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食い逃げ妖精、指名手配中

食い逃げ妖精、百年眠ったケーキを起こしてしまう。

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/07/24


森の奥に、百年間閉ざされた菓子店があった。


扉には蔦が絡み、窓には灰色の埃が積もっている。


看板の文字は半分消えていた。


けれど、その店の煙突からは、百年に一度だけ甘い匂いが流れる。


焼けた砂糖。


古い蜂蜜。


薔薇の蜜。


それから、長い眠りの匂い。


その日、リリィはタルムの甲羅の上にある小さな家で昼寝をしていた。


窓から甘い匂いが入ってくる。


リリィは目を開けた。


「お菓子だ」


家を飛び出す。


タルムは森の道を歩いていた。


「どこへ行くんだい」


「いい匂いのところ」


「帰ってくるかい」


「食べたらね!」


リリィは甘い匂いを追い、森の奥へ飛んだ。


木々の間に、古い店が見えた。


扉は閉じている。


リリィは窓の隙間から中へ入った。


店の中は静かだった。


丸い卓。


銀の皿。


壁に並んだ菓子型。


棚には、色の抜けた砂糖菓子が眠っている。


砂糖の鳥は羽を閉じていた。


飴細工の魚は泳ぐのをやめていた。


焼き菓子の兵隊たちは、揃って壁にもたれている。


店の奥に、大きなケーキがあった。


三段重ね。


白い砂糖衣で覆われ、側面には薔薇の花が百輪並んでいる。


一段目には春の薔薇。


二段目には夏の薔薇。


三段目には秋の薔薇。


一番上には、冬の白薔薇が一輪だけ載っていた。


ケーキの前には、小さな札が立っている。


『百年目の朝まで、起こさないこと。』


リリィは札を見た。


「ケーキだ」


それ以外は読まなかった。


ケーキの周りを飛ぶ。


白い砂糖衣には埃がついていない。


薔薇の花びらも、作られたばかりのようにつやつやしている。


リリィは指で砂糖衣をすくった。


少し固い。


口へ入れる。


しゃり。


砂糖の甘さの奥に、薔薇の香りがあった。


「おいしー!」


金色の粉が、ケーキの側面へぱらぱら落ちた。


砂糖の薔薇が一輪、わずかに開いた。


リリィは気づかなかった。


もう一口食べる。


白い砂糖衣の下から、淡い桃色の生地が見えた。


リリィはそこへ顔を近づけた。


薔薇の蜜を練り込んだ生地。


薄い層の間には、金色の蜂蜜クリームが挟まっている。


一口かじる。


ふわり。


百年間眠っていたとは思えないほど柔らかい。


蜂蜜の濃い甘さ。


薔薇の香り。


少しだけ、夜明け前の冷たさ。


「おいしー!」


金色の粉が、今度はケーキ全体へ広がった。


一輪。


二輪。


三輪。


砂糖の薔薇が、順番に開き始める。


春の薔薇。


夏の薔薇。


秋の薔薇。


百輪の花が、静かに目を覚ました。


店の壁で、古い時計が一度だけ鳴った。


ぼん。


リリィが振り返る。


時計の針は止まったままだった。


「鳴ったね」


それから、またケーキを食べた。


店の奥で、小さな音がした。


ぱき。


棚に並んだ砂糖の鳥が、羽を開いた。


飴細工の魚が、瓶の中で尾を振った。


焼き菓子の兵隊が、一人ずつ姿勢を正す。


ぱき。


ぱき。


ぱき。


店じゅうのお菓子が動き始めた。


砂糖の鳥が天井を飛ぶ。


飴の魚が空中を泳ぐ。


焼き菓子の兵隊たちは、卓の上へ整列した。


リリィは桃色の生地を頬張りながら見上げた。


「起きた」


店の床が揺れた。


古い椅子が、ひとりでに卓へ寄る。


銀の皿が並ぶ。


茶器が棚から飛び出し、湯気のない茶を注いだ。


壁の時計が、もう一度鳴る。


ぼん。


今度は、針が少し動いた。


百年前。


この店では、大きな祝いが開かれるはずだった。


森の国の王女が、百歳の誕生日を迎える祝い。


ケーキはそのために作られた。


けれど、祝いの朝。


王女は眠りの呪いにかかった。


城も眠った。


森も眠った。


菓子店の主人は、祝いのケーキへ魔法をかけた。


王女が目覚める日まで、ケーキも眠るように。


それから百年が過ぎた。


本当なら、その朝に目覚めるはずだった。


けれど、朝はまだ来ていない。


今は昼過ぎだった。


ケーキだけが、先に起きてしまった。


リリィは知らなかった。


もちろん、気にもしていなかった。


ケーキの穴へ頭を入れ、蜂蜜クリームを舐めている。


そのとき。


店の奥にある扉が開いた。


中から、背の低い老人が出てきた。


白い髪。


白い眉。


白い前掛け。


百年間眠っていた菓子職人だった。


老人は目をこすった。


「朝か」


窓の外を見る。


陽は高い。


「昼だな」


卓を見る。


動き回る菓子を見る。


目覚めたケーキを見る。


そして、ケーキの側面から足だけ出しているリリィを見る。


老人はしばらく黙った。


「朝ではないな」


リリィはケーキの中から顔を出した。


口の周りに蜂蜜クリームがついている。


「おはよう」


「昼だ」


「そうだね」


老人はケーキへ近づいた。


側面に、大きな穴が開いている。


百輪の砂糖薔薇は、すべて咲いている。


一番上の白薔薇だけが、まだ閉じていた。


老人の眉が震えた。


「おまえが起こしたのか」


「食べたよ」


「食べたかどうかではない」


「おいしかったよ」


「それも聞いていない」


老人は額へ手を当てた。


そのとき、店の外から鐘の音が聞こえた。


遠い。


森の向こう。


眠っていた城の鐘だった。


ぼん。


一度。


ぼん。


二度。


ぼん。


三度。


鐘の音に合わせ、森の鳥が目を開ける。


眠っていた花が咲く。


蔦に埋もれていた道が、ゆっくり姿を現す。


老人は窓へ駆け寄った。


「城まで起き始めた」


リリィはケーキをもう一口食べた。


「よかったね」


「よくない!」


老人が振り返る。


「まだ王女は起きていない!」


「どうして?」


「冬の白薔薇が開いていないからだ」


老人はケーキの最上段を指差した。


白い砂糖薔薇は固く閉じたままだった。


百年目の朝。


最初の陽がその花へ当たり、王女の眠りを解くはずだった。


ところがケーキは昼に起こされた。


朝の光は、もうない。


城は半分だけ目覚めている。


兵士は立ち上がったまま眠っている。


料理人は鍋を持ったまま眠っている。


馬は片目だけ開けている。


王女だけは、深い眠りの中にいた。


「夜まで待って、明日の朝を待つしかない」


老人が言った。


リリィは白薔薇を見上げた。


「食べられる?」


「食べるな!」


老人の声が店じゅうへ響いた。


砂糖の鳥が驚いて天井へぶつかった。


リリィは羽を広げ、最上段へ飛んだ。


白薔薇の前へ降りる。


近くで見ると、花びらの一枚一枚が薄い砂糖で作られている。


中心には、小さな金色の蕊が見えた。


リリィは匂いを嗅いだ。


何も匂わない。


「まだ寝てる」


「触るなと言っている!」


老人は梯子を持ってきた。


リリィは白薔薇の花びらへ指をかけた。


固い。


引いても開かない。


押しても動かない。


リリィは少し考えた。


それから、花びらの端をかじった。


ぱりっ。


老人が梯子から落ちた。


「食べた!」


白い砂糖は冷たかった。


甘さはほとんどない。


代わりに、朝霧のような味がした。


リリィはもう一口かじった。


中心の金色が少し見える。


「おいしー!」


金色の粉が、白薔薇へ降り注いだ。


閉じていた花びらが震える。


一枚。


また一枚。


白薔薇がゆっくり開いた。


けれど、中心には光がなかった。


老人が立ち上がる。


「やはり朝日がない」


リリィは花の中心を覗いた。


金色の蕊が、しょんぼり垂れている。


「暗いね」


「昼だからな」


「光があればいいの?」


「朝の光でなければ――」


リリィの羽に残っていた金色の粉が、ふわりと浮かんだ。


白薔薇の中心へ集まる。


小さな光になる。


薄い金色。


柔らかい。


窓から差す昼の光とは違う。


眠りから目を覚ましたばかりの、最初の光だった。


白薔薇が完全に開いた。


店の時計が動き出す。


かちり。


長い針が、一周する。


短い針も動く。


鐘が鳴った。


ぼん。


店の外が急に明るくなった。


森の上に、細い朝焼けが現れる。


昼の空の中へ、朝が一本だけ差し込んだ。


光は森を渡り、眠る城へ届いた。


城の一番高い塔。


窓辺の寝台。


そこに眠る王女の頬へ、金色の光が触れた。


王女が目を開けた。


城じゅうの鐘が鳴った。


兵士が動き出す。


料理人の鍋から湯気が上がる。


馬が二つの目を開ける。


城門がゆっくり開いた。


森の国は、百年ぶりに目を覚ました。


菓子職人は窓の外を見つめていた。


目に涙を浮かべている。


リリィは白薔薇の残りをかじった。


ぱりっ。


老人が振り返った。


「まだ食べるのか!」


「起きたからいいでしょ」


「祝いのケーキだぞ!」


「お祝いなら食べるよ」


「王女が先だ!」


そのとき、店の扉が大きく開いた。


城から兵士たちがやってきた。


百年間眠っていたので、鎧には蔦が絡んでいる。


先頭には王女がいた。


薄い金色の髪。


白い寝間着。


片方の靴だけ履いている。


「ケーキは?」


王女が聞いた。


老人は黙った。


ケーキを見る。


側面にはリリィが食べた大きな穴。


最上段の白薔薇も半分なくなっている。


リリィは蜂蜜クリームを舐めていた。


王女は目を丸くした。


「妖精がいる」


「リリィだよ」


「私のケーキを食べているの?」


「おいしいよ」


王女はケーキへ近づいた。


穴の横から、生地を少し取る。


口へ入れた。


百年前の祝い菓子は、まだ柔らかかった。


王女は笑った。


「本当だ」


老人は肩を落とした。


「祝いの前に、ほとんど食べられてしまいます」


「なら、早くみんなで食べましょう」


王女が言った。


店の前へ卓が並べられた。


城の者たち。


村人たち。


森の動物たち。


百年ぶりに目覚めた菓子たち。


みんなへケーキが配られた。


リリィも一切れ受け取った。


老人は皿を渡しながら言った。


「これは正式な一切れだ」


「さっきのもおいしかったよ」


「あれは無断だ」


「これも同じ味だよ」


老人の眉が上がった。


「先に食べた分の代金を払いなさい」


「ないよ!」


リリィは一切れを抱えて飛び上がった。


兵士たちが追いかける。


老人も走る。


王女は笑いながら見送った。


リリィは森の上を飛んだ。


甲羅の上に小さな家を載せたタルムが、ようやく菓子店へ着くところだった。


「お祝いだったのかい」


タルムが聞いた。


「百年前のだよ」


「ずいぶん遅れたねえ」


「ケーキは待ってたよ」


それから森の国では、祝いのケーキを前の晩から眠らせる習慣ができた。


誰かが早く起こしてしまっても、朝まで待たなくていいように。


ただし、ケーキのそばには必ず小さな札が置かれた。


『妖精より先に食べること。』


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