プロローグ
「ありがとう。これでいいよ」
『了解。チラシデータを保存しました』
木と土の香りが漂う古めかしい店には似つかわしくない、新品のパソコンのモニターには、僕が経営する便利屋のチラシが映っている。仕上がりは文句なしだ。
もちろん僕が作ったわけではない。目的を伝え、問いかけに答え、頷きながらモニターを眺めていたら出来上がった。
「今日中に印刷屋に持っていかなきゃな……」『印刷用にデータを修正しました。このまま持ち込み可能です』
ただの呟きにまで答えてくれる、この高性能AIの『ViEL』(ヴィエル)がデザインした。
「助かるよ。ありがとう」
眼鏡を押し上げて画面を見つめる僕は、二十五歳、独身。彼女いない歴=年齢。どこにでもいるただの好青年でしかない——篠田大智。アルバイトのつもりで働き始めた便利屋『まごころ堂源屋』を、なぜか引き継ぐことになってしまってから、もう五年が経った。
『マスター、メール添付の許容量内です。文面も用意できますが、どうしますか』「ありがとう、リサ。でも印刷屋の親父の顔も見たいし、持っていくよ」『了解』
この、かゆいところに手が届きそうなほど高性能なAI『ViEL』。正式名称は『Vast Integrated Entity of Learning』というらしいが——意味は分からない。まあ、相当な代物なのだろう。
文章の作成はもちろん、今日のようなデザインも難なくこなし、ほとんど毎晩、缶ビール片手の僕の話し相手にもなってくれる。これが世界中どこでも無料で利用できるのだからすごい。僕はこのAIを親しみを込めて『リサ』と呼んでいる。——絶対に寂しいからではない。
散らかった机の上をかき分けて見つけたUSBメモリに、できたてのチラシデータをコピーする。それが終わりかけたころ、少し開けていた窓から、どこか遠くのサイレンの音が聞こえてきた。
「忘れないうちに戸締まりしておこう」慌てて出掛けると、窓をよく締め忘れる。店とはいっても便利屋稼業だから大したものはない。けれど住居も兼ねているから、締め忘れは気分のいいものではない。
ちなみに店では、仕事先でもらったり引き取ったりした品を並べて売っている。先代店主の趣味の名残だ。
USBメモリをポケットに入れ、店の鍵を閉めた僕は、愛車のバッカル二号改にまたがる。五年前に買い換えたこの自転車は、前にはかご、後ろには荷台。とても汎用性の高いママチャリだ。
一年ほど前にサドルを盗まれ、真新しいサドルに付け替えたときに『改』を加えた。けれど他はくたびれている。
他に先代の店主から譲り受けた軽トラック『まごころ源号』もあるけど、あまり乗ることはない。荷台に『まごころ源号』と手描きしてあるのが、また恥ずかしい。
「さて、ひとっ走り行きますか」
僕はガソリン不要のエンジンを全開にして、印刷屋を目指して走り出した。
春の日差しを全身に受け、生まれ育ったこの『ぴより野町』を疾走する自分の雄姿を思い浮かべ、バッカル二号改はさらにスピードを上げる。上がる息と心拍数、そして額から流れ落ちる汗が、エンジンの限界を教えてくれる。
「燃料補給が必要だ」自動販売機の前にバッカル二号改を停め、冷たいコーラを買うと、一気に飲み始める。
オーバーヒート寸前のエンジンがわずかに息を吹き返すが、さっきのスピードで印刷屋まで走り切る自信がない。
「もう、若くはないのか……いや、そんなことはない。まだまだ大丈夫だ」ひとりぼやいた僕は、空き缶をゴミ箱に落とすと、軽い音がひとつ響いた。
その音を合図に、僕はバッカル二号改にまたがるが、サドルに預けた尻が痛い。一年前に替えた『改』の誇りは、僕の尻への優しさを失ってしまったようだ。意味不明な思考を巡らせながら、ママチャリにふさわしく、そして尻に優しいスピードで、印刷屋を目指して再出発した。
「こんにちは」印刷屋に到着し、カウンター越しに声をかけると、奥から不愛想な親父が顔をのぞかせた。「いらっしゃい。電話くれてたチラシか?」「はい。これに入ってます」
僕は親父にデータの入ったUSBメモリを手渡し、応接用のソファーに腰を下ろす。年季が入っているせいか、尻に優しくないソファーだ。
汗をかいている僕にお茶も出さず、さっそくデータを確認しながら、ふむふむと相槌を打っているこの不愛想な親父——平松忠太郎。先代店主と幼馴染らしく、いろいろ問題は多いけど頼みやすい。
「よくできてるじゃないか……お前さんが作ったのか?」「——まあね」親父は僕の前に腰を下ろすと、目が泳ぐ僕に難しい顔を向けた。
「先代の店主は、落書きみたいな絵をチラシの裏に描いて持ってきてたからな。データで持ってくるお前さんには助かってる」「そう言ってもらえると、作った甲斐があります」
「で、支払いは現金だ。カードは手数料取られるからな」いつも現金で払ってるのに念を押してくる親父に、一万円札を手渡し、すかさず釣りを催促する。
その後も、黙っていると釣りを渡さずに済ませようとする、どうにも質の悪い親父の愚痴を聞かされているうちに、日がすっかり傾きはじめていた。
「そろそろ帰ります」「おう、仕上がったら電話するから取りに来いよ」
これで、空き家やごみ屋敷片付け、不用品回収のチラシができれば、まごころ源号の出番も増えるだろう。
親父の声を背に受けて印刷屋を出たとき、ポケットの中でスマホが震えた。
「はい、まごころ堂源屋です」「篠田大智さんの携帯で間違いございませんか?」妙に諭すような口調の相手に、思わず声が震えた。「あっ、はい、僕ですけど……」「ぴより野警察署交通課の石井です」「はあ……警察がどのようなご用ですか?」
少し間が空き、妙な胸騒ぎを覚える。「ご両親とお兄さんが交通事故に遭われて、ぴよりの総合病院に搬送されました」一瞬、その言葉の意味が理解できなかった。交通事故?病院?何を言ってるんだ?「できるだけ早く来てもらえませんか?」その深刻な声に、話を理解し、そしていたずらや嘘ではないことを理解した僕は、スマホを握る手が汗で滑り、何も返せないまま通話を切った。
胸をかき乱す不安に突き動かされ、バッカル二号改に飛び乗る。ペダルを踏み込む足に力が入り、病院を目指して全力で走った。景色が流れていく。なのに時間は遅すぎる。早く、早く。必死にペダルを踏み続けるが、汗が流れ、息が上がるばかりで、病院は遠いままだ。
——病院に駆け込んだ僕は、周りを見回した。知っている顔は一人もいない。次第に高まる不安を胸に抑え込み、受付カウンターへ向かった。
「すみません。警察から電話をもらったんですけど」上がる呼吸を隠すことなく問いかける僕に、受付の女性は淡々とした態度で応じる。
「失礼ですけどお名前は?」「篠田大智です」「どのようなご用件でしょうか?」「は?」「どなたにご用でしょうか?」「いやだから、警察からこの病院に急ぎ来てくれと電話があったんです」女性は返事をすることなく、どこかに電話をかけ始めた。その無表情になぜか怒りがこみ上げる。
「係りの者が参りますのでしばらくお待ちください」この人は何も悪いことはしていない、なのになぜか怒りが増幅する。僕は黙って少し離れたところで待つことにした。
「篠田様、お待たせいたしました」間をおかずに現れた男性の丁寧な口調と、柔らかい態度で受付の女性に覚えた怒りは静かに収まる。
「ご案内いたします」——どこへ案内されるのだろうか。不安を通り越して恐怖すら覚える。なぜか問いかけることもできず、黙って男性の後ろをついていくと、エレベーターの前で立ち止まった。そのまま何も話すことなくエレベーターが到着するのを待っているが、やたらと遅い。早く僕を乗せてこの胸の恐怖を取り払ってほしい。
僕たちを乗せたエレベーターは静かに動き始めた。そして到着したフロアに足を踏み入れると、そこは肌寒く、白い蛍光灯の明かりが薄暗く、そして冷たく感じる。
男性は一つの部屋の前で立ち止まった。顔を上げるとドアの上に『ご遺族控室』と書いてある……冗談じゃない。いや、この中で家族の誰かが待っているんだ。
扉を開けると、制服の警察官が二人、同時に立ち上がった。向かいに座るよう、手で促される。
「篠田大智さんですね。先ほど電話いたしました、ぴより野警察署交通課の石井です」「はい……」僕の期待は、あっけなく裏切られた。知らない警察官に取り囲まれただけじゃないか。
「まず、身分証明できるものを見せてほしいのですが」財布から免許証を抜こうとするが、指が震えてつまめない。ようやく引き抜いた拍子に、札入れの端で滑り、テーブルに落とした。
石井さんは免許証を静かに拾い上げ、短く確認すると、音を立てぬように返してきた。同時に、もうひとりの警察官が無言で部屋を出る。ほどなく、白衣の男性を連れて戻ってきた。
「では、こちらへ。医師の説明の前に確認をお願いします」次第に足が震え始める。ついていくのが怖い
案内された安置室は、寒いほどに冷えていた。そこには四人が横たわっていた。冷気と静けさの中で、白布だけが異様に明るく浮かんでいる。
石井さんに促されるまま、一人の前に立つと、白衣の男性が、顔を覆う白布をそっと外す。露わになった顔を見て、喉が鳴っただけで、声にならない。
「お父さんの篠田誠一さんでお間違いありませんか?」石井さんの声に、ただ頷くしかできない僕を、隣の人の元へと促す。
「お母さんの篠田陽子さんでお間違いありませんか?」同じように頷くだけで、呆然と立ち尽くす僕を、警察官二人が支えて隣へ進ませる。
「お兄さんの篠田真人さんでお間違いありませんか?」頷いた僕は隣の人の元へと引きずられるように移動する。
「この方はどなたかご存じですか?」石井さんの小さな問いかけに、僕は乾いた喉を鳴らして掠れるような声を振り絞った。「……義理の姉です」「お名前は分かりますか?」「……亜希」
「ありがとうございました。この後、医師からの説明がありますので、我々は外で待機しております」
——僕は全身の力が抜けて、膝から床に崩れ落ちた。「はは……はははは」なぜか笑ってしまった。目からはあふれるように涙が零れ落ちているのに、笑うしかできなかった。
そのままの状態で医師からの説明を受けたが、そんなことはどうでもよかった。目の前に突き付けられたこの事実を僕は理解できない……理解したくない。
それからも医師と警察官にいろいろ説明されたが、何も頭に入らなかった。ただ現実を受け止めるだけで精一杯だった。
「だいちおじちゃん!」警察官二人に付き添われてロビーに上がったとき、聞き覚えのある元気な声が届いた。「——結衣ちゃん」
ロビーの空気は、安置室の冷えとは別世界のように温かった。同時に僕に対して大きな試練を与えたようだ。
若い女性に手を引かれた結衣ちゃんが、満面の笑みで僕に手を振る。困った、この子の両親……兄さんと義姉さんのことをどう話せばいいんだ……
肩から下げたカバンには、保育園のキャラクターが大きく描かれていて、歩くたびに可愛く揺れる。どう接したらいいのか分からなくなり黙り込む僕に、遠慮がちな声がかかった。
その女性の胸元には、子ども用のキャラクターがプリントされた名札が揺れている。「あの、私、結衣ちゃんの保育園の担任の、三浦真琴です……あの……」途切れた言葉と、不安そうな表情に、僕は首を小さく横に振って応じた。
「結衣ちゃん、今日は僕の家にお泊まりしようね」「えー、パパとママは?」膝を落として、無理に作った笑顔のまま言葉が詰まる……なんと説明すればいいんだ……
「パパとママはお出かけしていて、今日は帰れないんだって、先生と一緒におじさんの家に行きましょうね」「うーん……うん、わかった」
助かった。——けど、この先、兄さんと義姉さんのことを結衣ちゃんに伝えなければならないという事実は、何も変わらない。
「結衣ちゃん、帰ろうか」差し出した僕の手を握り返した小さな手は、温かくそして優しくて、思わず涙が零れてしまった。
今日の手続きを済ませて、三人で外へと向かう。病院の自動ドアが開き、少し冷たい風が頬を撫でる。ロビーの温かさがふっと抜け、バッカル二号改で駆け付けたことを思い出して立ち止まった。
「どうしました?」三浦先生が首を傾げて僕を見ている。その先では無邪気な笑顔で、お泊まりを楽しみにしている結衣ちゃんが先生の手をしっかりと握っていた。
「あ、あの……僕、バッカル……じ、自転車で来たんで、先に向かってもらってもいいですか?」「それはいいですけど……結衣ちゃんのお着替えとかはあります?」完全に失念していた……結衣ちゃんのものは何もないし、実家の鍵は自宅にあるんだった……
「そ、その……実家の鍵は家に置いてきたので、一度取りに戻らないと……。着替えは今日の分だけでも買って帰ります」「それなら、私が結衣ちゃんと買い物してから、おじさんの家に向かいましょうか?」「そ、そうですね、お願いしていいですか……それと、この名刺に僕の連絡先と住所が書いてあるんで……」
僕は財布から一万円札と名刺を取り出し、三浦先生に手渡した。一万円が多かったのか少なかったのか分からない。先生は一瞬戸惑ってから受け取り、結衣ちゃんに振り向いた。「結衣ちゃん、先生と一緒にお買い物に行こう!」「はーい!」
離れた手の温度だけが、手のひらに残っている。手をつないで歩く二人の背中を見て、僕は深くため息をついた。いったいこれからどうすればいいんだ?——にしても、おじさんか……
僕はバッカル二号改にまたがり、これまでの現実とこれからの不安で、ぐちゃぐちゃになった思考を振り払うように、全力で自宅へと向かった。
——日が傾き始めると肌寒さを覚える。そんな日に、僕は結衣ちゃんと手を繋ぎ、斎場に立っていた。
クラシックのBGMが流れる中、小さな声でごにょごにょと定型のあいさつをする来訪者ひとりひとりに、僕は丁寧に頭を下げて応じる……ここにいる何人が本当に悲しんでいるのだろうか?そんなことを考えながら、やり過ごす時間。
結衣ちゃんには僕と三浦先生の二人で、パパとママ、おじいちゃん、おばあちゃんが亡くなったことを話したが、意外にも泣くこともなく、おとなしく聞いていた。まだ『死』ということがどういうことか理解できないのだろう。
いろいろなことが肩にのしかかる。やがて、BGMが徐々に小さくなり、僕は結衣ちゃんの手を引き、親族席へと移動した。正直に言うと、この席に座る人のほとんどを僕は知らない。
会場が静まり返るなか、突然結衣ちゃんが立ち上がり、駆け出した。「ちょっと、結衣ちゃん……」僕が止める間もなく、祭壇の前に駆け寄った結衣ちゃんは、兄と義姉の写真を見て首を傾げた。
「パパ、ママ、おきて。おきゃくさんいっぱいきてる」会場の空気がほんの少しだけ重くなるなか、僕は思わず結衣ちゃんを抱きしめ、涙を流した。あれから今日まで、すべての出来事が僕の周りを駆け抜けていった。だが、結衣ちゃんの言葉で忘れかけていた現実を思い起こさせられた。
香と花の匂いがほのかに漂う会場のあちこちから、すすり泣く声が聞こえる。気を取り直して顔を上げると、そこには難しい顔をした両親の遺影と、にこやかな笑顔の兄夫婦の遺影が僕と結衣ちゃんを見下ろしていた。
翌日、結衣ちゃんは保育園を休ませて、実家に荷物を取りに行くことにした。恥ずかしいが仕方なく、まごころ源号に乗って二人で訪れた実家は、静まり返り不気味にすら感じた。
結衣ちゃんが生まれるときに立て直した二世帯住宅だが、僕は数えるほどしか来たことがない。どこに何があるかもわからず、今日は結衣ちゃんのものを回収し、後日一人で必要なものを探すことにする。
建物は変わったとはいえ、僕もここで生まれ育った。愛着はあるがとんでもない額のローンが残っているので、この家は手放さざるを得ない。
玄関を開けると、結衣ちゃんは真っ先に飛び込んで、どこかへ行ってしまった。僕は玄関に立ちなんとなく周囲を見回す。——空き家の片付けの第一号が、まさか実家になるとは思わなかった。
各部屋を順番にのぞいていくが、どの部屋も誰かがいるかと思えるほど、生活感が漂っている。突然、ここの住人五人のうち、四人がこの世を去ったわけだから、当然といえば当然だろう。
「だいちおじちゃーん!こっちー」結衣ちゃんの呼ぶ声がした部屋は、兄夫婦の寝室のようだった。なんだか足を踏み入れるのに気が引けるが、そこで結衣ちゃんはうさぎのぬいぐるみを抱いて笑顔を見せている。
「結衣ちゃんの服もこの部屋にあるのかな?」「うん。あそこ」と言って、タンスを指さした結衣ちゃんの頭を、僕はそっと撫でた。「僕は箱を持ってくるから、結衣ちゃんはおもちゃを出しておいてくれる?」「はーい!」
結衣ちゃんの荷物は思いのほか少なく、段ボール箱三箱に収まった。それをまごころ源号の荷台に積み、バッカル二号改に取り付けるチャイルドシートを買うため、僕たちは自転車屋に向かった。
——その日の夜、それまで明るく振る舞っていた結衣ちゃんが、お風呂が終わって布団に入った途端泣き出した。僕はどうしたらいいかわからず結衣ちゃんに添い寝してみたが、布団から追い出されてしまった。
「ママにあいたいのー。ママのところにいくのー」「結衣ちゃん、ママはもういないんだよ。真琴先生も言ってただろう」「いるもん。ママいるもん」
僕の言葉などまったく聞いてくれない。こんなときどうすればいいんだ?三浦先生に電話してみようか……いや、さすがに迷惑だよな。
女の子と手をつないだのが、小学校の運動会くらいしかない僕に、何か思いつくはずがない。ただ呆然とするしかできない僕の前で、結衣ちゃんは「ママー」と大声で叫び、さらに泣き出した。
「そうだ、リサ……ViELに聞いてみよう」僕は急いで店のパソコンへ向かい、電源を入れた。ブラウザを開き、ViELにアクセスすると、いつもと違う画面が表示され、言葉を失う。
『ViELのサービスは終了しました』
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。




