十三話
鷹のいる小屋に近づくにつれ、ニヌムの動きはゆっくりと、慎重になった。
「静かにね」
しーっと唇に指をあてる。
その緊張がアサヒにも伝わり、ふたりは自然、忍び足になった。
息を殺しながら、窓に手をかける。
「のぞいてごらん」
うながされて中をのぞいたアサヒの目に、一羽のオオタカが映った。
青みがかった灰色の翼。腹は白く、黒い横斑が美しい模様を描いている。
架木(止まり木)の上で羽をやすめ、眠るようにじっとしていて。
その瞳が、ゆっくりと開かれた。
(……あれは)
驚いて、思わず窓を閉めてしまう。
どういうことかと視線で問うと、彼女は小さくうなずいて、
「気づいたでしょう? 片目がないの」
「なぜ? 生まれつきか?」
「ううん。クマにやられたの」
ニヌムは語って聞かせた。
祖父が、冬眠しそこねた〈穴持たず〉のクマと遭遇したこと。
なんとか一命は取りとめたが、祖父は片腕を、タカは片目を失ってしまったこと。
この出来事をきっかけに、自分が鷹使いを引き継ぐ決心をしたこと。
「イモギは、じいちゃんが育てた中でも、特に立派な〈弟鷹〉(メスの鷹)だった。けど、目に傷を負ってから、飛べなくなってしまったの」
「そうか……。それは、残念だったな。怪我さえなければ、さぞよい相棒になったろうに」
「ううん。今でも相棒だよ」
「なに?」
アサヒは怪訝な顔をする。
では、今しがた話していたことはなんだったのか?
「飛べなかったけど、飛べるようになったんだよ」
「片目がつぶれたタカが? まさか、ほんとうに?」
「うん。でも、そりゃあ大変だったよ」
「どうやったというんだ? そんな、奇術のようなことを」
まさか、からかわれているのかと疑うアサヒの耳に、バサバサと羽音がした。今しがたのぞいた、鷹小屋の中からだ。
たしかに鳥が飛ぶ音だった。
「……最初はね、悩んだよ。狩りをする生き物にとって、片目しか見えないって、あまりに大きな足かせだから。もう、狩りはあきらめて、別の生き方をさせてあげたほうがいいんじゃないかって」
それはそうだろう、とアサヒは思った。
手負いのタカが鷹狩りに向かないのは、素人でもわかることだ。
「でもさ、そのときに思ったんだよね。……わたしが勝手にあきらめちゃっていいのかな、って」
「え……?」
うまく呑みこめないアサヒに対し、ニヌムは言葉を探しているようだった。
「つまりさ。狩りはあきらめよう、別の生き方を探そうって、それはわたしが勝手に決めたことで、イモギ自身がそうしたいって言ったわけじゃないんだよね、って思って」
「それは、そうだろう。タカは言葉をしゃべらない」
「うん。だからこそ、まずはイモギ自身がどうしたいか、見極める必要があるなって思ったの。だって、わたしがあきらめたら、ほんとうにそこで終わっちゃうんだよ」
別の生き方といえば聞こえはいいが、ようするに飼い殺しのことだ。
いや、餌代だけかかってモノにならない鷹は、殺処分することだってありえた。
ヒナのころから人間の手で育てた鷹は〈巣鷹〉といって、野に放っても生きていくことはできない。
成鳥になるまでに両親から教わるべき野生での知恵を、なにひとつ教わっていないからだ。
人間の都合で一生を狂わされた鷹は、人間が責任をもって、死ぬまで面倒を見る必要がある。
けれど、鷹使いにも生活がかかっているのだ。貴族ならまだしも、日々の余裕がない庶民の間では、狩りのできなくなった鷹は落されることもまた、珍しくはなかった。
「だから、まずは訊いてみようと思った。イモギが、これからも空で生きていきたいのかを」
まず、できるだけ外と同じ環境に近づけるべく、柱を立てて大きな網を張った。
これから他の鷹を調教する時にも使えるからと説得したところ、いつの間にかサンシュが村人たちに話を通してくれて、村全体で大きな鳥かごを作ってくれたのだ。
そこで飛ぶ訓練をしたのだが、初めのうちはなかなか思うように進まなかった。
止まり木にぶつかったり、網に爪をひっかけて宙づりになったこともあった。
ふつうの鷹なら、もう飛ぶことが嫌になって、止まり木から降りようとしなくなっていたかもしれない。
「イモギは特別なんだよね。ふつう、鷹って臆病な生き物なの。じいちゃんの知り合いの鷹使いなんか、狩りの最中で犬に吠えられて、ビックリした鷹が逃げていなくなっちゃったんだって」
「へえ、そうなのか。もっと怖いもの知らずなのかと思ってたよ」
「野生の生き物って、たいてい臆病なんだよね。だから、クマに立ち向かったイモギは、どこかおかしいんだよ。だって、犬に吠えられただけで逃げちゃう生き物なんだよ? そんなの、ふつうありえないよ。だからじいちゃんは、調教の仕方が悪かったんだって、自分を責めてる」
「でも、こう言ったらよくないかもしれないけど……人間にとっては、そのほうが都合がいいんじゃないか?」
「うーん。でも、ちゃんと危機感がないと、生き物としてはよくないんだと思う。実際、それで一生消えない傷を負っちゃったわけだし」
「それは、そうだが」
「怖いとか、逃げたいって感じるのは、野生では必要なんだよ、きっと。だからわたしも、そういう気持ちは否定しない」
そこまで聞いて、これは自分のことを言っているのだ、とアサヒは気づいた。
鷹狩りなんかできっこないと、弱い自分から目を背ける自分のことを。
「イモギも、最初のうちは戸惑ってたみたい。何度か飛ぶのに失敗して、だんだん慎重になってくのがわかった。でもね、怖がってるのとは、ちょっと違うような気がしたの。うまく言えないけど……鷹が怯えてると、もっと落ち着きがなくなるんだけど。イモギはさ、じいっとこちらを見てたんだよね」
「そんなものか」
アサヒにはよくわからなかったが、ふだんから鷹をよく見ているニヌムからすれば、なにか感じるものがあったのだろう。
「だから、イモギはまだ、飛ぶことをあきらめてないと思った」
「それで、どうしたんだ?」
やる気があっても、夢が叶うとはかぎらない。
けれど、イモギは叶えたのだ。
知りたかった。彼女が、どうやって壁を乗りこえたのか。
「ちょうどそのころ、サンカっていうクマタカの〈兄鷹〉(オスの鷹)がいたの。すっごく臆病で、とても鷹狩りには使えないってことで、どうしようかって話してて。鷹狩りはふつう、メスの鷹を使うから」
「そういえば、どうしてメスなんだろう?」
「鷹って、メスのほうが大きくて、度胸もあるの。だから、大物が獲りやすいんだよ」
「へえ、そうなのか。だから都の貴族たちも、メスの鷹ばかりほしがるんだな」
アサヒは納得してうなずいた。
ニヌムといると、今までなんとなく「そういうものか」と放っておいたことが、実はほとんど知らなかったのだと気づかされる。
「それでね、大きな鳥かごの中に、そのサンカを一緒に入れたの」
「……ん?」
そんな臆病なクマタカを同じかごに入れたからって、何になるというのだろうか。手本になるわけでもあるまいに。
そんなアサヒの疑問が伝わったのだろう、ニヌムはうなずいて、
「オスといっても、クマタカはオオタカより体が大きいの。だから、いい競争相手になるかなって。桶に水をためて、エサになる魚を入れておくんだけど、それもギリギリの数にしてさ。相手に負けっぱなしだと、飢えてしまうくらいに」
「そうか。競争相手をつくることで、闘争心を呼び戻そうとしたんだな」
「そう。イモギはもともと、負けずぎらいな性格だからね。片目であることなんか関係ないってくらい、必死にエサを取りあってたよ。おかげで二週間くらいたったころには、また飛べるようになってた。滑空も旋回も、着地だって、とても片目だとは思えないくらいにね」
なんとなく気になって、アサヒはもう一度、窓から中をそっとのぞきこんでみた。
視線に気がついたのだろう、イモギは架木をダンッと踏み鳴らしている。
その姿は、とても人間を怖がっているようには見えない。
ほらね、とニヌムは笑った。
「それに、サンカのほうも、いい刺激になったみたい。きっと、手負いなのに、何度よろけても必死に食らいついてくるイモギを見て、感じるものがあったんだろうね。気がつけばサンカも、臆病だったのがうそみたいに、勇ましく狩りをするようになってた」
そう言って、ニヌムはまた別の鳥小屋へと案内する。
そこには一羽のクマタカが、堂々たる偉容でたたずんでいた。
これが、サンカ。話に聞いた、あの臆病なクマタカだというのか。
とても信じられなかった。
「サンカは逆に、挑戦するのを怖がりすぎてた。……あんまり臆病すぎても、生きていくのに不利なんだよね。蛮勇すぎても、慎重すぎてもいけない。ほどほどな子のほうが、生きていきやすいのかも」
「……けれど、それが難しいんだよな」
「まあね。でもさ、実際、サンカはすごい力を秘めてたんだよ。挑戦しないから、そのことに自分自身も気づいていなかっただけで」
ニヌムはアサヒに向き直る。
その胡桃色の瞳に、少年は吸いこまれそうな錯覚を起こした。
「なんとなく、アサヒとサンカは似てると思う」
「……わたしが?」
昔はともかく、今のサンカは立派なタカだ。
アサヒには、とても自分に似ているとは思えなかった。
「アサヒもさ、やってみればいいんだよ。サンカみたいに。だって、やってみなきゃ、自分の中にどんな力が秘められているのか、自分自身にだってわからないんだから」
「……でも……」
「失敗したっていいじゃない。わたしたち、まだ子どもだよ。いくらだってやり直しが効くじゃん。やるだけやってみたらいいんだよ」
確かにそうかもしれない、とアサヒは思った。
失敗したって、やらずに後悔するより、ずっとマシだと。
「そうだよな。最初から逃げまわってるような臆病者より、みっともなくったって挑戦するほうが、ずっといいよな」
「みっともなくなんかない。闘おうとする人は、みんなカッコいいんだから」
「……うん」
片目が潰れたイモギは、それでも狩りを諦めなかった。
気弱だったサンカも、立派に成長した。
――変わりたい、彼らのように。
アサヒは心から思った。
「本当は、言い訳がほしかったのかもしれない。『わたしは病弱だから、他人より劣っていても仕方がない』、と。失敗して、傷つくのが怖くて。……情けないな」
「そんなことないよ。そういう気持ちって、誰にでもあると思う」
「ニヌムもか?」
「もちろん。『子どもだから』『女だから』って、言い訳したくなる時がいっぱいある。……でもそれ、わたし自身が他人から言われたくないことでもあるんだよね。だから、それを言い訳にするのは、なんか違うかなって」
「うん、……わかる気がする」
自分では病弱だからと逃げまわっているくせに、他人から言われると腹が立つ。……矛盾しているかもしれないが、本心だった。
なんと我儘で、それでいて儘ならない心だろう。
だが、相反するふたつの気持ちもまた、己の抱えたものなのだ。
「やってみるよ、〈野御幸〉。たとえ成果が出せなくても、精いっぱいやったことが伝わるくらい、頑張ってみる」
「うん。じゃあ、明日から特訓だね!」
「ああ。よろしく頼む、師匠」
「師匠はやめてぇ」
ニヌムがあまりに情けない声をあげるから、アサヒは行儀も忘れて大笑いした。