食い逃げ妖精、百年眠ったケーキを起こしてしまう。
森の奥に、百年間閉ざされた菓子店があった。
扉には蔦が絡み、窓には灰色の埃が積もっている。
看板の文字は半分消えていた。
けれど、その店の煙突からは、百年に一度だけ甘い匂いが流れる。
焼けた砂糖。
古い蜂蜜。
薔薇の蜜。
それから、長い眠りの匂い。
その日、リリィはタルムの甲羅の上にある小さな家で昼寝をしていた。
窓から甘い匂いが入ってくる。
リリィは目を開けた。
「お菓子だ」
家を飛び出す。
タルムは森の道を歩いていた。
「どこへ行くんだい」
「いい匂いのところ」
「帰ってくるかい」
「食べたらね!」
リリィは甘い匂いを追い、森の奥へ飛んだ。
木々の間に、古い店が見えた。
扉は閉じている。
リリィは窓の隙間から中へ入った。
店の中は静かだった。
丸い卓。
銀の皿。
壁に並んだ菓子型。
棚には、色の抜けた砂糖菓子が眠っている。
砂糖の鳥は羽を閉じていた。
飴細工の魚は泳ぐのをやめていた。
焼き菓子の兵隊たちは、揃って壁にもたれている。
店の奥に、大きなケーキがあった。
三段重ね。
白い砂糖衣で覆われ、側面には薔薇の花が百輪並んでいる。
一段目には春の薔薇。
二段目には夏の薔薇。
三段目には秋の薔薇。
一番上には、冬の白薔薇が一輪だけ載っていた。
ケーキの前には、小さな札が立っている。
『百年目の朝まで、起こさないこと。』
リリィは札を見た。
「ケーキだ」
それ以外は読まなかった。
ケーキの周りを飛ぶ。
白い砂糖衣には埃がついていない。
薔薇の花びらも、作られたばかりのようにつやつやしている。
リリィは指で砂糖衣をすくった。
少し固い。
口へ入れる。
しゃり。
砂糖の甘さの奥に、薔薇の香りがあった。
「おいしー!」
金色の粉が、ケーキの側面へぱらぱら落ちた。
砂糖の薔薇が一輪、わずかに開いた。
リリィは気づかなかった。
もう一口食べる。
白い砂糖衣の下から、淡い桃色の生地が見えた。
リリィはそこへ顔を近づけた。
薔薇の蜜を練り込んだ生地。
薄い層の間には、金色の蜂蜜クリームが挟まっている。
一口かじる。
ふわり。
百年間眠っていたとは思えないほど柔らかい。
蜂蜜の濃い甘さ。
薔薇の香り。
少しだけ、夜明け前の冷たさ。
「おいしー!」
金色の粉が、今度はケーキ全体へ広がった。
一輪。
二輪。
三輪。
砂糖の薔薇が、順番に開き始める。
春の薔薇。
夏の薔薇。
秋の薔薇。
百輪の花が、静かに目を覚ました。
店の壁で、古い時計が一度だけ鳴った。
ぼん。
リリィが振り返る。
時計の針は止まったままだった。
「鳴ったね」
それから、またケーキを食べた。
店の奥で、小さな音がした。
ぱき。
棚に並んだ砂糖の鳥が、羽を開いた。
飴細工の魚が、瓶の中で尾を振った。
焼き菓子の兵隊が、一人ずつ姿勢を正す。
ぱき。
ぱき。
ぱき。
店じゅうのお菓子が動き始めた。
砂糖の鳥が天井を飛ぶ。
飴の魚が空中を泳ぐ。
焼き菓子の兵隊たちは、卓の上へ整列した。
リリィは桃色の生地を頬張りながら見上げた。
「起きた」
店の床が揺れた。
古い椅子が、ひとりでに卓へ寄る。
銀の皿が並ぶ。
茶器が棚から飛び出し、湯気のない茶を注いだ。
壁の時計が、もう一度鳴る。
ぼん。
今度は、針が少し動いた。
百年前。
この店では、大きな祝いが開かれるはずだった。
森の国の王女が、百歳の誕生日を迎える祝い。
ケーキはそのために作られた。
けれど、祝いの朝。
王女は眠りの呪いにかかった。
城も眠った。
森も眠った。
菓子店の主人は、祝いのケーキへ魔法をかけた。
王女が目覚める日まで、ケーキも眠るように。
それから百年が過ぎた。
本当なら、その朝に目覚めるはずだった。
けれど、朝はまだ来ていない。
今は昼過ぎだった。
ケーキだけが、先に起きてしまった。
リリィは知らなかった。
もちろん、気にもしていなかった。
ケーキの穴へ頭を入れ、蜂蜜クリームを舐めている。
そのとき。
店の奥にある扉が開いた。
中から、背の低い老人が出てきた。
白い髪。
白い眉。
白い前掛け。
百年間眠っていた菓子職人だった。
老人は目をこすった。
「朝か」
窓の外を見る。
陽は高い。
「昼だな」
卓を見る。
動き回る菓子を見る。
目覚めたケーキを見る。
そして、ケーキの側面から足だけ出しているリリィを見る。
老人はしばらく黙った。
「朝ではないな」
リリィはケーキの中から顔を出した。
口の周りに蜂蜜クリームがついている。
「おはよう」
「昼だ」
「そうだね」
老人はケーキへ近づいた。
側面に、大きな穴が開いている。
百輪の砂糖薔薇は、すべて咲いている。
一番上の白薔薇だけが、まだ閉じていた。
老人の眉が震えた。
「おまえが起こしたのか」
「食べたよ」
「食べたかどうかではない」
「おいしかったよ」
「それも聞いていない」
老人は額へ手を当てた。
そのとき、店の外から鐘の音が聞こえた。
遠い。
森の向こう。
眠っていた城の鐘だった。
ぼん。
一度。
ぼん。
二度。
ぼん。
三度。
鐘の音に合わせ、森の鳥が目を開ける。
眠っていた花が咲く。
蔦に埋もれていた道が、ゆっくり姿を現す。
老人は窓へ駆け寄った。
「城まで起き始めた」
リリィはケーキをもう一口食べた。
「よかったね」
「よくない!」
老人が振り返る。
「まだ王女は起きていない!」
「どうして?」
「冬の白薔薇が開いていないからだ」
老人はケーキの最上段を指差した。
白い砂糖薔薇は固く閉じたままだった。
百年目の朝。
最初の陽がその花へ当たり、王女の眠りを解くはずだった。
ところがケーキは昼に起こされた。
朝の光は、もうない。
城は半分だけ目覚めている。
兵士は立ち上がったまま眠っている。
料理人は鍋を持ったまま眠っている。
馬は片目だけ開けている。
王女だけは、深い眠りの中にいた。
「夜まで待って、明日の朝を待つしかない」
老人が言った。
リリィは白薔薇を見上げた。
「食べられる?」
「食べるな!」
老人の声が店じゅうへ響いた。
砂糖の鳥が驚いて天井へぶつかった。
リリィは羽を広げ、最上段へ飛んだ。
白薔薇の前へ降りる。
近くで見ると、花びらの一枚一枚が薄い砂糖で作られている。
中心には、小さな金色の蕊が見えた。
リリィは匂いを嗅いだ。
何も匂わない。
「まだ寝てる」
「触るなと言っている!」
老人は梯子を持ってきた。
リリィは白薔薇の花びらへ指をかけた。
固い。
引いても開かない。
押しても動かない。
リリィは少し考えた。
それから、花びらの端をかじった。
ぱりっ。
老人が梯子から落ちた。
「食べた!」
白い砂糖は冷たかった。
甘さはほとんどない。
代わりに、朝霧のような味がした。
リリィはもう一口かじった。
中心の金色が少し見える。
「おいしー!」
金色の粉が、白薔薇へ降り注いだ。
閉じていた花びらが震える。
一枚。
また一枚。
白薔薇がゆっくり開いた。
けれど、中心には光がなかった。
老人が立ち上がる。
「やはり朝日がない」
リリィは花の中心を覗いた。
金色の蕊が、しょんぼり垂れている。
「暗いね」
「昼だからな」
「光があればいいの?」
「朝の光でなければ――」
リリィの羽に残っていた金色の粉が、ふわりと浮かんだ。
白薔薇の中心へ集まる。
小さな光になる。
薄い金色。
柔らかい。
窓から差す昼の光とは違う。
眠りから目を覚ましたばかりの、最初の光だった。
白薔薇が完全に開いた。
店の時計が動き出す。
かちり。
長い針が、一周する。
短い針も動く。
鐘が鳴った。
ぼん。
店の外が急に明るくなった。
森の上に、細い朝焼けが現れる。
昼の空の中へ、朝が一本だけ差し込んだ。
光は森を渡り、眠る城へ届いた。
城の一番高い塔。
窓辺の寝台。
そこに眠る王女の頬へ、金色の光が触れた。
王女が目を開けた。
城じゅうの鐘が鳴った。
兵士が動き出す。
料理人の鍋から湯気が上がる。
馬が二つの目を開ける。
城門がゆっくり開いた。
森の国は、百年ぶりに目を覚ました。
菓子職人は窓の外を見つめていた。
目に涙を浮かべている。
リリィは白薔薇の残りをかじった。
ぱりっ。
老人が振り返った。
「まだ食べるのか!」
「起きたからいいでしょ」
「祝いのケーキだぞ!」
「お祝いなら食べるよ」
「王女が先だ!」
そのとき、店の扉が大きく開いた。
城から兵士たちがやってきた。
百年間眠っていたので、鎧には蔦が絡んでいる。
先頭には王女がいた。
薄い金色の髪。
白い寝間着。
片方の靴だけ履いている。
「ケーキは?」
王女が聞いた。
老人は黙った。
ケーキを見る。
側面にはリリィが食べた大きな穴。
最上段の白薔薇も半分なくなっている。
リリィは蜂蜜クリームを舐めていた。
王女は目を丸くした。
「妖精がいる」
「リリィだよ」
「私のケーキを食べているの?」
「おいしいよ」
王女はケーキへ近づいた。
穴の横から、生地を少し取る。
口へ入れた。
百年前の祝い菓子は、まだ柔らかかった。
王女は笑った。
「本当だ」
老人は肩を落とした。
「祝いの前に、ほとんど食べられてしまいます」
「なら、早くみんなで食べましょう」
王女が言った。
店の前へ卓が並べられた。
城の者たち。
村人たち。
森の動物たち。
百年ぶりに目覚めた菓子たち。
みんなへケーキが配られた。
リリィも一切れ受け取った。
老人は皿を渡しながら言った。
「これは正式な一切れだ」
「さっきのもおいしかったよ」
「あれは無断だ」
「これも同じ味だよ」
老人の眉が上がった。
「先に食べた分の代金を払いなさい」
「ないよ!」
リリィは一切れを抱えて飛び上がった。
兵士たちが追いかける。
老人も走る。
王女は笑いながら見送った。
リリィは森の上を飛んだ。
甲羅の上に小さな家を載せたタルムが、ようやく菓子店へ着くところだった。
「お祝いだったのかい」
タルムが聞いた。
「百年前のだよ」
「ずいぶん遅れたねえ」
「ケーキは待ってたよ」
それから森の国では、祝いのケーキを前の晩から眠らせる習慣ができた。
誰かが早く起こしてしまっても、朝まで待たなくていいように。
ただし、ケーキのそばには必ず小さな札が置かれた。
『妖精より先に食べること。』
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