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楽園物語  作者: 如月瑠宮
第二章 戦争
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誕生日

 彼女の心の内は暗いままだった。それでも月日は流れる。

 そして、彼女は誕生日を迎えてしまった。

「エリテュイアよ」

 アトラスは彼女に声を掛けた。彼女は自身の部屋で祝いの準備をしている。父の呼び掛けにエリテュイアはその手を止めて、彼を迎え入れた。

 アトラスに伴う侍女達の手には、美しい装飾品があった。黄玉の嵌め込まれた首飾りに、金の腕輪。どれもが、細かな意匠を施された一級品。

 エリテュイアはそれらを一瞥すると、微かに微笑む。

「お父様、ありがとうございます」

 美しいそれらでも、彼女の心を晴らしてはくれない。アトラスはやつれた娘を哀れに思った。彼女はヘスペリエ誘拐の報を聞いてから、弱り切っている。このままではと、アトラスは焦りを感じていた。

 娘を更に失う可能性。エリシオンの将軍はそれを恐れる。

「姉様!」

 アトラスの背後から、元気な声が部屋の主を呼ぶ。アイグレーがその両腕に果物の入った籠を持ち、やって来たのだ。

 瑞々しい果物達は床に下ろされた。籠の中で山積みになったそれらは、きっと美味しいだろう。そんな事をエリテュイアは思う。

「姉様・・・姉様にまで何かあったら、もう・・・どうしたら良いか・・・・・・」

 アイグレーは姉の傍らに向かうと、縋る様に姉を見つめた。エリテュイアは妹に微笑み掛ける。

「大丈夫よ、アイグレー」

 アイグレーは籠から一つの果物を取る。瑞々しさに溢れるオレンジをエリテュイアに差し出す。どうやら籠の果物は彼女への贈り物らしい。

 エリテュイアは一口一口、ゆっくりと食べた。


 美しく着飾られたエリテュイアは大広間に向かう。白は避けたのか、月の色に染められたキトン。更に、夕暮れの藍色のペプロスを重ねて着ている。赤毛を飾る生花は黄色。薄い布と共に結い上げた髪は目を見張る物があった。

 同じ席に座る事を許されたディオメデスは近くで見る彼女に見惚れる。クレウテにも美しい女性は居る。しかし、ディオメデスはエリテュイアほど美しい女性を見た事が無かった。

 大広間に設けられたテーブルの上には豪華な食事が並べられている。エリシオンが面するテテュース海から獲れた魚介は多彩な調理法を使い、珍しい食材をふんだんに盛り込んでいる。

 だが、贅沢と言える食事を前にしても、主役であるエリテュイアの顔色は良くない。

 喜ばしい筈の祝いの席で沈んだ彼女の心。ディオメデスは自身がこの席に居て良いのか悩んだ。

 ディオメデスは砂を噛んでいるかの様に、豪華な料理を味わう事が出来なかった。席に座る全員が並ぶ料理を口に運ぶが、明るい会話も無く。

「・・・姉様」

 普段の明るさが無いアイグレーは密やかに行われていた姉妹の贈り物を知っていた。何かをヘスペリエがエリテュイアに贈っている事を。姉が暗いのはそれを心待ちにしていたからだろう。

 アイグレーの中に良くない感情が浮かぶ。もしも、ティフォン族が居なかったら、アイサースがヘスペリエを守っていたら、クレウテとの政略結婚が無かったら。

 多くのもしもは、周囲への憎悪に繋がる。アイグレーは目を閉じ、憎悪を何とか押し込めた。

 そんな彼女を多くの屋敷に仕える者に混ざり、ウルカーヌスは見つめた。我慢を強いられる彼女は無意識なのだろう。僅かに彼の方を見た。視線が絡む。

 一瞬だけのそれ。

 視線はもう絡まなかった。アイグレーはいつもの様に笑う。

 祝いはアイグレーの明るさで何とか滞りなく進んだ。それでも、晴れやかさは無いまま終わった。

 エリテュイアはよろめきながら大広間を去ろうとする。髪を飾る生花さえ重く感じられた。

「姉上」

 よろめく彼女をアイアコスが支える。父に目をやると、アトラスは静かに頷く。

 アイアコスはそのままエリテュイアを支え、彼女の部屋に向かった。寝椅子に彼女を横たわらせると、包みを取り出す。その包みをエリテュイアの手に握らせる。

「何?」

「フィブラです。見事な翠玉があったので」

 包みを開けばそこには確かに翠玉が飾られたフィブラがあった。美しい翠。それを活かす為だろう。余計な装飾は無い。

 だが、それが喩え様の無い程に美しいのだ。華やかな容姿のエリテュイアに良く似合うだろう。

「ありがとう・・・少し休むわ」

 エリテュイアはアイアコスが去るのを見届けて、彼から贈られたフィブラと同じ色の瞳を瞼に隠した。


 晴れる意識の中で遠ざかる足音を聞いた気がした。エリテュイアは眠りから覚めると、辺りを見渡す。誰かが訪ねて来たのかと思ったのだ。

 しかし、足音は既に聞こえない。気のせいだろうかとエリテュイアは窓辺に目を向けた。

 その目にある物が映るまでは、気のせいだと思っていた。

 彼女は窓辺に近付く。窓辺にある物を手に取ると涙が溢れた。それは、花だった。赤と白が斑に入った花が置かれていたのだ。大切な物の様に。

 花の下には羊皮紙があり、そこにはある文が記されている。

『誕生日おめでとうございます』

 エリテュイアの頭の中でそれはヘスペリエの声で聞こえる。

「ヘスペリエ?」

 彼女は何処に居るのだろう。この花はエリシオンには咲かない。咲くのはオリンボス山だ。もう、姿を見る事が出来ないと思っていた妹は、オリンボスの険しい地に居るのだろうか?それとも、見知らぬイリアスの地で無事なのだろうか?

 エリテュイアは夜空を見上げた。早い時間で終わった祝いから、彼女はどれくらい眠っていたのだろうか。多くの星が散りばめられた空。

 星空は何も答えない。でも、エリテュイアにはそれで充分だ。一筋の希望が彼女の胸に宿る。

 エリテュイアはただ涙を流した。


 アイアコスは気配を感じて目を開けた。傍らの短剣に手を伸ばす。

「・・・誰だ?」

 アイアコスの誰何の声に気配は答えない。だが、応えはあった。気配は静かに彼の近くにやって来た。その様子は無防備だ。トゥニカにブラカエ、クラミスを纏う気配の正体はただ真っ直ぐアイアコスを見ている。

 アイアコスは気付いた。彼の容貌がある人物と似通っている事を。

 彼はアイアコスに向けて笑う。人懐こい笑みに敵意は感じられない。アイアコスは一先ず警戒心を解く。でなければ彼は話し始めないだろう。

「ねぇ、アトラスの後継者。俺は目的の為なら捨てられるよ、たとえそれが大変な事でもね。でも、絶対に手放せないものもあるんだ・・・貴方もだよね、アイアコス殿?」

 アイアコスは頷いた。何者か分からない彼は、それでもアイサースなどより上等な存在であると確信している。でなければ、此処まで入り込む事は不可能だ。エリシオンの将軍・アトラスの屋敷は優しく門戸を開くが、甘くは無い。

 彼は、名乗る。自分が何者なのか、何故やって来たのか。侵入するという危険を冒してまで。

 アイアコスは目を見張る。彼のやろうとしている事は、彼自身と彼の大切な者の為、無謀とも思える事だ。だが、彼の瞳は強い意志に満ちている。

 そして、二人は約定を結ぶ。アイアコスの空色の瞳が、夜明けに似た青紫の瞳を信頼した瞬間であった。

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