだろう」とつぶやくと店を振り返る。
「リナは遅いな。あれだけ仕事に行くのを楽しみにしてたのに、気が変わったのか?」
草刈りだけだし一人で行ってもいいんだけど、リナを置いて行って機嫌を悪くされても困るし、一応声をかけようと店の扉に手を伸ばしたとき、扉が勝手に開いてリナが出てきた。
「おう、びっくりした。親方、仕事に行こうぜ」
驚いたのはこっちも同じだけど、それよりも僕にはリナの服装が気になった。目の前に立つリナはパーカーとショートパンツ姿で、とても草刈りに行く格好じゃない。
「リナ、その格好じゃダメだよ」
「これしかないんだ」
「でも、それじゃ虫に刺されたりするからさ」
どうしたものかと僕がリナをじっくり見ていると、彼女は「親方……なんか目がエロいぞ……」とか言って僕に流し目を送ってきた。「別にいやらしい目的じゃなくて、リナの体格はどことなく見覚えがあるんだ」と理由を伝えたが、疑いの目を向けられたままだ。しかし、今は時間がないから、かまっていられない……そうだ、思い出した。身長や体型が先代店主に似ているんだ。
「そういえば、新品の作業着があったな……リナ、ちょっとついてきてくれる?」
そう言って僕が店の中へ向かうと、リナは「おう、わかった」とついてくる。
今は僕の部屋になってしまった先代店主の部屋だが、使えそうなものは押し入れにまとめて保管してある。
雑にものを放り込んでいる押し入れをひっくり返し、「あった、あった」とつぶやきながら、ビニール袋に入ったままの作業着を手に取ってリナに手渡す。
「リナ、これに着替えてきてくれないか?前の店主のだけど、リナに合うと思うんだ」
受け取ったリナは、満面の笑みで作業着を抱きしめ、「親方からのプレゼントだな、うれしいぞ」と喜んでいる。喜んでくれるのはいいが、なにせ年寄りが好んでいた作業着だから、妙齢の女性に似合うのかはわからないし、着替えてから文句を言われないか不安が残る。
「ちょっと待っててくれ、すぐ着替えてくる」と部屋に向かうリナの背中に向かって「外で待ってるから」と声をかけ、僕は店を後にした。
「取りに戻るのは面倒だからな……」などと、ぶつぶつ言いながら忘れ物がないか確認していると、「親方、着替えてきたぞ!」と明るい声が届いた。振り向くと青いつなぎを着たリナが、腰に手を当てて胸を張っている。なんだろう、リサとは違う女性の魅力があるように見える。
「どうだ、親方。似合うか?」と聞かれ、僕は眼鏡を押し上げて眺めるが、先代店主が着ていた服と同じものとは思えないのは、リナの容姿も相まってのことだろうか。
僕が「よく似合ってる。すごく仕事ができそうだよ」と言ってうなずくと、リナは「にひひひ」と笑った。
「リナ、ちょっと来てください」とふいに聞こえた声に振り向くと、店の扉からリサが顔をのぞかせて手招きしていた。「どうしたんだ?」と言いながら店に入ったリナは、すぐにクーラーボックスを持って戻ってきた。
「なんだったの?」と問いかける僕に、リナはクーラーボックスを掲げて見せ、「お弁当だ。リサが作ってくれた」とうれしそうに笑う。
まごころ源号の運転席に乗り込み、エンジンをかけると、アイドリング音が前に乗ったときと全然違う。
「リサが修理してくれたからかな?」とひとり言を吐きながら、キョロキョロ見回していると、助手席に座ったリナが僕を見て首を傾げた。
「どうしたんだ、親方」
「いや、すごくエンジンの調子が良さそうなんだ」
「リサはなんでも作れるし、直せるからな」
たしかに機械関係が得意だとは言っていたが、こんなに変わるものだとは思わなかった。
リナがシートベルトを締めたのを見て、クラッチをつないだ瞬間——キキーッとタイヤが悲鳴を上げ、まごころ源号が急発進する。
あまりの加速で体がシートに押し付けられ、「うわー!なんだこれー!」と思わず叫んだところに、リナの「親方!前を見ろ、ぶつかるぞ!」と叫ぶ声が聞こえ、我に返った僕はとっさにブレーキを踏んで、まごころ源号を停めた。ハンドルを握る手が汗ばみ、心臓は張り裂けそうなほど激しく鼓動する。
「おい、親方。大丈夫か?」
冷や汗が流れる僕の顔を、リナが心配そうにのぞき込む。
「ああ、びっくりした……」
「親方、クラッチをつなぐ前に吹かしすぎだぞ」
「癖になってるんだ……」
たしかに吹かしすぎたとは思うが、修理をしただけでこんなに性能が上がるものなのか?軽トラックの出せる加速じゃなかった……
——びくびくしながらまごころ源号を運転し、なんとか浦島さんの家にたどり着き、門の前にまごころ源号を停め、「リサが修理したやつは要注意だな……」と額の汗を拭う僕を尻目に、リナは「にひひひ、慣れれば大丈夫だ」と言ってさっさと車を降りてしまった。
リナが道具を準備している間に、僕が玄関のインターホンを押すと、「はーい」と響く声と同時に突然開いた玄関の扉から、浦島さんが顔を出し、にこっと笑う。
「おー、源屋さんじゃないのー、来てくれたんだ」とやたら元気な声で出迎えてくれた浦島さんに「おはようございます。よろしくお願いします」と挨拶すると、「うんうん」と言って僕の後ろへ視線を向けた。
「あの子は?」と僕に尋ねた浦島さんの声が聞こえたのか、駆け寄ってきたリナは僕の隣に立つと「おっす、じいさん。あたいは親方の一番弟子のリナだ。よろしくな」と右手を挙げる。
初対面の年上に対して、とても失礼な態度に焦った僕が「すみません。まだ教育が……」と言いかけたところで、浦島さんは声を上げて笑いだした。
「いいんだ、いいんだ。二代目だって初めて来たときは、挨拶もせずにずっと黙ってたんだから」と僕の肩を軽く叩いた。
「リナちゃんも源屋さんの言うことをちゃんと聞いて、頑張ってな」
浦島さんに声をかけられ、腰に手を当てて胸を張っていたリナが「おう、任せてくれ!」と胸をどんと叩いた。
「元気のいい弟子じゃないの、源屋さんも、これからが楽しみだろ」
「ええ、まあ……いろいろ不安はありますけど……」そうこぼした僕を、浦島さんはさらに声を上げて笑った。「源さんも、初めて二代目を連れてきたときに同じことを言ってた。それじゃ、頼んだよ」と浦島さんは軽く手を挙げて、家の中へ戻っていった。
僕とリナは手分けして道具を持ち、狭い家の脇を抜けて裏へ向かう。「なあ、親方、なんで裏だけなんだ?」とリナが後ろから問いかけてきたが、正直、僕もその理由を知らない。
「さあな、詳しく聞いたことはないけど、表は浦島さんが自分でやるみたいだよ」
「ふーん。なんでだろうな?」
「何かこだわりでもあるんじゃないか?」
家の裏に抜けると、意外な広さの庭に、リナが「うわー、広いな」と声を上げた。いったん道具を下ろして全体を見回すが、思っていたより草が伸びている。
ちょっと来るのが遅かったかなと、しばらくバタバタしていて来るのが遅れたことを反省していると、リナの「伸び放題だな」と言う声が聞こえたから、同じことを思っているのだろう。まあ、突っ立って考えていても仕方がない。
「僕が草刈機で刈った草を、リナはレーキで集めて袋に入れてくれるかな?」そう言って振り返ると、リナは「おう、わかった」と胸を張る。
エンジンをかけようと草刈機のスターターグリップを握ったとき、ふと、まごころ源号を思い出した。「これもリサが修理したんだったな……」とこぼして中腰のまま止まった僕の前に、レーキを手にしたリナが立った。
「どうしたんだ、親方」
「いや、これもリサに修理してもらったから不安なんだ」と言って顔を上げると、彼女は微笑んでいた。
「なにか知っているのか?」と問いかけた僕に、リナは「知らないけど、昨日リサが試運転してたから大丈夫だろ?」と首を傾げて見下ろしている。
「そうだな、でも念のため、僕の後ろにいてくれないか」と声をかけたが、リナは「大丈夫だ」と言って僕の前から動こうとしない。リナに大丈夫と言われても、やはり僕には不安が残る。
「いや、女性にけがをさせるわけにはいかないから、後ろに行ってくれ」と言うと、リナは驚いたような表情を浮かべ、その顔はみるみる紅潮していった。
「お、おう、そうか……じゃあ後ろに行く……」となぜか切れの悪い言葉を残して、彼女は僕の後ろに下がってくれた。
覚悟を決めてスターターグリップを勢いよく引くと、あっさりエンジンがかかって、小気味いい音を響かせている。
「すごく調子がよさそうだな」
草刈機を肩にかけるが、以前より振動も少ないような気がする。だが、まだ不安が残り、草刈機を眺めていると、「リサが修理したからだろう。親方、始めようぜ」と張り切ったリナの声が、僕の背中を押してくれた。
「よし、始めよう!」と気合を入れ、草を刈り始めてみると、何か感じが違う……刈っているのが楽しくなるような、以前より簡単に刈れるような……うまく言えないが、とても作業が捗る。僕の後ろでリナが刈った草を集めている音が聞こえるのもすごい。それだけ静かってことだ。
二人で作業をしていると、先代と一緒に仕事を回っていた頃を思い出す。怒られながらも楽しかった……そのうち、家を出て先代と暮らすようになって、晩酌の相手をしながら、遅くまでいろいろ教えてもらっていたな……
物思いにふけりながら作業をしていて、ふと気づいた。どうやらこの草刈機は切るものに応じて回転が変わっているような気がする。それに小石などを跳ねたりしない。
気を抜いて作業をしていても問題がなさそうなほど、まるで意思を持つかのように動作する。今度リサにどんな機能があるのか詳しく聞いてみよう。
——その頃、黙々と刈られた草を集め続けていたリナは、ふと大智の背中を見てため息をついた。『あたいを女って……親方に気を遣ってほしくなくて、こんなふうに振る舞ってるのに、それでも女って気遣ってくれるんだもんな……』そう考えると、急に彼女は恥ずかしくなって、作業の手を止めた。
庭を見回すと草はほとんど刈り終わっている。大智の様子から、どうやら草刈機での作業は終わりそうだ。「親方、昼にしようぜ!」と声をかけると、彼は草刈機を止め、地面に下ろして汗を拭いた。『親方……かっこいいな……』
「リナ、弁当を取ってくるから、休んでおいて」
持ってきた折りたたみ椅子に腰を下ろしたリナに声をかけて、僕はまごころ源号に向かう。ついでに、刈り取った草でいっぱいになった袋を二つ運ぶ。
まごころ源号の荷台に置いたままだったクーラーボックスを開けると、中は適温が保たれていた。どうやらこれもリサが手を加えたようで、蓋の裏によくわからないスイッチがついている。何気なく弁当箱を二つ手に取ると、リサの優しさが心にしみる。
「リサはよくできた女性だよな……本当に気が効くし……」
弁当を手に庭に向かいながら、午前中の仕事を振り返る。リナもよく頑張ってくれる。一人でやるより捗るし、これなら質を上げられそうだ……そう思うと、リナと一緒に仕事を続けるのが楽しみになった。
庭に戻り、リナに弁当を渡そうと近づいたら、リナが僕を見てにっと不敵に笑った。突然、つなぎのファスナーをみぞおちまで下ろし、「やらないか」とキメ顔で僕に視線を送ってきた。それをどこで覚えたのかと問い詰めたいが、それよりも問題がある。
「リナ、つなぎの下に何も着てないのか?」
「にひひひ、これを脱いだらすっぽんぽんだ」
リナは流し目で僕を見ながら、少し胸元を広げる。
「なんで着てないんだよ!」と声を荒げる僕に、リナは「阿部さんも着てないぞ」と反論してきた。どこの阿部さんのことか、だいたい想像はつくが、それは目的が違うだろ……
「ちゃんと着てくれ」
「明日からパンツは履くぜ」
「いや、シャツも着ろよ……」
そう言いながらも、目が離せない僕に、リナが見えそうで見えない角度で前かがみになって「にひひひ」と笑った。
「見えそうだから、ファスナーを上げてくれ」と、顔を伏せて焦る僕を見て、リナは「親方、顔が真っ赤だぞ」と爆笑している。さらに「親方、見てもいいぞ」とか言いはじめた。だが、見ていいと言われて、『はい喜んで!』なんて言ったら、リサに知られてあとで大変なことになる……いや、そうじゃない。
「リナ、もう少し女性らしく振る舞ってくれよ」
「そんなことして、親方があたいに惚れたら困るだろ?」
——何を言ってるんだ?
「リナが女性らしくすることで僕は何も困らないけど、リナは困るのか?」
「んっ、困らないな……よし、親方と二人きりのときだけそうするぞ」
「それでいいから、とりあえずファスナーを上げてくれ」
ファスナーの音がして、リナをちら見すると、しっかり上げていた。少し惜しい気もしたが、とりあえず胸を撫で下ろし、「ふう……もうそんなことはしないでくれよ」と声をかけると、リナは「わかったよ、親方」と、にこっと微笑んだ。
僕は手に持った二つの弁当箱のうち、大きいほうをリナに手渡す。
「大きいほうがリナの弁当だよね」
「そうだぞ。あたいは燃費が悪いんだ」
たしかにリナはよく食べる。だが不思議なことに、リサと違って間食をしない。お茶を取り出しながら「リナはおやつを食べないよね」と聞くと、「そんなことはないぞ、暇な日は食べる」と教えてくれたが、すでに彼女の目は弁当に夢中だ。
リナが「親方、ふりかけが入ってるぞ」と嬉しそうに声を上げ、手に持ったふりかけをしゃかしゃか振っている。
「よかったな。ふりかけが好きなのか?」
僕が差し出したお茶を受け取ったリナは「好きっていうか、なんかうれしいよな」とふりかけを見つめた。
リナは子どものような表情で「のりたまだぞ」とつぶやきながら、ふりかけをかけている。たしかにその気持ちはわかるな。弁当でも給食でも、ご飯に何かをかけるときは、ちょっとテンションが上がったものだ。
僕も腰を下ろし、弁当の包みを開けると小袋が入っていた。なぜだろう、少しリサを恋しく思いながらご飯にかけた。ん?——これは何のふりかけだ?
「なあ、親方、そのふりかけ……なんかイカ臭いぞ」
リナの残念そうな声が、僕の食欲を削ぐ。だが、言われてみれば、たしかにイカ臭い……
眼鏡を押し上げて、小袋を見ると『アルギニン+シトルリン+亜鉛増量!』とたくましい字で書いてある……
「——アルギニン……これ、ふりかけじゃないよな」と言って、リナに小袋を見せると、彼女は小首をかしげて、「男を勃たせるサプリメントって書いてあるな」とつぶやいた。
しばらくの沈黙のあと、リナが大声で笑い始めた。
「親方……気が……つかなかったのか?」
その苦しそうに絞り出す声が、僕を悲しくさせる。
僕が謎のサプリをたっぷりとかけてしまったご飯に視線を落とし、「僕はリサになにか悪いことをしたのだろうか……」とため息まじりでつぶやくと、リナの「違うぞ!」という声が返ってきた。
「リサは親方が大好きみたいで、なんとかして親方と一緒に寝たいんだ」
仮にそれが本当だとしても、これはただの嫌がらせだろ……再びため息をつく僕を見て、リナは弁当をもぐもぐしながら「リサは不器用なんだろうな」とつぶやいた。
リサが不器用なのはわかった。だが、目下の課題は膝の上にある弁当だ……イカ臭くなったとはいえ、食わないと昼からの仕事に支障が出る。僕は覚悟を決めてご飯を口にかき込んだ……なんとも言えない風味で満たされた口に、お茶を流し込んで飲み込む。弁当食いロボになった気で、ひたすらそれを繰り返し、なんとか食べ終え、イカ臭くなってしまった口をお茶でゆすいだ。
一人で仕事をするときは、昼食を済ませたらすぐに仕事を始めるけど、リナに無理はさせたくない。人間じゃないとはいえ、見た目は普通の女性だから気が引ける。とはいえ、休憩中に話すこともないから、僕は流れる雲をただ眺めていた。
「なあ、親方……」ぽつりと聞こえてきたリナの声に、空を見上げたまま「どうしたの?」と答える。
「リサが言ってたんだけど、本当に童貞なのか?」
最近よく聞かれる質問だ……正直、もう放っておいてほしい。
「そうだよ。三十歳まで童貞を貫けば、魔女っ娘になれるんだろ?」
「どうなんだろうな……そう言われてるけど、実際に魔女っ娘になったやつはいないからな」
リナはさらりと不安になるようなことを言うよな……
「なあ、親方……」再び聞こえたリナの声に、僕は「どうしたの?」と返事しながらも、青い空を横切る雲が何かに似てるなと思いながら眺めている。
「親方の童貞くれよ」
何を言ってるんだ……くれと言われて、あげるようなものじゃないだろう。それに僕にはひそかな野望がある。
「断るよ。魔女っ娘になれなくなるじゃないか」
「親方は本気なんだな」
話をしながらも僕の心は雲の正体を暴くのに夢中だった。あの雲は『モンチッチ』だな……なんかすっきりした。
「そうだぞ、僕は魔女っ娘になって、結衣ちゃんと二人で影から人類を支配するんだ」
「それは面白そうだな。あたいも応援するぜ」
風に負けたのか、崩れていくモンチッチに別れを告げた僕は膝を打ち、立ち上がった。
「そろそろ仕事を始めようか」と声をかけると、リナも「おう、わかった」と立ち上がり、背伸びをした。
午後からは草刈機で刈れなかった細かいところを、手作業で刈り取っていく。リナももくもくと作業をしているようだが、ずっと何も話さないから少し不安になって、振り向くと真面目に取り組んでいた。ただ、リナが作業した部分は、ひと目見て取り残しがわかるほど雑だ。
「リナ、もっと丁寧に取らないとダメだよ」と注意しながら、リナの隣に移動した僕は、彼女が作業したところを手直しする。リナは「だって、めんどくさいだろ」とか言っている。
たしかに面倒だ——だからこそ仕事として成り立つんだ。僕は手を止めて、「リナ、自分がお金を払ってこんな仕事をされたら、どう思う?」と問いかけると、彼女は黙り込んでしまった。
日差しが強くなったせいか、午後からはやけに体が火照る。曇った眼鏡を外して拭いていると、リナが僕の顔をじっと見ているのに気づいた。
「なあ、親方……あたいとチューしてくれよ」……僕の話を聞いて、なぜ『チューしてくれ』って答えになるんだ?
彼女はさらに「親方、かわいい顔してるんだな……」と言いながら、ゆっくりと僕に迫ってくる。
思考が追いつく前に、リナは「なあ、親方……」と言いながら僕に抱きついてきた。とっさに肩を押して、リナを拒むが、彼女の腕はすでに僕の首に回っている。
「リナ、落ち着け……仕事中だろ」
「仕事中に仕事チューだ。いいだろ、親方」
そんなオヤジギャグ、全然面白くないし、こんなところを誰かに見られたら、余計な誤解を招いてしまう……と思った矢先、「ありゃー、仲がいいんだな」と聞こえた。振り向くと、窓から浦島さんが顔をのぞかせている。最悪だ……見つかってしまった。
「じいさん、聞いてくれよ。親方がチューしてくれないんだ!」
浦島さんに気づいたリナが声を上げると、「なんと!それはいかん。源屋さん、いかんぞ!女の子に求められて拒んでは男が廃る」と浦島さんも僕を責め始めた。
「無茶を言わないでくださいよ」と言いながら必死にリナを押さえる僕を見て、浦島さんは「無茶言っとらん、ワシが源屋さんくらいの歳のときは、ブッチュブッチュしとったぞ」と胸を張る。浦島さんのそんな話を聞いて、『じゃあ、僕もそうしよう』とはならないし、なるわけがない……
「それみろ、親方、チューしてくれよ」
「そうじゃ!チューじゃ」
なんなんだこの状況は……
「じいさんの言うとおりだぞ。はい、親方、チュー」
目を閉じたリナの顔が迫ってくる……浦島さんは手拍子をしながら「そーれっ、チュー、チュー……」と盛り上がっている。僕は草を刈っていただけなのに、なぜこうなっているのか理解に苦しんでいる。
もうダメだ……とっさに顔をそらしたとき、笑顔で手拍子を打つ浦島さんの隣で、女性がこっちを見つめているのが見えた……誰だ?と思った瞬間、頬に柔らかい感触が伝わった。
「なんじゃ、子どものチューか……つまらんの……」
本当に残念そうな顔をした浦島さんの隣で、さらに残念そうな表情を浮かべた女性がうつむいた。これは僕が責められることなのか?
「ちぇっ、まあいいか。帰ったらリサに自慢してやろ」
——リナ、それは本当にやめたほうがいい……
——いろいろあったが無事に草刈りを終えた僕たちは、まだ慣れないまごころ源号をおそるおそる運転して、刈り取った草をゴミ処理場へ運んだ。
仕事以外のことで疲れ果てた僕は、やけに喉が渇いてハンドルを片手にペットボトルを手にするが、もう空になっていた。
「親方、喉が渇いたのか?あたいのをやるよ」
リナが蓋を取ったペットボトルを僕に握らせてくれた。
「ありがとう、リナ」と礼を述べて、ぬるくなっているお茶をひと口含み、リナにペットボトルを返す。
「にひひひ、間接キスだな。チューもしてくれよ」
まだ、その話が続いてたんだ……
「間接キスか……リサがスカートから出してくれるお茶を飲んでるほうが、よほど気にするところなんだろうけどね」
「あれはリサにしかできないからな……現地で資材調達するのに特化してるんだ」
そういえばそんなことを言っていたな……最近はお茶やおにぎり、あと救急箱を出すくらいだから、すっかり忘れていた。
「リサに初めて会ったとき、マシンガンを突きつけられたよ」
「親方、気をつけろよ。バズーカも入ってるぞ」
なんて物騒なものを持ち歩いてるんだ……『明日の朝、起こしてくれないか?』なんてうっかり頼んだら、本気で早朝バズーカをぶっ放されそうだな。
「気をつけるよ……そういえば、リナもリサみたいに何かできるの?」
信号待ちで問いかけた直後、リナが目の前に手のひらを差し出してきた。「おい、危ない……」と言いかけたところで、まるで手が透明になったかのように視界が開けた。
リナに「親方、触ってみてくれよ」と言われて、そっと手を伸ばすと、柔らかい感触がたしかにある……
「えーっ、どうなってんだ?」
「すごいだろ。光学迷彩みたいなもんだぞ」
『すごい』で片付けられることではないが……なぜだろう、リサに比べればまともに思える。
「全身こうできるんだ。服は消えないけどな」
それはたしかにすごい。だが、疑問が残った。
「だけどさ、どんなときに使うんだ?」と僕が問いかけると、リナはにっと笑った。
「親方をリサから守るんだ。リサは虎視眈々と親方の童貞をねらってるからな」
「そうなのか?最近、そんな話はしないけど」
「それは油断させようとしてるんだぞ。だから、今日からあたいが一緒に風呂に入って、一緒に寝るぞ。一番危険だからな」
当然のようにリナは話したが、なぜそうなるのか僕にはさっぱりわからない。
信号が青になり、こわごわとまごころ源号を発進させる。
「いや、遠慮しておくよ」
「なんでだ?親方からは見えないから安心していいぞ」
歩道を歩いて下校する小学生の姿が微笑ましい。でも、この車内の会話は艶めかしくなりつつある。
「見えないだけで、リナは全裸だし触れるんだろ」
「まっ、まさか見えないあたいを手さぐりでもてあそぶつもりか?でも、悪くはないかもな」
見えないから意図せず触ってしまうかもとは思っていたが、そんな斬新な発想はなかった。
「そうならないように、遠慮するんだよ」
「ちぇっ、親方はつれないやつだな」
リナ……つれないからって『ちぇっ』とか言うなよ。
——店に帰り着いた頃にはもう結衣ちゃんを迎えに行く時間になっていた。
「リナ、僕は結衣ちゃんを迎えに行くから、道具の掃除と片付けをお願いするよ」
僕が声をかけると、リナは「おう、わかった」と返事をした直後に、店の扉を開けて「リサ、聞いてくれ!親方にチューしたんだ!」と声をあげた。
一瞬の沈黙のあと、「なんですってー!」と店の中からリサの絶叫が響き、僕は慌ててバッカル三号にまたがり、全力で発進させる。
僕は何も悪いことはしていない……していないが、リサに発砲されるのではないか……銃口でなくても理不尽な要求を突きつけられるのではないか……そう思っただけで自然と体が動き、バッカル三号を全力で走らせていた。
「帰ってくる頃にはいろいろ誤解が溶けていることを願おう……」そんな、そよ風で消えてしまいそうなほどの、わずかな希望を胸に、僕は保育園へと向かった。
保育園に着いて気づいたが、着替えるのを忘れていた……
「きれいな保育園だし、汚れたまま入るのは気が引けるな……」
ひとり言をつぶやいても解決することはない。
「しかたない、少し汚れをはらっておくか」
駐輪場で作業着を叩いたが、あまりきれいにはならなかった。だが、「少しはマシになっただろう」と言い聞かせて保育室に向かう。
保育室に入ると、「おじちゃーん」と結衣ちゃんが駆け寄ってきた。今日は汚れてたままだから抱きとめられないのが残念だ。
「リサママは?」首を傾げる結衣ちゃんに、「リサは叫びながら、ご飯を作ってると思うよ」と、思わず本音で話してしまったが、結衣ちゃんには難しかったかな。
ちょっとつまらなそうな顔をした結衣ちゃんが「リナおねーちゃんは?」と言って首をさらに傾ける。
「リナは仕事の片付けをしてるはずだよ」と笑顔で答えると、「ふーん……」とさらにつまらなそうな結衣ちゃんの表情で、僕のガラス細工のような心は深く傷ついた……
「誰ですか?リナって……」三浦先生の低い声が、傷ついた僕の心にひびを入れる……「聞き間違いじゃないですか?」と答え、黙々と荷物をまとめる僕の後ろで、「結衣ちゃん、リナお姉ちゃんって、リサさんとは違うよね?」と尋ねる三浦先生の声が聞こえた。なっ、子どもにそんなことを聞くなんて……保育士としてどうなんだ?
「ちがうよ。リナおねーちゃんはいっぱいあそんでくれるからすきー」
「そうなんだ、そんなお姉さんが遊びに来てくれるの?」
失敗したな……とぼけるなら、ほかの手段を取るべきだった……このままでは、三浦先生は結衣ちゃんから根掘り葉掘り聞き出しそうだ。
「ちがうよ。リナおねーちゃんは、おふろであらってくれるの。それでー……リサママのごはんもいっしょにたべるんだよ」
懸命に話をする結衣ちゃんは本当にかわいいよな。一日の疲れも吹き飛びそうなほど癒やされる。どこからか「おじさーん」と癒やし要素がまったくない声も聞こえたが、気のせいだろう……
「結衣ちゃんのおじさーん、聞こえてますよねー」
名指しされたので仕方なく三浦先生を見ると、彼女は目だけが激怒している器用な笑顔で、僕を見下ろしていた。
「どうかしましたか?」と、とぼける僕のひと言で、三浦先生の笑顔はすべて消えた……
「私がいるというのに、どういうことですか?説明してもらってもいいですか?」
私がいるって言われても、三浦先生が僕にとってどんな立場なのかは、よくわからない。
「えっと、最近来た従業員ですよ。今日も一緒に仕事してましたから」
三浦先生は口元に意味有りげな笑みを浮かべ、「二人っきりで仕事ですか?ハレンチです!」とか言い出した……この汚れた格好を見たうえで、人の仕事をハレンチってなんだよ。いや、今日の仕事を振り返ると、ハレンチはあながち否定できないか……答えに困っている僕を見かねたのか、三浦先生は膝をついて、笑顔で結衣ちゃんに話しかける。
「結衣ちゃん、先生も結衣ちゃんのおうちに行ってもいいかな?」
どさくさ紛れに何を言い出すんだ……焦った僕が「いや、来てもらっても……」と言いかけたところで、恐ろしい目でにらまれ、僕のガラス細工のような心は砕け散った。
「家庭訪問です」と言い切った三浦先生に、なんでそうなるんだと呆気にとられていると、彼女は「そんなハレンチな家が結衣ちゃんの養育に悪い影響を与えていないか確認しに行きます」とか言い出した。
勝手にハレンチな家にするなよと思いながらも、「いや、大丈夫ですよ。僕一人のときより、結衣ちゃんに手をかけられますから」と必死に笑顔を作る僕に向かって、三浦先生は「信用できません」と言い放った。
別に信用してくれなくてもいいけど……と言いかけたが、今そんなことを言うのは自滅行為でしかない。
「女性がいてくれて、結衣ちゃんも助かってるんですよ」
僕の話を聞いた三浦先生は頬を膨らませて、わざとらしくそっぽを向いた。
「私がいるじゃないですか。私のほうがいいですよね?」
いったい彼女は誰に向かって何を言ってるんだ?よくわからないで答えに窮していると、「えっとねー。まことせんせー、きていいよー」とすべての問題を一瞬で解決する結衣ちゃんのひと言……将来大物になるような気がする。
「結衣ちゃん、ありがとう。ケーキ持っていくね」
おっと、大人が子どもをケーキで釣るなんて卑怯じゃないか?
「やったー!まことせんせーだいすき」と喜ぶ結衣ちゃんを見て、僕は砕け散った心で覚悟を決めた。
結衣ちゃんをチャイルドシートに抱き上げながら、「帰ったら、いろいろ解決してるかな」とぼやいた僕の頭を、結衣ちゃんが撫でてくれた。
「ありがとう」と微笑むと、結衣ちゃんはにっと笑って、僕を見ている。僕なんかより結衣ちゃんのほうがずっと大人じゃないか。
「リサとリナが待ってるし帰ろうか」
「うん」と聞こえた結衣ちゃんの返事にうなずき、僕は眼鏡を押し上げて、バッカル三号を発進させる。
そして、今日も結衣ちゃんはチャイルドシートでご機嫌だ。
「リサママのごはんおいしーね」
「そうだね……結衣ちゃんはリサママのこと、好きなんだね」
「だーいすき!」
「リナは?」
「リナおねーちゃんもだーいすき!」
「そっか、リナも喜ぶよ」
あらためてこうして聞くと、二人が来てくれてよかったと思えるし、二人の存在感が増しているのがわかる。
——バッカル三号は和やかな雰囲気を振りまいて、ぴより野町を疾走する。その後ろを、小さな影がフラフラと追いかけていく。
阿部さんと「やらないか」は、山川純一先生『くそみそテクニック』(1987)からの引用です——アニメも面白かったです。
「モンチッチ」はセキグチのオリジナルキャラクターです。私が幼い頃、家にぬいぐるみがありました。明治のおかしのCMも観てました。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
毎週土曜日投稿予定。よければブックマーク・評価のひと手間を。誤字は各話末の『誤字報告』からお願いします。




