表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

保育園デビューとカレーな夕食

初めて結衣ちゃんを保育園に連れて行く朝、僕は三浦先生からもらったプリントを見ながら、登園かばんに着替えなどを詰める。

「保育園ってこんなに荷物が多いんだ……三浦先生にも迷惑かけてたな」

ひとりぶつぶつ呟きながら、昨日の夜に準備しておけばよかったと後悔する気持ちを、心の奥に押し込める。

プリントにもう一度目をとおし、忘れ物がないことを確認したあと、ため息一つで柱の時計を振り返ると、出発の時間五分前。「……そろそろ出かけないと」


荷物をまとめた僕は結衣ちゃんのところへ向かう。朝ご飯を食べ終わって、「おきがえするね」と寝室に向かった結衣ちゃんは、まだパジャマのままで遊んでいた。

「ゆ、結衣ちゃん……お着替えは?」青ざめる僕に、結衣ちゃんは「まだだよ。いまいそがしいの」と言って、タオルをかけたうさぎのぬいぐるみを寝かしつけている。

「結衣ちゃん、僕も手伝うから急いでお着替えしよう」「もー、しかたないなー」

しぶしぶ立ち上がってくれた結衣ちゃんを大急ぎで着替えさせる。パジャマを脱がせて、靴下を履かせて、シャツを着せて……スカートってどっちが前なんだ?手が止まった僕に、結衣ちゃんがスカートを指差して、「こっち」と教えてくれる。

「よし!行こうか、結衣ちゃん」


連絡手帳だけが入った保育園かばんを肩にかけた結衣ちゃんと店へ向かう。この家は店を通らないと外に出られない。着替えの入った登園かばんを肩にかけ、靴を履かせようと屈んだ僕を、結衣ちゃんが困った顔で見ていた。

「どうしたの、結衣ちゃん?」

「おじちゃん。ぼうしは?」

「——ちょっと待ってて、取ってくるから」

僕は靴を脱ぎ捨て急いで寝室へ向かい、帽子を持って戻る。結衣ちゃんに靴を履かせて、登園かばんをバッカル二号改Ⅱの前カゴに積む。店の鍵を閉めて、結衣ちゃんをチャイルドシートに乗せようと持ち上げた瞬間。

「おじちゃん。おしっこー」

顔から血の気が引くのが分かる。急いで店に戻り、靴を脱がせてトイレに行かせた。——待っている時間が長い……これ、絶対間に合わないよな。

トイレから戻った結衣ちゃんに靴を履かせたあと、そのまま抱き上げてチャイルドシートに乗せた。このチャイルドシートを装備して、『バッカル二号改Ⅱ』へと進化を遂げた愛車にまたがり、ペダルに足をかけ、指で眼鏡を押し上げる。


「よし!ひとっ走り行きますか!」「いきますかー!」


勢いよく飛び出したバッカル二号改Ⅱは、排ガスを一切出さない環境に優しいエンジンを全開にして加速する。

「わー!だいちおじちゃん、はやーい!」

結衣ちゃんが乗るチャイルドシートは、側頭部まで守るヘッドレストに、足を安全に保持するステップ、さらに五点式シートベルトを備えた高安全性のもの。なんとヘルメットも標準で装備されている。そして、雨天時にはレインカバーも取付可能で、バッカル二号を『改Ⅱ』たらしめる一万円超えの代物だ。

——だが、重い……エンジンに過度な負担がかかっているのか、いつも以上に息が上がり汗が吹き出してくる。しかし、ここで諦めるわけにはいかない。保育園への初めての送迎で遅れを取るわけにはいかないんだ。

「おじちゃーん!はやいー、もっとだしてー!」後ろから聞きようによっては、ちょっといけない声援が届く。

「よーし、いくぞー!」「いってー!」バッカル二号改Ⅱはスピードを上げて、保育園を目指す。


猛スピードで走ってきたバッカル二号改Ⅱが、ドリフト気味に保育園の門を抜け、悲鳴のようなブレーキ音と土煙を上げて、駐輪場に停車した。

「えー、もうおわりー?」つまらなそうに顔をしかめる結衣ちゃんを、バッカル二号改Ⅱから下ろし、ヘルメットを脱がせる。上がった息を整えつつ帽子をかぶせ、あごひもを留めた。

「結衣ちゃん、保育園に着いたから、また明日ね」


「——ダメです!」


突然背中に届いた冷静ながらも険しい声に、流れていた汗が、一気に冷えて引いた。そんな僕の目の前で、結衣ちゃんの視線は声の主へと向けられ、顔には満面の笑みが浮かんだ。

「あー、まことせんせー。おはよーございまーす」可愛らしくお辞儀をする結衣ちゃんに、さっきとは違う優しい声がかけられる。

「結衣ちゃん、おはようございます。一人で準備できるかな?先生はおじさんとお話があるの」

「はーい!じゃーね、だいちおじちゃん」手を振って駆け出した結衣ちゃんに振り向き、バイバイをする僕の視界の端に、口元を引きつらせた冷たい笑顔の三浦先生が映った。

「——あんなに危ない運転で保育園に来てもらっては困ります!」両手を腰に当てて、僕を厳しい視線で睨む三浦先生。とっさに深く頭を下げる。「は、はい……すみません。遅れそうで急いでいたもので……」そのまま固まった僕に、厳しい言葉が続く。

「電話だけくれれば遅れても大丈夫です。あんなスピードで飛び込んできて。だいたい、他の園児もいるんですよ。今日はたまたまいませんでしたけど、いつもならこの辺りで遊んでいる子どももいるんです。もう少し考えてください。それに、事故でも起こしたらどうするんですか?」

「そ、そうですね。僕も結衣ちゃんも事故で両親を亡くしたんでした……」頭を上げた僕を見て、三浦先生は気まずそうに視線を逸らした。「あ、あの……そういうつもりで言ったわけじゃ……」

僕の言い方が悪かったせいか、気まずい雰囲気になってしまった。「大丈夫です、事実ですから。明日から気をつけます」そう言い残して、僕は保育園を後にした。


朝から三浦先生に叱られた僕は、少し肩を落としてバッカル二号改Ⅱで帰路につく。行きに全力で走ったことも重なって、ペダルを漕ぐ足が重い。

結衣ちゃんが通う『聖ハムハム保育園』は子どもたちの自由な発想を大切にする、私立の保育園だ。亜希義姉さんから『園長先生は少し変わってるけど、いい保育園』と聞いたことがある。

真琴先生と園長先生の配慮で、当面の間、結衣ちゃんはここに通うことができることになったが、正式には園長先生が僕の面接をしてから決定するそうだ。私立の保育園は親の面接もあるんだと、感心しながら聞いた。

終わったことは仕方がない。若い女性に怒られたのは、僕へのご褒美だと思っておこう。「さて、帰って洗濯済ませて、実家に行きますか」そう呟き、指で眼鏡を押し上げた僕は、少しスピードを上げて家路を急ぐ。


店に戻った僕は、大急ぎで洗濯に取りかかり、干し終えた洗濯物を眺め、ひと息つく。「ふー、子どもの洗濯物って意外と多いんだな」時計を見ると、もうすぐお昼になる。

風になびく子どもの服が、妙にかわいく見えた。「実家に行って結衣ちゃんの服を取ってこないと、雨でも降ったら洗濯が追いつかないぞ」重い腰を上げて、まごころ源号で実家に向かう。


——当然だが実家は静まり返っている。心なしか湿気がこもり、少しかび臭いような気がしたから、荷物を詰める間、窓を開け放って換気する。

二階の兄夫婦の寝室であった部屋へ行き、タンスを開けて結衣ちゃんの服を探すが、思っていたより少ない。「もっとあってもおかしくないはずだけど……」とりあえず段ボール箱に結衣ちゃんの衣類を詰めていたとき、この部屋もどこかかび臭い気がした。

「換気しないとかびが生えそうだな……」窓を開けて振り返ったとき、ベッドのサイドテーブルに立てかけてあった写真が目に入った。兄夫婦に囲まれて笑顔の結衣ちゃんは、きれいな着物を身につけている。

「七五三の写真かな?」この平凡な幸せも、もう戻らないのかと思うとなんとなく胸が痛む。写真を手に取った僕は、他にも思い出のものがないか、サイドテーブルの引き出しを開けた。

そこには……明るい家族計画の必需品、と噂に聞いたことのあるゴム製品が大量に入っている。そして、その脇にはピンク色の卵型で、マッサージ機のはずなのに実際にマッサージに使われているのを見たことがない、と評判の機械が転がっていた。

思わず眼鏡を押し上げて再確認してしまった。「兄貴と義姉さんのこんなところ知りたくなかったな……まあ、三十歳まで童貞を守って、魔女っ娘になる僕には関係ないか。リサもなれるって言ってたし」もらっても使い方すら知らないから、ごみ袋に入れておく。

「まったく、子どももいる部屋にこんなもの置いとくなよ……僕には何に使ってたか想像もつかないけど……いや、待て……」僕は大事なことを見落としていた。ベッドが一つしかないのに三人が寝ていたとは思えない。

僕は立ち上がって部屋を見回す。「もしかすると、結衣ちゃんの部屋は別にあるんじゃないか?」二階を兄夫婦が使っていたらしいので、他の部屋も探してみることにした。


その寝室の隣の部屋は、全体がかわいらしく飾られている。「ここが結衣ちゃんの部屋だな」床に転がったおもちゃや絵本の先にあるタンスとその上に飾られた写真が目に入る。

僕はタンスを開けてみた。思ったとおり結衣ちゃんの服がたくさん入っている。子どもでも手が届く高さのこのタンスを持ち帰ろうと思ったが、一人で一階まで運ぶ自信がない。

「結衣ちゃんの着替えが優先だな」とりあえず中身だけを持ち帰ることにして、段ボール箱に詰め始めた。

全部詰めても、持ってきた段ボール箱が一箱余ったから、床に転がっているおもちゃと絵本を入れた。「そうだ、写真……」僕はタンスの上に飾られた写真を手に取る。ひな壇の前で笑顔の結衣ちゃんを見て、思わず目が細まる。

「ひな祭りか……でもこれ、一階の和室だよな……もしかして、ひな人形もあるのか?」とりあえず、その写真も段ボール箱に収める。

僕は実家の戸締まりを済ませて、荷物をまごころ源号の荷台に積み込んだ。「まだまだ、荷物は多そうだ……誰かに手伝ってもらわないといけない……」そうぼやいて、その日は実家を後にした。


店に持ち込んだ荷物から、とりあえず結衣ちゃんの服を取り出し、タンスにしまった。「すぐに大きくなるだろうし、そのとき買い換えればいいだろう」ふと、柱の時計に目をやると、もうお迎えに行く時間が迫ってる。

「こんなの毎日続けられるかな……」僕は両頬を手で叩いて気を持ち直す。「いや、たった二人残ったんだ、やらなきゃな」僕はバッカル二号改Ⅱにまたがり、保育園へ向かった。


駐輪場にバッカル二号改Ⅱを停めて、僕は保育園に入る。朝は三浦先生に怒られて建物の中に入る前に帰ったから、なんとなく緊張する。他の親御さんたちもちらほら迎えに来ているようだけど、少ないように感じる。ちょっと来るのが遅かったのだろうか?

「こんにちはー」僕の声が聞こえたのか、入り口脇の職員室から三浦先生が顔をのぞかせた。「待ってましたよ、おじさん」三浦先生におじさんと呼ばれると、なんか違うおじさんに聞こえてしまうから不思議だ。パパって呼ばれるよりマシなのか?いや、呼ばれてみたい……かもしれない。

「朝はすみませんでした……」保育室に案内される途中、三浦先生が呟くように口にした。

「い、いえ、悪かったのは僕なんで、結衣ちゃんのためにと張り切りすぎてしまいました」

三浦先生が丸めた手を口元に当てておかしそうに肩を揺らした。「本当の親子みたいになってきましたね。結衣ちゃんも、おじさんの話ばかりしてました」そうか……ちょっと安心した。


「結衣ちゃーん。お迎えが来ましたよ」友達と窓際にいた結衣ちゃんが、僕を見つけて駆け寄ってくる。

「おじちゃん、はやーい」僕は膝を落として、結衣ちゃんを抱きとめた。「お迎え早かったかな?」結衣ちゃんは僕の顔を見て笑っているだけ。

「お二人ともお仕事されていましたから、もう少し暗くなってからのお迎えが多かったですね」僕の背中から落ち着いた声が聞こえた。そうか、兄さんと義姉さんは同じ職場だったし、帰りも同じくらいの時間だよな。

ここで暗くなったらだめだよな……僕は立ち上がって三浦先生に微笑む。「えっと……これから、どうしたらいいんですか?」なぜか一瞬目を逸した三浦先生が、帰りの支度を教えてくれる。

「ここが結衣ちゃんの棚です。汚れたものは、そのビニール袋に入っていますので、忘れずに持ち帰ってください」僕はビニール袋の中をのぞいてみたが、大して汚れていない。もう一回くらい使えるんじゃないか?「ちゃんと洗濯してくださいね」三浦先生に心を読まれたようだ……

「あと、タオルにお名前がありませんでした。保育園に持ってくるものには、ひらがなで名前を書いておいてください」僕はビニール袋からタオルを手に取り広げてみた。「あっ、本当だ。書いたつもりだったんだけどな……」

膝の上にタオルを広げて、胸ポケットからマジックを取り出し、忘れないうちに名前を書き込む。「おじさんの名前を書いてもダメです」見ると「しのだだいち」と書いてしまっていた。「あーあ、やっちゃったな……」「だめです!」結衣ちゃんにまでダメ出しされてしまった。

「あの、おじさん……」三浦先生が遠慮がちに声をかけてきた。ま、まさか『お小遣いちょうだい』なんて言われないよな……

「家のこと大丈夫なんですか?」「家のこと?」「ご飯とか、洗濯とか、お風呂とか、掃除とか」予想は外れたが安心した。少し残念な気もするが。

「僕もひとり暮らしが長いので、ある程度のことはできます。結衣ちゃんだって自分のことは自分でしてくれるもんね」「……うん!」一瞬の間に三浦先生から疑いの視線を向けられた。

その視線から逃れるように、僕は結衣ちゃんの手を取り、保育室を後にする。「ときどき様子を見に行きます。心配になりました」その声に僕は小さくうなずいた。「まことせんせー、さようなら」「はい、さようなら」結衣ちゃんは三浦先生に手を振りながらついてくる。

バッカル二号改Ⅱに結衣ちゃんを乗せ、シートベルトを締めながら話しかける。「結衣ちゃん。おやつ買って帰ろうか」「やったー。べにぱりいくー!」紅巴里か……あの婆さん、まだ生きてるのか?そんな心配をしながらバッカル二号改Ⅱにまたがり、指で眼鏡を軽く押し上げた。

「よし!じゃあ紅巴里に行きますか!」「いきますかー!」


朝とは違ってゆっくりとバッカル二号改Ⅱを走らせる。僕は、『先生』と呼ばれる人の言うことは守るんだ。

「おじちゃん。もっとだしてー」結衣ちゃんの可愛いおねだりに心を揺さぶられるが、ここはじっと耐える。「スピードを出すと、僕が真琴先生に怒られるんだよ」「えー、つまんない」あー……心が折れそうだ……

『紅巴里』——相変わらずきらびやかなライトで飾られた看板だ……夜には店を閉めるんだから、このライトの必要性が僕には分からない。中はありふれた雑貨屋で、僕が幼い頃から婆さんが一人で店を切り盛りしている。

結衣ちゃんをバッカル二号改Ⅱから下ろすとヘルメットをかぶったまま駆け出した。「ちょっと、結衣ちゃん、ヘルメット……」僕の声を無視して結衣ちゃんは勢いよく店の引き戸を開ける。

「こんにちはー」「あー、結衣ちゃんじゃないかい。久しぶりだねー」店の中から懐かしい声が届いた。

店に入ると結衣ちゃんが婆さんに笑顔を向けていた。「ぱりまま、げんきー?」「ああ、元気だよ。結衣ちゃんも元気そうで安心したよー」婆さんの目が僕に向けられた。

「あんたは……篠田さんとこの次男坊じゃないか……あのクソガキが大人になって……まったく、世の中狂ってるよ」

「婆さん……」言いかけたところで、恐ろしい形相で睨みつけられた。「巴里ママもまだ生きてたんだ」大人になっても『巴里ママ』って呼ばされるんだ……

結衣ちゃんがお菓子を選び始めると、巴里ママが僕の元へ近づいてきて、耳元で囁いた。「あんた、大変だったみたいだね」「ああ、ようやく少し落ち着いたんだ」

うんうんとうなずいた巴里ママの視線が結衣ちゃんに向けられた。「あの子はあんたが面倒見るのかい?」「他の親戚は知らん顔だった。まあ、自営業の僕が一番適任だろう」「源さんの店を継いだんだったね。そうかい……まあ、頑張んな」

「おじちゃん、これー!」結衣ちゃんが両手でおまけの付いたキャラメルを大事そうに持っている。懐かしいな、まだ売ってるんだ。「これでいいの?」「うん!」キャラメル一個でこの笑顔……癒やされるな。

「じゃあ巴里ママに渡して」結衣ちゃんは巴里ママにキャラメルを差し出した。「これくださいっ!」「はい、ありがとうね。二百円だよ」僕は思わず吹き出した……

「二百円もするのか?」「そうだよ。あんたの小さい頃とは違うんだ。可愛い結衣ちゃんが欲しがってんだから、ちゃきちゃき払いな」笑顔だが言ってることはえげつないな、この婆さん……

財布から小銭を出していると、結衣ちゃんが僕のズボンを引っ張った。「おじちゃん、カレー食べたい」そうだ、夕食のことを忘れてた……「カレーか……明日でもいいかな?材料がないんだ」

「ちょっと待ちなよ」そう言って巴里ママが棚から何かを取り出した。「これ、レトルトだけど、子どもに人気なんだ。どうだい?」

受け取った箱を見ると、『華麗なお姫様(甘口カレー味)』。なんだこれ……「なあ、巴里ママ……これ食えるのか?その前に、これ、カレーなのか?」「失礼な坊主だね。カレーって書いてあるだろ。美味しいって評判なんだよ」

もう一度箱をよく見てみる。「どう見ても、甘口カレーの味がする華麗なお姫様としか読めないんだ……」巴里ママは小さくため息をついた。「まったく、これだから童貞の小僧は困るよ……お姫様、お姫様って、そんなにお姫様を買いたきゃ余所の店に行きな。それとも私が……」

「あーもう、買うよ。僕も食べるから二つくれ」「ありがとさん」まんまと巴里ママの策略にはまった気分だ……


「意外とうまいな……」『華麗なお姫様(甘口カレー味)』をひと口食べて、思わず呟く。「結衣ちゃん、カレー美味しい?」「おいしー!」結衣ちゃんは口の周りにカレーを付けた笑顔で答えてくれた。

それからは、結衣ちゃんが保育園での出来事をたくさん話してくれた。たまに出てくる名前の子が仲のいい友達なのだろうか?ともあれ、楽しそうに話す結衣ちゃんを見ていると、僕の励みにもなる。

ガラガラ……店の扉が開く音がした。「あれ。もう閉めてるのに、お客さんかな?」便利屋稼業の僕の店には夜でも困りごとを持ち込む客がたまにいる。

店に出ようとしたところで、居間の引き戸が開き、三浦先生が顔を見せた。「こんばんはー。ご飯中でしたか、すみません」確かにたまに様子を見に行くとは言っていたが、まさか今日来るとは思わなかった。

「す、すみません。どうぞ、上がってください」「お邪魔します」居間に三浦先生を招き入れ、僕はお茶を用意しに台所へ向かう。冷たいお茶を可愛い柄のコップに注いで戻ると、三浦先生の顔が険しくなっていた。

「ど、どうぞ。こんなコップしかなくて、すみません」恐る恐る差し出し腰を下ろすと、先生が冷たい目で僕を見る。

「おじさん、毎日レトルト食品なんですか?」その視線が『華麗なお姫様(甘口カレー味)』の空き箱に突き刺さった。「いえ、今日は帰りにこれを勧められたので……たまたま……ねえ、結衣ちゃん」

三浦先生の気迫に押されて、思わず結衣ちゃんに助けを求めた。結衣ちゃんは顔を上げ、にこっと三浦先生に笑った。「うん。おじちゃんどーてー」部屋の空気が一気に冷め、三浦先生が恐ろしい目で僕を睨んだ。

「なんてことを教えているんですか……」「いや、ち、違う……紅巴里でお姫様を買わされた時に……」焦った僕はいろいろ省略してしまった。

「紅巴里……お姫様を買った?おじさんそういう人だったんですか……」「いや、華麗なお姫様の話で……誤解なんです」「華麗なお姫様を買った童貞の話は、信用できません!」な、なんでそうなるんだ……

「まことせんせー、これ」結衣ちゃんが空き箱を三浦先生に手渡した。「華麗なお姫様……甘口カレー味……結衣ちゃん、これ何かな?」三浦先生の問いかけに、結衣ちゃんはスプーンにカレーをすくって、見せる。「これ、おいしいよ」

「華麗なお姫様……結衣ちゃん紅巴里って知ってる?」「うん。ぱりままのおみせ」三浦先生が再び僕を睨んだ。「紅巴里って、僕が小さい頃からやっている雑貨屋で、そ、そこの婆さんが子どもたちに自分のことを『巴里ママ』って呼ばせているんです」

「紅巴里……雑貨屋?」三浦先生の顔がみるみる紅潮していく。「す、すみません。おじさん、私勘違いしてしまって……」「いえ、大丈夫です。謝らないでください」「おまけに童貞なんて言って……」「事実なので気にしないでください。巴里ママが僕に童貞って言ったのを、結衣ちゃんが聞いていたんだと思います」

三浦先生が顔を上げて、不思議そうに僕を見る。「おじさん、童貞なんですか?」し、しまった……僕はなんてことを言ってしまったんだ……そんな純粋無垢な顔で聞かないで欲しい……「は、はい。お恥ずかしながら……」

向かい合ったまま顔を真っ赤に染めた僕と三浦先生の間に沈黙が落ちた。「おじちゃんとまことせんせー、けっこんしていいよ」結衣ちゃんの明るい声に三浦先生は両手で顔を隠してしまった。

「け、結婚……でも、もう少しお互いを知って、それから手をつないで、お付き合いして……ダメです。そんな急に結婚なんて……それに私を養ってくれるほど収入がないと……ううん。収入はいいの……私を愛してくれて、おじさんが私を一番に思ってくれるなら……白馬の王子様にだって負けないと思うの……」

何か暴走し始めた三浦先生に、恐る恐る声をかける。「あ、あの……三浦先生……だ、大丈夫ですか?」顔を上げた三浦先生が、僕と結衣ちゃんの顔を交互に見比べて、耳まで真っ赤に染めた。「あの……今日は失礼します」三浦先生は足早に家を後にした。

「いったい何だったんだ……」三浦先生の勢いに押され傾いた眼鏡を指で軽く押さえた。「だいちおじちゃん、カレーおいしいね」笑顔の結衣ちゃんがスプーン片手に微笑んでくれた。

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。

休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ