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犬神と呪術 8

 あと数歩。あと数歩だけでもバロンが前に進めば、バロンの体が陣の中に入る。仁とバロンがやり合うこともなく、決着をつけることだって出来るのに。

 だが、そのあと数歩を進んでくれない。バロンの言葉も気になるが、それよりもバロンが動かないことにオレは少しだけ焦りを感じていた。

 いくら長く集中できるとしても、その集中が何かの拍子に切れてしまうことだってある。

 オレは南部の様子を窺う。

 今はまだ大丈夫そうだ。まだ集中できている。

 その集中が途切れる前に、バロンが陣の中に入ってくれなければ……。


「お前は忘れてしまったのか? 自分を祀ってまでくれた神社を」

 ここは寺だぞ? オレはどうでもいいことを思っていた。

「確かにここは寺かもしれない。だが、ここはあの神社と同じ場所。犬神の仁を祀ってくれていた亀居神社はここにあった」

 ここというのは、現世でのこの場所という意味だろう。


 この場所を選んだのは、人里から少し離れているなど、条件が良かったからで全くの偶然だった。

 偶然は時として必然、なのかもしれない。


「それが、どうした」

 ようやく口を開いた仁は、唸るような低い声で答えた。

「どうもしない。ここは仁のテリトリーだ。お前と、そして片割れである私の」

 一歩、バロンが踏み出す。片方の前足だけが陣の中に入った。だがまだ足りない。


「テリトリーの持つ意味、わからぬわけではないだろう?」

 また一歩、バロンが前に進む。上半身が陣の中に入る。

 あと二歩か三歩。それだけ前に進んでくれれば。

「そうは言っても、私にとってもお前にとってもテリトリーであるということは、互いにテリトリーの中にいるという意味はなさぬ」

 バロンの口調は変わらない。怒気を含んではいるものの、仁より余裕のありそうな声。


「お前と分かれて、ずいぶんと久しいな」

 確か仁と春がいたのは千二百年前のことだったはず。

「春……か。懐かしいな。アイツがいなければ、私は今もお前の中にいただろう。彼女に感謝すべきか?」

 仁の時と同じ。なぜかオレの思考がバロンの言葉とシンクロしているような気がする。


「黙れ」

 仁の声がより一層低くなった。仁の声にも怒気がはらみ始めていた。

「春は優しかったな? 仁に対して。犬神と知っても恐れず、けれど敬愛の念は忘れず。あのような人間、めったにお目にかかれぬ」

 仁を無視してバロンは話を続ける。

 こいつは何をしたいのだろうと、オレは不思議に思った。仁を怒らせたいのだろうか。


「私がお前と分かれてから、私は一個の犬神として生きてきた」

 突然、バロンの声から怒気が消えた。

 仁もそのことに気付いたのだろう。少しだけ驚いたような表情をみせた。


「……だが、私の感情がそれを許さなかった。お前の負の感情ばかりを受け継いだ私に、今のままではいけないと、感情が訴えるんだよ」

 吐き捨てるように言った。

「だから決めた。お前を捕らえて、私の中に取り込むと。そう決心するまでに、これほどまでに長い時間が過ぎてしまった」

 バロンの纏う雰囲気が一変した。


「ようやく、ようやく見つけたぞ。片割れよ。私の前に、私の存在する世界に、お前という存在は必要ない」

 言い終えたと同時に、バロンの体が躍動する。

 それと同時に術をかけ始める南部が、視界の端に移った。……すげぇ。こんな瞬時に対応できるなんて。

 

 けど、それでも間に合わなかった。

 バロンの体は大きく躍動したあと、一瞬、本当に一瞬だけ陣に足をついたと同時に再び大きく躍動していた。仁に向かって。

 あまりに一瞬すぎて、バロンの動きが止まると同時にその体は躍動していて、すぐに術が解けてしまったように見えた。


 慌てて南部と仁に視線を移す。

 南部はさすがにビックリした様子だったが、それでもすぐに集中しなおした。次の瞬間を狙って。

 仁はバロンが二度目に躍動したのと同時に、すぐにバロンが立っていた場所へと移動していた。

 あっという間に再び、二匹は陣を囲んで対峙していた。間合いを計るかのように、互いの動向を窺いながら、一歩たりとも動こうとしない。


 勝負を決めるのは、いつだってほんの一瞬の隙。



 仁なりに、どうやってバロンを陣の中に誘き寄せるか考えているに違いない。

 バロンが現れた頃よりも格段に暗くなっている今、木の陰などで陣の描かれている場所が正解にはわからなくなっていた。

 それでも、南部や仁にはわかっていると思う。


 それより不思議なことは、バロンが陣の存在を意に介していないこと。

 陣に気付いていないはずはない。

 明らかな陣と、オレたち人間。何か企まれていると警戒してもおかしくはないはずだ。


 仁が一歩、横に動いた。バロンが同じように一歩、横に動く。

 二匹の間合いは、遠くも近くもならない。

 互いの動きを、考えを読もうとするかのように、じっと見つめあったまま。


 また、仁が動く。今度は前に一歩、二歩。陣に少し入ってしまっているような気がする。

 仁に合わせてバロンが動く。後ろに二歩。


 そうして、一歩、二歩と少ない歩数を仁は動いては立ち止まる。

 それに合わせるかのように、バロンも一歩、二歩と間合いが変わらないように動いては、立ち止まる。


 陣を挟んだ状態で。時々片足や上半身が陣に入っているような気がするが、術をかけられるほど入ってはいない。


 その、互いの様子を窺うような動きが、どれ程続けられただろうか。


 仁が大きく前に飛ぶと、陣の中に着地すると同時に後ろに二歩、飛び下がり陣の外へと出る。

 さすがのバロンも仁の大きな動きに、瞬時に自分の体を動かす。先ほどまでと同じように仁との間合いが変わらないように。

 バロンが動きを止めた時、その体は陣の中にすっぽりと収まっていた。

 もともとバロンは陣の存在を軽視していたのだろうか。それとも。


 最初の一瞬の着地の後、陣の中にバロンの全身が入ることはなかった。もしかしたら陣の中に入らないように気をつけてはいたのかもしれない。

 だが、それまでとは違う仁の大きな動きに釣られる形で、バロンは陣の中に立ち止まった。


 その瞬間を南部は逃してはいなかった。

 オレが気付いた時には南部の術が始動していて、バロンは動きを拘束されているようだった。

 ほの暗い中、ごく薄い光に包まれたバロンの顔が歪むのが見えた。

 仁は警戒しながらも、少しホッとしているようだった。


 南部の術がうまくかかった。

 だが、それで終わりではない。一番大切なのはこれから。今、気を抜くわけにはいかない。

 ゆっくりと、仁がバロンに向かって歩みを進める。その仁の様子をバロンは目で追っているものの、体は全く動かない。ますますバロンの顔が悔しさに歪んでいく。


 仁がバロンから少し離れた場所に立った。

 バロンは低く唸り声をあげていた。顔はこれ以上ないくらいに、悔しさに歪められていた。


「なぜ、テリトリーのはずなのに……」

 唸り声がやんだと同時に、顔と同様に悔しそうな声が吐き出された。

 そういえば、さっきもテリトリーがどうとか言ってたな。


「ここが我々のテリトリーだとして、それは我々に有利というだけ。術者の能力が勝っていただけのこと」

 にじり寄るようにゆっくりとバロンに近づきながら、仁は答えるように口を開いた。


 仁の言葉から推察するに、バロンは陣にも気付いていたし、それなりの警戒はしていたんだろう。ただ、自分のテリトリーだからと、理由はわからないが油断もしていたらしい。

 その油断が、たぶん自信過剰だった部分が、バロンの命取りになったに違いない。


 あと半歩もあればバロンに触れそうなほどに近付いた仁は、じっとバロンに見入っている。

 仁にも心の準備とかあるとは思うが、気が急く。

 早く取り込んじまえよって焦る。

 南部だって術をかけるのは体力勝負。いつまでもかけ続けることなんて、できない。

 素早く南部に視線を移せば、うっすらと汗をかいているように見える。そろそろ限界かもしれない。


 ぎゅっと、思わず強く拳を握ってしまう。

 早く、早く。

 心がより一層、時間が経つにつれて急く。

 それはオレ以外も同じはず。


「何を戸惑う? 勝負はオレの負けだ」

 自嘲するかのような声で、バロンが仁に言い放った。

 ふん、と小さく仁が鼻で笑ったような気がした。


 気がした瞬間、仁は大きな口を開けて、あの鋭い牙を見せて。

 肉食獣の凶暴な顔で、バロンの首元に噛み付いた。


 もしここがサバンナならば、そんな光景はありふれているのかもしれない。

 だがここはジパングの人里離れた廃寺にある空き地。

 ただ違うのは、バロンの体から血が流れ出なかったこと。そして仁の口の中に吸い込まれるように、少しずつバロンの体が薄くなって、透けて。


 最後は消えた。


 完全にバロンの姿が消えたのを確認した仁が、南部に視線を送った。

 仁の視線を辿れば、大きく肩で息をしながら、車椅子の背もたれにもたれかかる南部の姿が目に入った。

 すでに、南部を守るように立っていた四人が水を手渡したり、南部の世話をやいていた。

 あれだけの長時間、仁が言うには強い術をかけるのは、かなり精神的にも身体的にも負担があったに違いない。

 南部たちに頼んだのは間違っていなかったと、密かに思う。


 一方の仁は、しばらくはそのまま立ち尽くしていた。

 オレは、仁の状態が気になってゆっくりと近づいた。

 オレのその行動に押されるかのように、一気に周辺が騒がしくなった。

 他の連中が、撤収のための準備に入ったらしい。


「どうだ?」

 仁から少し離れた場所に立ち止まって、声をかけた。

 正直なところ、どう対応すれば良いのか迷っていた。

 仁は変わらない。いや、顔つきが変わった。それに心なしか体が大きくなったような気もする。


 そんなオレの迷いが伝わったのだろうか。ふっと、仁の顔が弛んだ。

「案ずるな。うまくいったのだから。びっくりするほど、完全にコトが終わった」

 あれ?

「お前、声が……」

「多少は変わる。離ればなれになっていた私の一部が戻ったのだから」

 今までのように低い声。だが、耳に聞こえる雰囲気が柔らかい。堅い感じが抜けていた。


 そうか。変わった、というよりも元に戻れたんだな。仁は。

 なぜだかホッとする。そして嬉しい。

 昇華と刻水も喜ぶだろう。

 ここ数ヶ月、頻繁に仁の顔を見ていたからだろうか。仁が元に戻れたことが、オレも素直に嬉しかった。


「行かぬのか? 他の者は撤収し始めている」

 感慨に浸っている間に、仁はもう歩き出していたらしい。立ち尽くしているオレに、顔だけ振り返って声をかけてきた。

 仁の声で現実に引き戻されて、辺りを見回してみた。

 南部たちはとっくにいなかった。残っている者も、車に向かっているらしく、見えるのは背中ばかり。

「行くよ」

 仁に声をかけると、すぐに仁は前を向いて歩きだす。オレもその仁の背中を追いかけて歩いた。


 昼間に休憩した車まで戻ると、車が一台増えていた。

「辻村さ~ん? エアバイク載せる場所あるんで、一緒に車で帰りませんか?」

 外は真っ暗ではないものの、かなり暗くなっていた。この分だと、帰る途中に真っ暗になってしまうだろう。

 大きな一仕事を終えて――とは言っても頑張ったのは仁と南部なんだけど、そんな時に一人だけエアバイクで帰るのはかなり寂しい。


 二つ返事で乗ると言えば、すぐにエアバイクを車に載せてくれた。

 それを確認してオレも車に乗り込めば、仁は座席一つに収まるようにちょこんと座っていた。

 でもな。車が動き出したら、その姿勢は厳しいと思うんだよな。


「なぁ、座席って余裕あるか? 仁に二席使わせたいんだけど」

 適当に声をかけて聞いてみれば、かなり席に余裕があるとの答え。

 かなり大きめの車なだけあって、どう見たって座席もたくさんある。現世で見たバスというのに似ている。まぁ、あそこまで大きくはないが。


「仁? お前、そのままじゃ車が動き出したら、座席から落ちるぞ。席は余ってるんだから、隣も使って寝そべっとけよ」

 少し離れた所から声をかければ、チラリとオレを見たあと、ゆっくりと体を伸ばして座席二つを使って寝そべった。

 変なところで律儀というか。


 それからしばらく経って、ようやく全員が二台の車に乗り込み終わると、車はジパング中心に向かって走り出した。

 外は暗いとは言え、まだ夜は訪れたばかり。うまくいったのだからと、先輩の店で打ち上げをすることになった。


 移動の時間を使ってオレは、報告を待ちわびているであろう榊さんに連絡をした。

 上々の報告に、榊さんはホッとすると同時に喜び、ねぎらってくれた。

 ついでに打ち上げの話を出せば、榊さんから先輩にいくらか打ち上げ代を払ってくれると言う。ちょっとそれを狙っていたのは秘密だ。



 先輩の店につくと、榊さんから連絡がいってたらしく、すぐに奥まった広い部屋へと通された。もちろん仁も。

 仕事が終わったことで、全員で大きく乾杯をする。医師団も南部たち術者も関係なく、陽気な宴会が始まった。

 先輩が仁にも食べやすい食事を用意してくれていた。


 宴会は長い時間続き、お開きになったのは深夜間近のことだった。

 それぞれが別れて、じぶんたちの職場や家へと帰っていく。

 仁はとりあえず役所に来ると言うので、オレのエアバイクに乗せて役所への帰途についたのだった。


 仁を乗せているからスピードは出せなかったが、少し冷たい夜風が、肌に心地よかった。


 役所に着き自分の部屋に戻ろうとするオレに、仁は黙ってついてきていた。

 さすがにこの時間にもなれば、深夜も開いている窓口周辺以外に人影はない。

 最低限の照明だけが灯された廊下に、オレの足音だけが響く。仁の足音は、獣だからなのか全く聞こえない。

 だからだろうか。一人で歩いているような不思議な感覚に陥る。振り返れば、少し離れた後ろに仁がいるのに。気配を感じるのに。


 部屋に入れば、仁は扉のすぐ内側に立ち止まりオレを凝視していた。

「どうした?」

 今までにない仁の様子に、首を傾げて問いかけてみる。


「……ありがとう」

 ふいにオレから視線をそらすと同時に、仁は小さく声を発する。聞こえるか聞こえないかくらいに微妙な大きさの声を、オレの耳は確かにとらえていた。

「なんだよ。オレにとっては、仕事。対価だってもらえるんだから、礼を言われるようなことじゃない」

 そう、仕事でしただけのこと。むしろ、仁がいてくれて助かったという気もしてる。

 そうでなければ今ごろバロンはまだ、この世界で自由に動いていただろう。

「それに、オレはほとんど何もしていない。頑張ってくれたのは、仁、お前と南部だ。そうだろ?」


 仁はオレの言葉を肯定も否定もしなかった。

 ただ黙ってソファの足元に寝そべると、ゆっくりと目を閉じた。


 それを見たオレも、ソファに寝そべると毛布を引き寄せ、疲れと酔いに任せて眠りについた。


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