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園長先生面接とぴより野商店街

朝から仕事を終えた僕は店に戻ってきた。チリンチリンと鳴る扉が心地よく僕を出迎えてくれる。「ただいまー」と声をかけると「おかえりなさいませ、マスター」とリサが笑顔で出迎えてくれたが、その隣ではリナが不機嫌そうに僕を睨んでいる。

「親方のバカ、ケチンボ」一緒に仕事に行くと言っていたリナを、バッカル三号で行くからと置いていったことを根に持っているようだが、こればかりは仕方がない。大した荷物もないのに、まごころ源号を走らせるのはもったいない。だからといって、リナだけ歩かせるわけにもいかない。「そんなに機嫌を悪くしないでよ。手伝いが必要なときはお願いするからさ」リナは頬を膨らませてそっぽを向いてしまった。


「リサ、今日は園長先生面接があるから、これから保育園に行くよ。そのまま結衣ちゃんと帰ってくるから」道具を片付けながらリサに声をかける。「かしこまりました。私はその間に買い物に行ってきます」リサの声に「お願いするね」と言いながら振り向くと、突然リナに抱きつかれた。

「親方、あたいも連れて行ってくれよ」ひしとしがみついたリナが上目遣いで僕を見つめている。「リナ、今日は園長先生の面接があるからだめだよ」諭すように優しく声をかけたが、リナは離れるどころかさらに力強く抱きしめてくる。

「イヤだ。親方頼むよ、連れて行ってくれよ」甘える可愛い声と相反するように、リナの腕に力が入る。「ちょっとリナ、そんなに力を入れ……」言いかけたところで、背中がきしみ、声が詰まった。「なあ、連れて行ってくれよ」猫なで声で鯖折りをかまされた僕は、膝を床につくが、リナは手を緩めない。もう負けでいいから離してくれ……

「リナ!」リサの声で僕は解放された。両手を床につき、肩で息をする僕を尻目に、リサはリナの肩に手を添えた。「私と一緒に買い物に行きましょう。今日みたいに退屈な日は、リナが買い物を担当してください」リナの瞳は輝きを帯び、リサを見つめる。「おう!わかった。あたいに任せな」


胸を張るリナに微笑んだリサが僕に近づいてくる。「マスター、大丈夫ですか?はっ……」驚くように止まった声に僕が顔を上げると、突然リサの胸に抱き寄せられた。暖かく、柔らかく、そしていい匂いに包まれた僕の心は、一瞬で幸福感に満たされる。

「マスター、身体に毒が回っています」えっ、リナの鯖折りって毒の付与効果まであるのか?「このままではマスターの命に関わります……」幸福感は消え去り、胸に得体の知れない不安が募る。「そ、そうなの?」普通に考えれば鯖折りに毒の付与効果はないはずだが、リナならありえるかもしれない。

「失礼します」の声と同時に僕はリナに抱き上げられた。「一刻を争う状況です。このまま布団に入り、私の房中術で毒を抜きます」ん——?房中術だと?「リサ、それは目的が違うよね?」「いいえ、毒には変わりはありません」「リナの鯖折りの毒じゃないのか?」顔をそらしたリサは、露骨に聞こえなかったふりをしている。「あたいに毒はないぞ」リサが恐ろしい目でリナを睨んだ。


三人で店を出て、僕が店の扉に鍵をかける。「リサ、あたいはカレーを食べたいぞ」「カレーですか。結衣さんも食べるので甘口ですよ」「それでいいぜ」そんな会話を聞いていると、リサは理想の嫁ではないのか?と心をよぎる。でも、それは魔女っ娘になる僕には関係のない話だな。

「じゃあ、僕は行くよ。二人も気をつけて行って」振り向いた僕が微笑むと、リサが僕の手を取った。「マスター、悪い虫に気をつけてください」悪い虫——厚化粧の婆さんかな?「わかった、気をつけるよ」前カゴに書類を放り込んだ僕は、バッカル三号にまたがり、眼鏡を押し上げる。「行ってきます」僕はバッカル三号を発進させる。「じゃあなー、親方!」「マスター、気をつけて」背中に届いたその声に、手を振って応じ、スピードを上げる。


——保育園に到着した僕は、やけに静かな園内を見回した。「お昼寝の時間かな?」職員室をのぞき込み、「こんにちはー。あの、園長先生面接に来た篠田ですけど」と遠慮がちに声をかけた。職員室にいる二人の視線が一斉に僕に向けられたけど、そのうちの一つの視線が、背筋が凍るほどに冷たい。「あー、おじさんですか。こちらへどうぞ」つ、冷たい……三浦先生の態度が露骨に冷たい……

そんな三浦先生に案内され応接室に通された僕は、ソファーに腰を下ろした。「園長先生を呼んできますので、少し待っていてください」やけによそよそしい態度に、僕がなにか悪いことをしたのかと不安になる。「ふう、これは絶対にリサのせいだよな」心当たりはそれしか思い浮かばない。「まあいいか。考えても仕方がない……」


面接用に持参した書類をテーブルに置いたところで、金属がこすれるキイーという小さな音とともに応接室の扉が開いた。目を向けると、少し色のついたティアドロップのサングラスの奥から、鋭い視線で僕を見下ろす巨体が立っている。『こ、殺される……』息を呑み、思わず顔を伏せてつぶやいた僕は、勇気を振り絞って顔を上げた。

スキンヘッドに、もみあげのあたりから生えたひげがメキシカン・サイドバーンズに整えられている。そして立派な眉毛が目を引く。もしかすると、サングラスを外してひっくり返したら笑顔になる逆さ絵なんじゃないのか?——そんなことより、でかい……こんな言い方をしたら失礼だと思うが、あえて言えば『デブ』いや『百貫デブ』だ。

その肥満体を、深緑の着物と黒の帯で着流したスタイルで覆い、白い足袋を履いている。人を見た目で判断してはいけないが、これは決して保育園の園長先生ではない。その道の本職か、地方ではやけに有名な演歌歌手にしか見えない。

肥満体が僕の向かいに腰を下ろすと、ソファーが深く沈み込んだ。その隣に三浦先生が腰を下ろしたが、ソファーの沈み方が全然違う。重さが目に見えるとは、貴重なものを見せてもらった。


「園長先生、お願いします」三浦先生の声に深くうなずいた園長先生に、僕は恐る恐る持参した書類を差し出す。丸々とした手で静かに受け取った園長先生は、書類に視線を落とすと、僕を睨みつけて少し首を傾げた。

「あら、あなただったの。源屋さんを継いだのは。源さん、元気にしてる?」体格に見合わない高い声とオネエ口調に度肝を抜かれ、言葉が出ない……「そうだったの……ご両親とお兄さん夫婦の件で大変だったのに、結衣ちゃんを引き取って養育するなんて、今どきできた男じゃないの」ひげ面のくせに笑顔が眩しい。「——篠田大智、『大ちゃん』って呼ばせてもらうわ」全力で拒否したいが、得体の知れない目の前の肥満体に逆らう勇気が僕にはない。

太い指で一枚目の紙をめくった園長先生は、急に驚いたような表情を浮かべ僕を見つめた。「あなた……年収すごいわね……」そうつぶやいた口元に浮かぶ笑みに、さっきの笑顔の輝きはない。なんだろう、時代劇で悪徳代官が悪い廻船問屋に接待されているときに浮かべる笑みだ。園長先生の隣に座っていた三浦先生が、僕と書類を交互に見つめている。なぜだろう、さっきまでのよそよそしさは消え失せ、期待に満ちた瞳をしている。

「あ、あの……そんなに多いんですか?す、すみません……世間のそういうところをあまり知らないもので」園長先生は再び輝きが戻った笑顔で僕を見て、大きな声を上げて笑った。オネエ口調のわりに豪快な笑いっぷりだ。「そうね、真琴ちゃん先生の三年分くらいかしら……」僕の収入はやっぱり多かったんだ。疑問が晴れて、少しかしこくなった気がする。

変に納得している僕に、園長先生は話を続ける。「でもね、サラリーマンと違って、自営業の大ちゃんの場合は、ここに書かれている年収以上の生活水準のはずよ」その言葉に「えっ!」と小さな声で答えた三浦先生が、胸の前で手を組み潤んだ瞳で僕を見つめている。


園長先生がまた悪代官のような笑みを浮かべ、「真琴ちゃん先生、大ちゃんを気に入ったの?」と三浦先生を見つめた。目を見開いた三浦先生が、両手と首をぶんぶんと振って、「ち、違いますー。そんなんじゃありませんよー」と否定する様子を見て、園長先生は豪快に笑った。

「だめよ、真琴ちゃん先生。年収に惚れるなんて。そんな不純な動機の恋はあたしが認めないわ」「そ、そんな理由じゃありません」三浦先生は顔を真っ赤にして、膝の上で両手を組みうつむいた。「でもね、あたしは真琴ちゃん先生を応援するわ。だから一つアドバイスをしてあげちゃう。あー、なんて先生思いの園長先生なんでしょう」何の茶番かは知らないが、人をだしに浮かれる二人を見ているうちに、早く帰りたくなってきた。

「真琴ちゃん先生、こういうときは既成事実を作るといいの。それで大ちゃんは真琴ちゃん先生に首ったけよ」何を言ってるんだコイツは……。あきれる僕とは反対に、三浦先生は目を見開いて園長先生を見つめた。「ほ、本当ですか?」本気にするなよって口から出かかったが、早く帰りたい一心で、その言葉を飲み込む。「本当よ、あたしだってそうやって何人もの男を落としてきたの」本当に何を言っているんだコイツは……。

「それに……」園長先生は僕の方に身を乗り出し、目を閉じて鼻の下を伸ばしている。「くんか、くんか」なんて言い始めて、僕はなぜこんな罰ゲームを受けているのかと、小一時間ほど問いただしたくなってきた。突然目を開いた園長先生が「やっぱり臭うわ。大ちゃん、チェリーでしょ?」と言ってさらに顔を近づけてきた。


本気で帰ろうかという気持ちが脳裏を横切るが、これは結衣ちゃんの快適な保育園ライフを維持するための試練だと思い直し踏みとどまった。結衣ちゃんのために必死に落ち着きを取り戻そうとする僕を、園長先生は気迫にあふれる表情で、三浦先生は期待に満ちた目で見つめている。「ええ、まあ……そのような経験はありませんが……」これが世間で言う『圧迫面接』というやつなんだな。

突然、園長先生がパンパンと手を打ち鳴らして立ち上がった。「オーケー、オーケー。合格よ、合格。チェリーの父兄なんてキープしとかなきゃ、もったいないじゃないの。もうっ、大ちゃん、相当なやり手ね」僕がいったい何をしたと言うんだ?むしろ何かをしてないせいで合格できたんじゃないのか?

応接室を後にする園長先生がふいに振り返り、三浦先生にウインクを送った。「真琴ちゃん先生、早く大ちゃんを押し倒しちゃいなさい。その次はあたしよ」僕に視線を向けた園長先生のウインクに、これまでに感じたことのない悪寒が全身を駆ける。閉じた扉の向こうから園長先生の「あー、楽しみだわー」という声を聞いて、僕はなにか大変な過ちを犯したのではないかと不安になった。

「あ、あの……おじさん。今日はもう結衣ちゃんと一緒に帰りますか?」その声に振り向くと、三浦先生が身体をくねらせ、恥ずかしそうに僕を見ている。「そうですね。今から一度帰ると、すぐにお迎えの時間になるので、このまま一緒に帰ります」三浦先生は立ち上がると「じゃあ、保育室に行きましょう」と応接室の扉を開けてくれた。


三浦先生が保育室まで案内してくれるが、今日は歩くのがやけに遅い。いつもなら僕を置いてさっさと歩く人なのに、ゆっくりと歩きながら、ちらちらと僕に視線を送っているのがわかる。魔女っ娘の才能が芽生えはじめた僕は、そうした視線に敏感なんだ。「三浦先生、どうかなさいましたか?」小さな声で問いかけると、三浦先生は足を止め、僕の袖を軽く引く。

「あ、あの……おじさん、さっきの園長先生の話は気にしないでください」気まずそうに話す三浦先生に「気にしていませんよ」と微笑み、保育室に向かおうとすると、また袖を引かれた。もしかしてお昼寝の時間が終わるのを待っているのか?それならそうと言ってくれればいいのに。

「あ、あの……」たぶん三浦先生は、お昼寝が終わるまで待ってくれと言いたいのだろう。僕もそれくらいの気遣いはできる大人だ「もう少し待ちますね」とささやくように声をかけた。結衣ちゃんを連れて帰るのに、他の園児を起こしてしまうのもかわいそうだし、これで三浦先生も安心してくれるだろう。ふと、彼女を見ると、なぜか顔を真っ赤にして僕を見上げている。

「おじさん……やっぱり私のことを……あっ、いいです。私、なんとなくおじさんのことをいろいろ知りたくて、商店街の人たちに話を聞いたんです」——なんか思っていたのと少し違う答えが返ってきたけど、僕を気遣ってお昼寝が終わるまでの時間をもたせようとしてくれているのだろう。

「おじさん……私……おじさんを……だ、だめですよね。職場でこんな話は……そ、そう、だめです」そうか、園児たちの前で僕を童貞だのバカだの罵ったことを気にしているんだ。三浦先生が最近よそよそしかったのは、それが原因だったのか。僕は全然気にしてないし、そんなことで気を遣わせるのは申し訳ない。

「三浦先生、気にしないでください」僕の言葉に、三浦先生は申し訳なさそうに「すみません。もう少しだけ待ってください」とつぶやいて、顔を伏せてしまった。やっぱりお昼寝が終わるのを待ちたかったんだな。僕は窓からの景色に目を向け、そのまま静かに流れる時間に身を任せた。ときどき三浦先生が僕に視線を向けているようだが、待たされるくらいで怒るような僕ではない。


——うつむく真琴が『プロポーズの返事、あまり待たせちゃ悪いかな……』と心の中でつぶやき大智に視線を向けると、彼はニコリと微笑んで「大丈夫ですよ、待ちますから」と答えてくれた——


その頃、リサとリナは商店街を歩いていた。「また、泥棒猫の予感がします……」表情を曇らせるリサに「なあリサ、猫もいいけど、あたいは自転車が欲しいぞ」とリナがのんきに声をかけた。

「自転車ですか……倉庫によさげなものがありましたので、修理しておきます」リナはキラキラとした瞳でリサを見つめた。「ほんとか!かっこよくしてくれよ」リナに少し微笑んだリサは「わかりました。三日ほど待ってください」と答えて八百屋へと足を進める。「これで親方と自転車で仕事に行けるな」嬉しそうにつぶやいたリナは、小走りでリサの後を追う。


「八百五郎さん、こんにちは」と声をかけたリサを見て、リナが首を傾げる。「やおごろうってなんだ?」「このお店の名前です」「店の名前で呼ぶのか?」不思議そうに問いかけるリナに、リサも首を傾げた。「マスターも仕事先では『源屋さん』って呼ばれているでしょう」「そういえばそうだな」リナは腕を組んで小さくうなずいた。

「いらっしゃい、リサちゃん」店の奥から中年の小柄な女性が顔を出した。「おかみさん、さつまいものおいしいのはありますか?」問いかけるリサに、おかみさんは近寄り、困った表情を浮かべる。「季節じゃないからねー。じゃがいもならいいのがあるけど」おかみさんが指さした先のじゃがいもを見て、リサは笑顔を浮かべた。

「今日はカレーにするんでした。じゃがいもとたまねぎとにんじんもください」おかみさんは「そうかい、じゃあ入れてあげるよ」と言って、リサが手に持っていたかごを受け取り、次々と野菜を入れていく。「リサちゃん、カレーにするなら、ナスを入れてもおいしいよ」と言いながら、おかみさんは手に取ったナスをリサに見せる。「そうですね。ではナスもください」「ありがとうね。そういえば、二代目の源屋さんも頑張ってるみたいだね。たまに話を聞くよ」ナスをかごに入れ、会計をしながらおかみさんが声をかけた。

「はい、毎日何をしているのかよくわかりませんが、何かを頑張っているようです」リサの適当な返事に、「親方はすごく働き者なんだ」とリナが声を上げた。その様子を見て、おかみさんは笑顔を浮かべる。「あんたも源屋さんで働いてるのかい?」リナは腰に手を当てて胸を張る。「そうだ、あたいは親方の一番弟子のリナだ。よろしく!」

「そうかい、元気のいいお弟子さんだね。こちらこそよろしく」と言いながら、ひと袋のミニトマトをリナに差し出した。「リナちゃんへのお近づきの印にサービスしとくよ」「ありがとう、おかみさん」ミニトマトを手に喜ぶリナを見て、うんうんとうなずいたおかみさんは、リサにかごを手渡しお金を受け取る。

「リサちゃん、いつもありがとうね」「いえ、おまけまでいただいて、ありがとうございます」丁寧に礼を告げるリサに「気にすることないよ。うちも世話になってるんだ」と言ってリナに振り返る。「リナちゃんも仕事頑張るんだよ」とリナの肩を軽く叩いた。「おう、任せてくれ!じゃあな、八百五郎さん。また来るな」店を後にする二人を、おかみさんは手を振って見送る。


「リサちゃん、いらっしゃい!」魚屋『ウオノメ鮮魚店』の前を通りかかった二人に、威勢のいい声がかかる。「大将、こんにちは。でも今日はカレーなんです」微笑んで答えたリサに、「それなら、明日の朝食にアジの干物なんてどうだい?」と店の奥の方から女性の声が届いた。

リサは足を止め、店の奥の女性に小さく手を振る。「おかみさん、こんにちは。干物いいですね。他にもなにかありますか?」おかみさんが奥から出てきて、並んでいる干物に目を落とす。「いろいろあるけどね、今日はアジがおすすめだね。まあ見ていきなよ」

店へ歩き出したリサを見て、「おっ、そうこなくっちゃ。毎日魚食ってりゃ、結衣ちゃんもかしこくなるってもんだ」と喜ぶ大将の目に、リサの後ろをついて歩くリナが映った。「そっちの子は、リサちゃんの妹かい?」目が合った大将にリナは「あたいはリナ、親方の一番弟子だ。よろしく」と胸を張る。

「こりゃ、元気のいい弟子だ。まったく源屋さんがうらやましいってもんだ」ふうっとため息をついたあと、大将はにやけた顔で「それで、どっちが源屋さんのこれなんだ」と小指を立てた手を上げて見せた。「私です」「あたいだ」同時に響いたリサとリナの声を聞いて、おかみさんは大声で笑いはじめた。リサがムッとした表情でリナを睨むと、リナは「にひひひ」と笑って返した。

「面白いね。源屋さんはよく見るとかわいらしい顔をしてるから、モテるだろうね」おかみさんの話に、腕を組んだ大将が「そうだな、もうちょっとビシッと背筋を伸ばして胸を張っていれば、男前なんだがな」と難しい顔をしている。

「マスターは冴えないから、マスターなんです。冴えたマスターなんてただのカカシです」ちょっと声を荒らげたリサを見て「そりゃそうだな。男前の源屋さんなんてつまんねーな」と大将がつぶやくと、リナも「そうだぞ、親方はあれでいいんだ」と腰に手を当て胸を張り、おかみさんも「冴えたカカシを知らないけど、リサちゃんの言うとおりだよ」と納得したようだ。

「今でも保育園で、悪い虫がつきまとっているのに……」ぼそっとつぶやいたリサに「三浦さんだろ?」とおかみさんが笑った。「知っているのですか?」首を傾げたリサを見て、大将が「あれだけ源屋さんのことを聞き回ってりゃ、誰だって気づくってもんだ」と笑う。

「それで、リサちゃんどれにするんだい?」おかみさんの声にはっと目を見開いたリサが「おかみさんのおすすめのアジをください」と答えると、「一人増えたから四尾だね」と干物を新聞紙に手際よく包み、リサに手渡す。財布を取り出すリサに「今日はリナちゃんの分は、おまけしとくよ」と大将が声をかけ、「それ食って仕事頑張りなよ!」とリナに微笑んだ。

「ありがとうございます。よかったんですか?」リサが遠慮がちにおかみさんに声をかける。「いいんじゃないのかい?うちの亭主がそう言ってんだから」とおかみさんは笑顔で応じる。「でも、気をつけなよ。源屋さんは保育園のママさんたちにもモテそうだからね」その言葉と同時にリサの背中をおかみさんが軽く押す。

「はい、気をつけます」とリサはおかみさんに会釈をして店を出る。リナは「大将、ありがとうな!」と手を振ってリサの後ろをついていく。そんな二人をウオノメ鮮魚店の夫婦が笑顔で見送った。


「こんにちは」店のショーケース越しに声をかけるリサを尻目に、リナは店の前で立ち尽くしていた。「すげー店だな……」そうつぶやいたリナの視線の先には『肉の三段腹』と書かれた大きな看板が掲げられている。

「らっしゃい!おっ、リサちゃん、今日はカレーか?」ショーケースの向こうから顔を出した中年の男を見て、リサの表情が曇った。「大将、もしかしてストーカーですか?」大将はリサが手にする買い物かごをあごで示した。「違うよ。買い物かごの中の野菜を見て、適当に言ってみただけだ」「そうでしたか……お察しのとおりカレーです」いまだ疑いの目を向けるリサに、大将はため息をついた。「そうかい、それで、後ろの嬢ちゃんは何を見てるんだ?」大将の視線がリナに向いた。

「リナ、自己紹介してください」リサの声で我に返ったリナは、リサの隣に駆け寄る。「あたいはリナ、親方の一番弟子だ……おっさんが三段腹なのか?」ずけずけと問いかけるリナに、リサはため息をつき、大将は爆笑した。「三段腹はうちのかみさんだよ。俺は三段にもなれねえ、ただのビール腹だ」「そ、そうか……すげーな」リナは目を見開いた。

変に納得するリナを笑顔で見ながら、大将はリサに声をかける。「それで、なんにするんだ?」「ストーカー大将のおすすめをください」さらりと答えるリサに「まいったな……違うって言ってんだろ……」と頭をかきながら大将はショーケースをのぞいた。「そうだな……豚肉のいいのがあるから、カレー用に切ってやろうか?」大将の問いかけに、リサは「お願いします」と微笑む。

店の冷蔵庫から出した肉の塊を手際よく切りながら、大将がリサに話しかける。「リサちゃんもだいぶこの町に慣れたみたいだな」「はい、みなさん親切にしてくださいます」「そうか、そりゃリサちゃんを見てると、みんな元気になるからだろ」「そうなんですか?」「ああ、みんな言ってるよ」

切り終えた肉を包み、重さを量ってリサに手渡す。「源屋さんにいじめられたりしてないか?まあ、あいつは優しいからそんなことしねーか」「あたいは何もされてないぞ」胸を張るリナを見て、大将は安心したようにうなずく。支払いを終えたリサも笑顔で応じる。「ご安心ください、大将。私は毎晩卑猥な言葉を言わされるだけです」

リサの適当な答えに、そんなこと誰も信じないだろうと、リナはあきれたが、目の前の大将の顔から笑みが消え、みるみる真っ赤になっていった。そんな大将をリナは残念な目でじっと見る。「かーっ、おとなしそうな顔して、ひでーことしやがる!」憤慨する大将に、リサが「実直そうな顔をして、ストーカーな大将と同じですね」と澄ました顔で言い放った。「だから、違うって言ってんだろ……しかし、そんなことやらせて何が楽しいんだか」

「楽しいですよ」と答えたリサが、突然ショーケースに身を乗り出し、潤んだ瞳で大将を見つめた。「大将のとっておきのウインナー……欲しい……」大将は静かに身をかがめ、ショーケースから十本のウインナーを袋に入れて、リサに差し出した。「かーっ、ちきしょう!俺の負けだ、持っていきな!」「ありがとうございます。ストーカーの件は内緒にしてあげますね」笑顔のリサを見て、「だから、違うって言ってんだろ」と大将は頭をかく。

呆れた目で見つめるリナに、大将は照れくさそうにしながら、「もう、買い物終わりだろ、これ食いながら帰りな」と小さな包みを二つ差し出した。リナは受け取った包みをのぞき、「うわー、うまそうなコロッケだ。ありがとうな、大将」と笑顔を浮かべた。「かわいい一番弟子だな、仕事がんばれよ!」と声をかけ、肉の三段腹の大将は二人を送り出した。


——リサとリナは並んで帰路を歩く二人の時間に色を添える会話を、おいしいコロッケが弾ませていた。「なあ、リサ——この町、楽しいな」「そうですね。みなさんよくしてくれますが、マスターの人柄によるところが大きいような気がします」

リナはコロッケをもぐもぐしながら少し思案したあと、「そうだな。みんな親方のことが好きみたいだったな」と納得して、最後のひと口を放り込んだ。

その姿を見ておかしそうに笑ったリサが、なにかを思い浮かべるように少し空を見上げた。「マスターは人との距離のとり方が上手なんでしょう」「どういう意味だ?」「そうですね……相手が心地よく思える距離を敏感に察しているのではないでしょうか?」「なるほどな……」そう言いながら、リナはリサから買い物かごを受け取った。

交互に買い物かごを持ち歩く二人は、どことなく楽しげに見える。「逆に深く踏み込んでくる人は苦手だと思います」リサの言葉にリナは首を傾げる。「そうなのか?そうは見えないけどな」「マスターは仕事以外で他人と関わらないでしょう?」

リナは声を出して笑う。「たしかにそうだな……仕事以外の話で他人が出たことがないな……友達とかいないのか?」「いたらAIを相手に晩酌なんてしません」「にひひひ、それもそうだな」楽しそうに会話しながら店に入る二人を、少し離れたところから、小さな影が見つめていた。

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。

毎週土曜日投稿予定。よければブックマーク・評価のひと手間を。誤字は各話末の『誤字報告』からお願いします。

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